──20── それはきっと恋ではなくて、
「……どうして」
静けさを壊すみたいに、ぽつっ、と震える声がした。膝頭を見下ろしたまま、美優が引きつった声を絞り出す。
「どうして、ひとりで勝手に通話なんかしたの」
「……ごめん」
「なんでケイティーが一人で、ゆりちと話したの」
「悪かった……」
「せめてうちが喋ってたら、まだ、説得できたかもしれないのに」
「っ……」
言葉が、出てこない。なにもかもその通りだと思った。
俺みたいなただの一部員じゃなくて、親友の美優なら、もっと大人の甕岡なら、血の繋がった母親なら。たった一本しかない糸を、衝動的に切ってしまうようなバカなことは、しなかったはずなのに。
美優が、ばっと顔を上げた。こぼれた涙が飛び散って、まだ呆然とした目が俺を見る。
「ねえ、なんで? なんで、勝手なことしたの」
「ごめん……」
「なんで……なんでよ、ケイティーのバカ、なんで、なんで……!」
どん、と机越しに肩口を叩かれて、ぐら、と上体が揺れる。頼りない、女の子の華奢な握りこぶしが、何度も何度も俺を叩いた。
「っ……なんでよ……ッ」
俺の胸元を、ずる、と美優の手が滑り落ちていく。それっきり、彼女は机に突っ伏して、背を震わせて泣き出してしまった。
「……美優」
伸ばした手が背中に触れる直前に、ぎゅっ、と手を握りしめる。美優がここまで取り乱したのを見るのは、初めてのことだった。どうすればいいかわからない。それでも、なにかしなければならない。彼女のために。
(でも──それは、どうして)
美優が女の子だから? 守らなきゃいけないから? 彼女が弱くてきれいで儚くて、けがれのない、すてきで特別な生き物だから?
わからない。うまく判断ができない。なにかが違う気がする。でも、なにが。
なにがなんだかわからない。すべきことはわかる、でも、その理由は正しいのだろうか。俺の信じてきたことは、わかっていると思っていたことは、これが世界の真実だと、心から、信念を捧げてきたことは。
ひぐっ、と喉を鳴らして、それから、美優が大きく息を吸う音がした。ふーっ、と震える息を長く吐く。突っ伏したつむじから、小さな声。
「……ごめん、ケイティー……うち、言い過ぎた」
「いや……」
ゆるりと上体を起こした美優は、まだ眼差しを下へ向けたまま、ぼんやりと膝頭を見つめていた。力なく落とした肩は頼りなく、彼女はか細い声を出す。
「ちょっと、やなことあって、弱ってたの」
「……やなこと?」
こくり、とうなずき。俺は黙って美優の続きを待った。
美優はためらいがちにくちびるを開いて、でも、またすぐに閉じてしまう。それを何度も繰り返して、そのたびに彼女の瞳は悲しそうに細まっていった。
そうして、ずいぶんと長いためらいの後。ようやく、彼女の呼吸が涙まじりの音を作った。震えた、小さな掠れ声。
「カメぴ……浮気、してるかも、しれない……っ」
「──え?」
それは──想定してなかった。
完全に想像の外から現れた情報に、俺はぽかんと目を見開く。美優はかすかに目元を歪めると、あのね、と言った。
「昨日の補講のあと、うち、カメぴの家に行ったの」
「あ、ああ……」
「そのとき、台所のモノの位置とか、変わってて。寝室にも入れてもらえなくて、なんか、ヘンで」
苦いものを必死で噛み砕くみたいな口調で、懸命に美優は続ける。胸元で握ったネイルの手が、かすかに震えていた。
「それで、どうしても不安になって……うち、夜遅くにもう一回、マンションの下まで行ってみたの」
「一人で⁉ 危ないだろ!」
「──だって確かめたかったんだもん!」
声を荒げた美優だったが、ぐす、と一度鼻をすすると、小さく首を振った。それでね、と小さな声。
「今どこにいるかは言わないまま、今からそっち行ってもいい、って、聞いて……」
ぽつ、ぽつ、とこぼされる言葉が、どんどん涙じみたものになっていく。美優は痛々しく表情を凍りつかせた。ふるえるくちびるが言う。
「そしたら、……留守だ、って」
「それは、その……たしかに昨日、甕岡さん、此倉街で仕事してたし──」
無言のまま、ハイトーンの明るい巻き髪が、ゆるゆると左右に揺れる。とても静かな声がした。
「部屋にね。明かりがついてた」
「明かり……」
「それで、カーテンの向こうに、ふたりぶんの人影が、か、重なっ、て……」
つっかえながら言う美優の目から、とうとうぼろっ、と涙がこぼれ落ちる。
(そんな──バカな)
うそだ。信じられない。だって、あのカメ兄が、そんなこと、するわけが。
「……もう、やだよ」
涙で震えた声に、はっ、とした。そうだ。今は俺なんかより、美優が先だ。
慌てて立ち上がり、机の横を通り抜ける。できるだけゆっくりと、美優の隣に歩み寄った。手を伸ばして、触れていいか少しだけ迷って、それでも、俺は美優の肩にそっと手を置いた。細い、華奢な肩だった。
「もう、やだ。なんでこんなことばっか起きるの」
「美優……」
なにか、なんでもいいからなにか、彼女を勇気づけるような言葉を言わなければ。そう思って、頭の中身を必死に整理する。今聞いた言葉をぜんぶ精査して、傷付いている彼女のため、なにかやさしくてきれいな現実を探そうとして、そして。
ふと、気がついた。
(──待てよ)
寝室に入れてもらえないって──なんだ。
ひゅっ、とどこか奥のほうが冷たくなる。甕岡は一人暮らしだ。そんな男の寝室に、女の子が入るって、それは。いやでも、だって美優は、『大人になるまで取っておく』って言ったのだ。だったら、なぜ。
「み──美優」
「っ……なに……」
「なんで、寝室なんかに入るんだ」
「──え?」
混乱がそのまま口からこぼれおちて、きょとん、と美優が顔を上げる。俺は乾いたくちびるを動かして、だって、と言った。
「だっておまえ、大人になるまでは、って」
美優が、ぱちぱち、と目を瞬かせる。大きな、ミルクティーみたいな色の瞳が、いっそ無垢な光を宿して俺を見上げていた。
「そうだよ。大人になるまでエッチはしない。だから、」
──手とか口とかでしか、してないよ。
その瞳に、甕岡への恋慕と、無垢な信頼をきらきらとにじませて。美優ははっきり、そう言ったのだ。
「ッ……」
絶句して、硬直するのを、止めることができなかった。言葉が、出てこない。ただ頭の中で、うまく表現できないなにかが、ひたすらぐるぐる渦を巻く。
(それは──なにか、違うんじゃ、ないのか)
俺の絶句に気づかぬまま、美優は顔を歪めて、泣きながら頬を濡らす。
「なんで、カメぴ……あんなに、優しかったのに」
ひくっ、と美優の喉が鳴る音。俺は返事ができない。
「いつもうちのこといい子だねって、かわいくて優しくてすてきな女の子だねって、まだけがれてない、きれいなままの、大切な恋人だって──言ってたのに」
「……っ」
その切々とした声の、聞き覚えしかない言葉たちを耳にして、俺の内側にこみ上げた、強烈な感情を。ちっともうまく言葉にできない。
ただ響いたのはゆりの声だ。通話越しに聞いた、いっそ冷たいほど落ち着いた、淡々とした、あの。
『──きもちわるかったから』
(でも、だって、そんなの)
だってそれは、俺が今まで、ずっと信じてきたことだ。本当だと思ってきたことだ。当たり前だと受け入れてきたことだ。
女の子はかわいい。
女の子はすてきだ。
女の子は儚くて、けがれてなくて、やわらかくてあったかくて優しくて、俺たちが守ってあげなきゃいけない、無垢できれいな存在で──、
『──女の子だって人間だろ』
「……ッ──‼」
それは頭のいちばん奥の部分を、思い切りぶん殴られたような感覚だった。まばたきの合間、まぶたの裏に、あのボックスプリーツが翻る。よみがえった、一ノ瀬のとても静かな声が、俺の深いところをまっすぐに貫いた。
俺がずっと知らなかった、見てこなかった、気付かなかった文脈が、はっきりとした輪郭をかたどって、俺の内側にひとつの理解を作っていく。
(一ノ瀬の……言う通りだ……)
この二日、此倉街で感じてきた違和感の正体。女の子として扱われるたびに感じた、言葉にできない嫌な感覚。
褒められてもおだてられても愛されても何かが違った。俺じゃないなにかを見る眼差し、物語を謳うような語り口、夢見るような目で『きみはすてきだ』と唱える大人たち。
違和感も、変だと思ったのも、違うと感じるのも、当たり前だ。だって。
『──女の子だって人間だろ』
女の子。かわいくて、やさしくて、やわらかくて、何もしなくても生まれつききれいで、ふわふわですべすべでいい匂いがして、無垢で儚く純粋で、〝そういうの〟なんかじゃない、けがれてなんかない──そんなものは。
おかしいのは当然だった。
だって俺たちの語る〝女の子〟なんて、この世界の、どこにも存在しなかったのだから。
しゃくりあげる泣き声が聞こえてくる。はっ、と背筋が覚醒する。気が付けば反射的に口を開いていた。
「ま──待ってくれ。それは、ちがう」
えっ、と美優が涙で濡れた顔を上げた。俺は表情を歪めて、ずきずきする心臓に耐えて、ちがう、ともう一度はっきり繰り返した。
君のそれは守られたんじゃない。大切にされてるんじゃない。
「美優。おまえが信じてるそれは、恋愛なんかじゃなくて──」
だって守るなら、未成年を寝室になんか連れて行かない。だって大切なら、深夜に自宅で誰かと一緒にいるのを、嘘を吐いてまで隠したりなんかしない。
本当に好きなら、大切なら、辻美優というひとりの少女のことを、少しでも人間だと、そう信じているのなら。それなら、こんなことは──絶対に。
「聞いてくれ、美優」
口を開くたびに血がにじむみたいな痛みに耐えて、必死で美優を説得する。それは違うんだと、恋なんかじゃないんだと、大切にされていたんじゃないんだと繰り返す。
ひとつ言葉を吐くたびに、美優の目が愕然と見開かれて、本当のことを言うたびに、その顔が絶望みたいなもので塗りつぶされていった。あんまりだと思った。
「だから、つまり──」
「……うそ。うそだよ」
「嘘じゃない。だって」
俺は懸命に彼女に言葉を伝えながら、今までの自分のすべてを振り返った。胸の奥が打ち据えられたみたいにじくじくして、後悔がにがくて、苦しくて、息が詰まった。
だって今、俺が美優に言い聞かせていることはすべて、かつての俺のあやまちだった。ぜんぶ自分が信じたことだった。
女の子。
きれいで、かわいくて、儚くて、けがれていない、〝そういうの〟じゃない、特別ですてきな存在。
そうやって彼女たちを人間じゃない何かとして持ち上げて、一方的に夢を見て、あげく身勝手に消費して、守る自分に気持ちよくなって、俺は、ずっと。
贖罪じみた説明を続けながら、それは恋なんかじゃなかったと、大事になんかされていなかったんだと、えぐるような気持ちで言葉を連ねた。美優の瞳に、みるみる涙と、絶望が満ちていく。ミルクティーみたいな瞳から大粒の涙がぼろっ、とこぼれて、後から後からしずくが落ちて、半開きのくちびるから、呆然とした嗚咽が漏れ出した。
美優の泣き声が、痛切に胸を刺す。いっそ悲痛なすすり泣きはしだいに大きくなっていって、ほとんどしゃくりあげるみたいになった。
「そんなの、って……ひ、うっ、うえぇえ……っ!」
「……ごめん、美優、ごめん」
泣き崩れる美優の肩を抱いて、ひたすら謝罪の言葉を繰り返す。なにに謝っているのか、なにを悔いているのか、そんなことなんにもわからない。それでも、間違ったんだ、という強烈な感情が、俺の喉をみっともなく震わせた。
「気付けなくて、止められなくて……ごめん」
ふるふると、駄々をこねるみたいに美優が首を振る。どん、と握りこぶしが俺の胸をたたいて、でも。その手はすぐに力を失って、ぱたりと垂れてしまった。
「うっ、う、あぁあ、ひっ、う……っ」
胸元に押し付けられた小さな頭、シャツの布地が、ぬるい液体でじわじわと湿っていく。
「……たのに、……信じて、たのに……っ!」
「ごめん……美優、ごめん」
俺はずっ、と鼻をすすって、熱くなる目元をこらえて、ずきずきと痛む全身の脈動にひたすら耐えて。泣きわめいて俺を叩く美優の、小刻みに震える肩に、じっと手を置いていた。とても苦しかった。
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