字足らずな僕にだけ積もる言の雪

斗話

字足らずな僕にだけ積もる言の雪

 僕は、受け取ったものしか返すことができない。幼い頃に遊んだ積み木のように、与えられた個数の中で、自分が作りたいものを作らなくちゃならない。神様が勝手に作った、僕と彼女の間だけにあるルール。いや、破ることができないし、それは僕にのみ課せられたものだから、機能と言ったほうがいいのかもしれない。とは言っても、全ての積み木を使ったことがない僕には、関係のない話だ。


 肌を刺すような寒さから身を守るように、学生鞄を抱え込み、背中を丸めて歩く。昨晩の積もるほどでもない雪のせいで、ところどころ地面が凍っていた。僕は足を滑らせないように気をつけながら、いつから雪という現象に感動しなくなったのだろう、とぼんやり考えていた。小学生の頃は雪だるまを作ったりなんかしてはしゃいでいたし、中学生の頃は雪合戦で盛り上がったはずだ。高校二年生の今は……降るだけ降っておいて銀世界を見せてくれるわけでもなく、ただいつもの道を悪路に変えるだけの現象に、苛立ちさえ覚えている。どうせなら積もってくれればいいのに。

「どうせなら積もってくれればいいのに!」

 聞き慣れた、太陽に向かってまっすぐ伸びるひまわりのような声が横に並ぶ。

「はるきち、おはよ!」

 声の主、速水さくらが僕の顔を覗き込み、無邪気に笑った。僕は「うい」と曖昧に返事をしながら、もっと体を縮こませる。寒さによってではなく赤くなった頬をマフラーで隠す。

 さくらはマフラーもせず、「息が真っ白だよ!」と、くりっとした目を輝かせる。僕の肩ほどしか身長のない彼女は、小動物みたいで可愛い。そしていつも無邪気で、ちょっとだけ抜けている。今日だって、ショートカットの髪の頭頂部がピョンと跳ねていた。

「アホ毛」

 僕が頭頂部を指差すと、さくらは「マジか!」と言って手櫛で少し癖のある髪をとかした。僕は横目でその様子を見ながら、ハムスターみたいだなと思う。

「どう? なおった?」

「なおった」

「見てないじゃん!!」

 僕は彼女の上目遣いにめっぽう弱い。小学生の頃から僕の方が大きかったはずなのに、そう感じるようになったのはいつからだろう。多分、上目遣いという言葉を知った時だ。

「おはよー」

 僕たちの横を眠そうな女子生徒が通過する。

「おはよ! また徹夜したの?」

 さくらはそう言って、僕より少しせっかちに歩く女子生徒の横に並んだ。

 待って。僕はただ心の中で呟く。

 想いが通じたのか、さくらが振り返る。

「じゃあね、はるきち!」

 太陽のような笑顔で彼女が手をあげる。僕が軽く手を上げると、再び女子生徒との会話に戻った。僕の願いはいつも届かない。


 そして僕は、プラス57、マイナス7、今日の残りは128、とカウントする。


 僕は、受け取ったものしか返すことができない。前日(正確には最後に会話をした日)に彼女――速水さくらが僕に向けて話した文字数が、その日に僕が彼女に話すことができる文字数の制限になる。例えば、僕は今、「うい」と「アホ毛」、「なおった」の合計7文字を使った。昨日さくらが僕に言った文字数の合計は、135文字。だから、今日僕がさくらに向けて喋れるのは、あと128文字。

このルールは、僕が勝手に自分に課している、例えば毎日の筋トレだとか、そういう類のものではない。

 ――文字数を使いきってしまうと、僕は本当に喋れなくなる。

 だから僕は、さくらとの会話にはなるべく短い言葉を使う。もともとお喋りな方ではなかったし、さくらが一方的に喋ることがほとんどなので、ほとんど会話に困ることはない。余った文字数が翌日に繰り越されることはないので、若干勿体無いような気分になる毎日だが、別にそれでよかった。ただ彼女と会話ができればそれでよかった。


 放課後、さくらから「一緒に帰ろう!」と誘われた。教室に残っていた数名の生徒の視線が少し恥ずかしくて、「なんで?」と返してしまう。3文字、無駄になる。彼女は「別にいいじゃん。ほら、帰ろう」となんだか少し気まずそうに、教室を出て行ってしまった。僕は急いで彼女の後を追う。さくらが一緒に帰ろうという日は、たいていが悩み事の相談(というかストレス発散)が目的だ。部活の先輩がめんどくさいだとか、テストの結果が散々だったとか。だから、まさか恋愛相談をされるなんて思ってもいなかった。

「それでね、その錦先輩って人がすごいかっこよくて」

「うん。それは分かったんだけど、要するに先輩に彼女いるか聞いてこいってこと?」

「そう! お願い!」

  さくらが頭の前で手を合わせる。

「確かに錦先輩は図書委員だけど、ほとんど喋ったこともないし」

「そこをなんとか!」

「そもそもそんなこといきなり男の後輩から聞かれた気まずいだろ。僕が変なやつだと……」

 さくらが合わせてた両手を解き、潤んだ瞳で僕を見つめる。よくない。

 僕は大袈裟にため息を吐き、アメリカのコメディドラマのように肩を上げて見せる。今日の残りは、あと28文字。家はもうすぐそこだ。

「分かったよ」

 さくらの顔がパッと明るくなる。

「ほんと!?」

 僕は頷く。さくらの嬉しそうな顔が見えれた喜びと、嫌な約束をしてしまった後悔が同時にやってくる。どう考えても、割に合わない。


 翌日、学校の図書館に寄ると、幸か不幸か、錦先輩が貸し出しカウンターで本を読んでいた。

 黒縁メガネで、痩身。全身から知的なオーラが漂っている。制服のネクタイが少しでも緩んでいようものなら、一瞬で指摘されそうだ。

「貸し出し?」

 錦先輩は、本から顔を上げずに言う。

「あ、いえ、ちょっと聞きたいことがあって」

「何?」

 草木を覆う霜のような声だ。

「あーえっと、なんというか……こんなこといきなり聞くのもどうかとは思うんですけど」

 さくらとの会話のように、文字数制限が無いからか、僕は余計な言葉を羅列する。

「先いいよ」

 それは僕の後ろに並んでいた生徒に向けられた言葉だった。少しの間、僕は慣れた手つきで貸し出し処理を行う錦先輩の細い指先を見ていた。さくらはこういう人が好きなのか。

「で、聞きたいことって?」

 錦先輩が再び本を開きながら言う。

「先輩って、彼女とかいるんですか?」

「いないよ」

 僕の願いは叶わなかったようだ。

「あ、じゃあ後輩とかってありですか?」

「聞きたかったことってそんなこと?」

 そんなことって。さくらにとって……僕にとっては大事なことだ。

「……そんなことです」

「別に同級生がいいとか、そういうのは無いよ。好意をもってくれるのは、男子であれ女子であれ嬉しいし」

「先輩、モテそうですもんね」

 つい余計な言葉を吐いてしまう。

「自分がモテるとかそういうのは分からないけど……晴良君は、かなりモテそうだ」

 錦先輩は少しだけ微笑み、読書を再開する。僕の名前、覚えてくれてたのか。しかも下の名前。きっと今、僕はとても見ていられない顔をしている。圧倒的敗北とでも言おうか。いや、よくよく考えれば、僕は同じ土俵にすら立てていない。僕は「ありがとうございます」と情けなく言い残し、図書館を後にする。


 一週間と二日が過ぎた。自分でもよく分からないが、僕は先輩に彼女はいなかったという事実を、胸の中にしまっておいた。さくらが「どうだった?」と聞いてくる度に、僕は「ごめん、まだ」とはぐらかした。そして心のどこかで、このまま錦先輩が好きだった事を忘れてくれはしないかと願っていた。根拠はないが、さくらなら「そんな時期もあったね」とあっけらかんと笑ってくれるんじゃないかと思っている。

「錦先輩、彼女いないんだって」

 夕暮れのオレンジに染まった街を横並びに歩きながら、さくらはポツリと呟いた。

「え? あ、良かったじゃん」

 誰か他の生徒から聞いたのだろう。僕の願いはいつも届かない。

「うん、良かった……」

 いつものように快活なさくらではなかった。今日の残りはあと87文字。もし僕が早く聞かなかったことに怒っているなら、うまく弁解しなければならない。

「どうしたの?」

「クリスマス、先輩誘ってみようかと思って……」

「そっか」

 怒ってる訳ではないことに安堵しつつ、今度は別の不安が押し寄せてくる。

「まぁ、私なんかが告白してもし勝算ないかー」

 告白。その言葉を聞いて、ようやく僕の中で実感としての焦りが湧き上がってくる。このままでは、さくらが誰かの彼女になってしまう。

「でも」

 さくらは一般論として可愛いし、誰にでも愛される無垢な性格も魅力的だ。百パーセントなんて言えないけど、それなりに勝算はあるんじゃないかな。と、ただの友達である僕は言葉を繋ぐべきなのに。

「錦先輩、後輩とかはあんま興味ないって言ってたよ」

「え? そうなの?」

 さくらの顔に翳りが差して、僕はしまった、と思う。残り、46文字。

「今日たまたま聞いたんだ。だからさ……」

「だから?」

「諦めた方がいいんじゃないかな」

 さくらの足が止まる。

「なんでそんな言い方するの」

「なんでって……」

 残りの文字数は11文字。

 そりゃ、君が好きだから。

「……はるきちは私の恋愛なんて興味ないもんね。そりゃそうだよね。いっつも適当な相槌ばっかりだし」

「別にそんなこと」

 残り3文字。

「そんなことあるよ。私ばっかり喋って、めんどくさかったよね。ごめんね」

 さくらが早足で歩き出す。

「待って」

 残り0文字。

 さくらの足は止まらない。今さくらを引き止めても、僕はどんな言葉も伝えることができない。もっと文字数があれば。今まで僕が使わなかった文字数を使わせてくれよ。後悔が足元に積もり、僕の両足は泥濘にはまったように動かなくなる。さくらの小さな背中を見つめながら、しばらく僕は立ち尽くした。街はいつの間にか夜の黒に染まっていた。


 それから、さくらとはなんだか気まずい日々が続いた。せいぜい交わすのは挨拶くらいで、あの日のことを謝ろうにも、さくらから言葉を受け取らなければ、僕から話そうにも話せない。


「長期貸し出しなので、冬休み明けに返却してください」

 僕は図書館の貸し出しカウンターに座りながら、機械的に業務をこなしていく。頭の中では、さくらに言われた言葉を何度も繰り返していた。

 ――私、明日の放課後、屋上で錦先輩に告白しようと思ってる。

 昨日も僕は何も言えず、なんだか寂しそうに去っていくさくらの背中を見送ることしかできなかった。カウンター上のデジタル時計は、十六時を表示している。今頃、錦先輩に思いを伝えているだろうか。さくらには幸せになってほしいなと思っている。できるだけ悲しい思いをしないでいて欲しい。だけど少しだけ、錦先輩が断ってはくれないかとも考えてしまう。そうなれば僕が……いや、無理か。

 貸し出しカウンターを、誰かの指がコンコンと鳴らす。

「あ、すみません。貸し出し……」

 顔を上げると、そこに立っていたのは錦先輩だった。

「何ぼけっとしてるの」

「す、すみません。なんで錦先輩がいるんですか?」

「何でって、本借りに来たんだよ」

 錦先輩が数冊の単行本をカウンターに置く。

「え、でもさくらは?」

「さくら?」

「速水さくらです。錦先輩、今日屋上に呼び出されて……」

「屋上? 何のこと?」

「いやだから、さくらが」

「申し訳ないが、僕はそのさくらさんという子を知らない。もしかしたら顔を見れば分かるかもしれないけど。そして屋上に呼び出されたりなんかもしてない」

 じゃあどうして昨日、あんな宣言じみたことをわざわざ僕に言ったのだろう。

 僕はハッとして席を立った。さくらが屋上で待ってる。

「あ、あの! 錦先輩、十分だけでいいので、シフト代わってくれませんか!」

 錦先輩は突然焦り出した僕に少しだけ驚き、そして何も言わずカウンター内に入ってくる。

「十分だけだぞ」

「ありがとうございます!!」

 僕は頭を下げ、屋上に向かって走り出した。


 階段を駆け上がる。一段、二段、三段、四段。さくらから貰った言葉たちを数えるように、段数をカウントしていく。いつからから、ささいな数字を数えるのがくせになっていた。赤信号で止まった数、通り過ぎる人の数、僕が言葉を噤んだ数。数えるだけ数えて、次の日には忘れている。さくらからもらった言葉の数以外は。

 三十段、三十二段、三十四段。

 屋上へ繋がる鉄扉が見えた。僕は階段を登り切り、呼吸を整える。鼓動が激しいのは、ここまで走ってきたからだ。ドクドクと心臓が二つ刻みに鳴っている。走ってきた分と、もう一つがあるだろう? と言われているような気がした。

 目を瞑り、深呼吸をする。鉄扉に手をかけた時、白々しく冷たい感触とともに、悪い予感がよぎった。もしかしたらさくらはいないかもしれない。僕がやってこないことを悟って、帰ってしまっているかもしれない。そもそも、今日告白することをやめただけという可能性だってある。扉を開ければ答えは分かる。一方で、開けなければ答えを知らずに済む。うやむやにしたまま、また変わらない日常に戻れる。挨拶を交わし、軽い冗談で笑って、手を伸ばせば触れることのできる距離で、一緒にいれる。

 僕は、なぜ神様が、僕に受け取った数と同じだけの言葉しか伝えられないように仕組んだのか考えた。きっと、答えはすごくシンプルだと思う。今はそう思う。38文字。僕は心の中で今日さくらに伝えられる文字数を確認し、扉を開けた。


「遅いよ」

 フェンスに指をかけ、遠くの空を眺めていたさくらがいたずらっぽく笑って振り返る。整えたはずの鼓動が、また騒ぎ出す。

「ごめん」

「空、曇ってるね。こりゃひと雨くるかもね」

 さくらは空を見上げながらつぶやく。

「そうだね」

 4文字無駄にする。

「そんなことより、何でにし……」

「はるきち」

 空を見上げたまま、さくらが言う。そして、クスクスと小さく笑い出した。

「どうして来てくれたの?」

「どうしてって……」

 残り11文字。

 そりゃ、君が好きだから。

 あの日、伝えられなかった言葉を僕は伝えたい。

「ねぇ、どうして?」

 そう言ってさくらが僕の方に向き直る。真剣な彼女の表情に、少しだけ僕は目線を逸らす。人はすぐには強くなれない。さっきまで用意していた言葉が喉の奥につっかえる。そんな自分を情けなく思う。意を決して、さくらに目線を戻す。さくらの顔は真剣で、それなのに、頭のてっぺんがぴょんとはねていて、僕は思わず笑ってしまう。

「え、どうしたの?」

 さくらもつられて笑う。

「アホ毛」

 僕がさくらの頭頂部を指すと、「うそ!」と言って、さくらは自分の頭を恥ずかしそうに手櫛で整えた。あぁ、貴重な3文字を使ってしまった。でも、無駄だとは思わない。僕はさくらに歩み寄り、そして抱きしめた。全身に伝わる温かさで、屋上がとても寒いことを実感する。さくらはこの寒空の下でずっと待ってくれていたのだろうか。僕はもう少しだけ、さくらを抱きしめる腕に力を込めた。

「何、急に」

 あと8文字。今の僕には、ちょうどいいかもしれない。

「好きです」

 もらった言葉を、過不足なく使いきれる日がいつかやってくる。

「遅いよ」

 彼女の顔は見えない、けれど、とても真剣で、暖かい声だった。

 ふと、頬に何かが当たる感触がした。腕をほどき、二人揃って空を見上げる。それは、雪だった。大粒の雪が、今まさに降り出したのだ。僕とさくらは目を合わせて微笑んだ。

「きっとこれは積もるよ」

 さくらは嬉しそうにそう言った。そして僕は、もう一度彼女を抱きしめる。

「……私も好きだよ」

 さくらがくれた言葉が僕の内側に溶け込んでいく。僕の願いが、初めて届いた瞬間だった。今日の雪は、きっと積もる。根拠のない希望でも、それでもいいと、今は思う。

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