1.召喚
部屋が蒸気で満たされる。堅牢な石造りの壁に瓶や道具が打ちつけられる。甲高い音が響き渡り熱い蒸気がシルヴィアの頬に容赦なく吹き付けられる。実験用のローブを来ていなければ蒸し焼きにされるのではないかと思う。時空を超えて人間を召喚すればそれだけの熱量が放たれるのだ。曇ったメガネを拭うと精密に書き込まれた魔法陣の中に何かが倒れていた。
その何かを確認する前に蒸気でメガネが曇る。細かく確認する暇はない。救国の勇者がおそらく目の前にいる、機嫌を損ねるわけにはいかない。まずは
「ようこそお越しくださいました。勇者様。」
跪き深々と頭を下げ言った。
「ええ?」
重厚な甲冑に身を包んだ勇者と思わしき男は混乱していた。
遡ること二か月前、私はとにかく蔵書を片っ端から読み漁っていた。
内容のわかる新しい本などと選り好みできる状態ではなかった。古い本もなんとか読んだしウィズバンは私より年上だから少し古い言語なら意味を知っていた。
また、古語は教養として貴族の中には詳しいものも多い。母の伝で古語に詳しい者に解読を依頼した。それより古い言語は二人で悩んでもわからなかったので教会に行って尋ねた。
それより古い言語は司祭でも知らなかったので教会の古語の本を無理やり持ち出して解読した。
そうして蔵書をしらみつぶしに当たっていると、本棚の隙間に一冊の本が落ちていた。
あまりの重労働に音を上げ壁際の本棚の裏に隠れたウィズバンが見つけ出したものだった。
積もって固まった埃を落とすと一際古そうな小さな本が出てきた。
その本は一部が掠れたり破れたりして到底読めるものではなかったし、何より一部文字と認識できる模様ですらも知らない文字だった。
教会から無理やり持ってきた古語の辞典にも乗っていない文字だった。
見た目も他の本よりもとりわけ古く謎に包まれていた。
「これは祖語じゃないか。」
とウィズバンは予想していた。
「古語の元になった文字かもしれないな。建国神話レベルの時代のモンだな。」
ここ200年は魔術の応用によって紙の大量生産が可能になったため本は庶民でも気軽に買えるものになったが、それ以前は本一冊があれば家が立つと言われたくらい本は高価なものだった。
それが建国神話時代のものとなるとさらに高価なものだっただろう。
王立書庫の地下に保管されていてもおかしくはない代物だ。
なぜここにこんなものがという感情とともに私は期待していた。
この本は何か大きな手がかりになるのではないかと。ここに書いてあることが私を、一族を、この国を。そして私の貴族としての豊かな生活を救うんだと。そう思って死ぬ気で読んだ。
けど何もわからなかった。しかし、一つの挿絵を見つけた。長い曲がった剣を持ってエビみたいな鎧を纏った人の絵を。私は確信した。これが我々を救う勇者であると。
こんな古い本にわざわざ挿絵が載っているのだから建国神話の時代に活躍した何者かだと。
本当は、私の一族の先祖を召喚したかった。祖先のすごい召喚術師を召喚すればその人が何か召喚してくれるんじゃないかと考えていた。
でもあまり時代を遡って召喚することが私にはできなくて100年程度遡ることしかできなかった。
100年前はすでに高度な魔術は衰退していたし確実じゃないかもしれない。
私と似たり寄ったりな能力の先祖なんか召喚しても困るしね。
だから一か八か、この絵の男と似た君を召喚したんだけど。
「君は本当に何もできないの?なにか魔術を極めたとか、武道を極めたとか、いろいろなことを知ってる、あとは高名な先祖がいるとか!」
「ないです。」
向で身を乗り出している女からの長い問いに対して英雄はキッパリと否定する。
「言い切ったか!」
女は椅子に倒れ込む。
「そんな凄いことはできないですし、実家もそんなに凄いところじゃないです。団地ですし。」
「団地とは身分の低い者が住む場所なのか?」
「そういうわけではないですけど。まあ、団地の子と遊んじゃいけないってママが言ってたからひでくんとはもう遊ばないって言われたりとかそういうのがあったりして別に家柄がいいとかじゃなくて…」
「つまり親が罪人ということか。」
「そういうことじゃないですっ!」
「じゃあなんなんだ!面倒臭いな君は!」
いきなり連れてこられて幼い頃の嫌な思い出がフラッシュバックした上に怒られる。理不尽極まりないとはこのことだ。
「俺は別に凄い人間じゃないです。ただの庶民ですよ。」
静かに答える。
「そうか…そうか。召喚は失敗だったか。まあ、しばらく本を読み漁ったところで上手くいくものではないな。」
と言いながら目の前の女はうなだれた。
「よくわからないけどトライアンドエラーですよ!諦めなければ次がありますから」
「君…」
少し意外そうな顔で女は英雄の方を見た。
「そうだな。昔からそうだ。私は天才でもなんでもないし失敗を繰り返して成長していくしかないんだ。いけないいけない。大事なことを忘れてたよ。よくおじいちゃんも同じことを言ってくれたな。」
すこし吹っ切れたような彼女は、大きなメガネをかけていて髪もボサボサで黄ばんだローブを着ているからわからなかったがよくみたら結構美人だと思った。
「いいお爺さんだったんですね。」
「父上とは仲が悪かったけど私にとっては最高のおじいちゃんでした。あんなおじいちゃんでも昔は父上と仲が良かったんだろうなと思うとその…」
当然これ以上話を聞く気はない。「あの、そろそろ帰っていいですか?」
「おじいちゃ…えっ、ええ、はい。帰って構いませんよ。ただかなり時空を歪めて召喚したので自分で帰るのは難しいかと。」
「じゃあ帰してもらっていいですか。」
前より少し大きな声で圧をかける。
するとメガネ女は「ですから、時空を歪めて召喚したので、こっちから引っ掛けて吊り上げるのと、吊りながら元の場所に戻すのはその難易度が結構違っててその理論上不可能ってわけじゃないんですけどその結構技術のいる作業で今の私にはちょっとできる自信がないっていうかでも私はこう見えて魔術得意なのでやってみますやって見せますけど今からっていうのはちょっとその準備が、資材もないですしその今回の召喚で体力とか色々使い切っちゃって…」などとしどろもどろもになり始めたので本格的に悪い予感がし始めた。
とりあえず私は硫黄の匂いがするので少し着替えてきますね。数十分意味のわからない専門用語を使って自分はもう元の世界には戻れないということを懇切丁寧に説明したのちに女は質疑応答を切り上げて部屋から去ってしまった。一人部屋に残された俺は天井を見上げるしかなかった。
前に出された飲み物を飲む。苦いような酸味があるような変な味がする。
毒かもしれないが何より喉が渇いていたし万が一毒だったとしてもそれはそれでこの状況から解放されるのであればそれもいいだろうと思った。
ただの異世界の飲み物の可能性もある。それにしてもあの女、勝手に召喚しておいてあの態度には腹が立つし弱そうなやつだしぶん殴ってやりたかったが、元の世界に戻すことができるのもおそらく彼女くらいなので変に関係を悪化させることは避けたい。
イライラしたせいで体が熱って着ていたレプリカの鎧が暑苦しく感じたので雑に脱ぎ捨てた。
鎧のくせに全然身を守れてないじゃないか。と思いながら兜を床に転がした。
祭りの武者行列に参加していたのは覚えているが特にそれ以上の記憶はない。気がついたら変な場所にいた。
これが巷で流行っている異世界転生というやつだろう。とりわけ好きなジャンルではないがたまに読んだことがある。こんなことになるならもう少し読んでおけば良かったと思ったが後の祭りだ。本当に祭りの後だし。
しかし、よく考えたらあり得ないことだ。異世界転生などあくまでフィクションであって実際にあるものではない。とすると、彼の混乱した脳内に明確な一つの答えが導き出される。
これは夢だ。
「オイ、おまえ着替えるんじゃなかったのか?」
使い魔は倉庫を漁る主人に質問する。
「着替えてるよ。」
シルヴィアは錆びた鎖帷子を古い木箱から引っ張り出そうとしながら答える。
「いやいや、それは」
と困惑する使い魔。
「ねえウィズバン、自分より体格に勝る相手を安全に殺す方法ってない?」
「面倒臭いからって殺して処理しようとするな!」
「変なやつを置いとくわけにはいかないでしょ。万が一他の奴らに知られたら謀反の疑いありと告発されて監獄行きだ。」
「人殺しも監獄行きだけどな。」
「だから魔術は使わないんだよ。儀式用の鶏の血って言い訳するから。」
「無理があると思うぞ…」
さっき召喚した男がいる部屋の前に来る。
「行くよ?いいね?もし仕留め損ったら燃やして。部屋が燃えると高くつくけど多少は問題ないわ。」
「」
人ではない使い魔ですら言葉を失う。しかし魔術師はそう言う奴が多い。
「3」
「2」
「1」
ドアを開ける。儀式で生贄の首を斬るときに使う鉈をローブの中に仕込んで部屋に踏み込む。
さっき召喚した男に確実に致命傷を与えられる場所まで近付けば良い。
テーブルの向こうに立っている男に近づく。悟られないように後ろをとるのだ。悟られぬように…
「あ、あの!」
男がいきなり大きな声を出す。
「えっ、あっ、ごめんなさい!」
なぜか謝る魔術師、呆れる使い魔。
いきなり大きな声で喋りかけられたせいで我に帰った彼女は恐る恐るなんですかと聞き返す。
「俺!勇者ではないですが何か力にはなれると思います。たとえば古い本に書いてある内容がわかったり。」
「えっ…」
意外な一言にシルヴィアはその場に立ち尽くす。
その場の空気が凍りつく。
「その、召喚されたってことは何か知ってるから召喚されたのかも。」
英雄もその空気にそまってしどろもどろになり始める。
「え、ああ、そうなんですね、確かにそうですよね。全く無意味な召喚のはずはないですからね!」
シルヴィアは隠していた鉈をもってあたふたする。
「あの、その刃物はなんですか?」
英雄が彼女が手に持っている不穏なモノを指差して尋ねる。
「えっと、あなたの武器です。どうぞ!」
刃の方を素手で掴んで鉈を差し出してきた。
気が動転しているのだろう。手には血が滲んでいた。
「何やってんだ前ら。」
至極真っ当な反応をするウィズバンであった。
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