第5話 少女にまつわるコンテキスト
──19── 鬱屈と閉塞
最悪の気分のまま、ぎらぎらと明るい昼が戻ってきた。セミの声がうるさくて、窓の外では校庭の砂が真っ白い光にじりじり焼かれている。まぶしかった。
受けたくもない補講の、先生の声が頭の中を右から左へと通り抜けていく。俺は肘をついたまま、かちかち、とシャーペンを意味もなくノックした。長く伸びていく黒い芯が、光を反射して淡いグレーに光っている。胸の底がもやもやして、息が無性に苦しかった。
ゆりは──まだ、戻ってこない。
一ノ瀬からは、朝になっても連絡が来なかった。美優からも、甕岡からも、通知のたぐいはひとつもない。ゆりに至っては言うまでもなかった。
昨日、あのゲートを抜けて、家まで走って帰ったあと。俺は夜の間じゅう何度もスマホを確認して、ゆりや美優や他の誰かから、なんでもいいからなにか、現状を変えてくれるような知らせが来るのを待っていた。なにもかもはもちろん徒労に終わって、俺は一睡もできないまま、こうして補講の机に座っている。
眠くて、だるくて、疲れていた。たぶん肉体的なものだけじゃなかった。くぁ、と大きなあくびが出る。ぱたっ、と細い芯が真っ白いノートの上に落ちた。
(一ノ瀬……)
昨晩の、あいつの顔を思い出す。バカ野郎、と捨て台詞を吐いた俺が身を翻す、その一瞬に見えた彼の表情。青ざめたそれは妙に静かで、色のない罪悪感みたいなものに満ちていて、まるで殉教者かなにかみたいな、変な覚悟が見て取れた。
(……くそッ)
舌打ちしたい気持ちを、なんとかこらえる。どうして、と考えた。
どうして俺は、あんな風に一ノ瀬を責めてしまったんだろう。なんでこんなに、ショックを受けているんだろう。
『──君はまだ、そういうんじゃないだろ?』
たった一言、ワンセンテンスの呪いのせいで、ゆりはあんな風になってしまった。それはわかる、でも。
一ノ瀬はただ、無防備に自分へと身を捧げようとした女の子を、『けがれのない、かわいくて儚くてきれいなもの』を、大切にしようとしただけだ。それは普通の、当たり前の、当然なことで、なにもおかしいことじゃない。それなのになぜ、俺は。
かちかち、かちかち、とシャーペンをノックする。先生の声が淡々と俺の頭を通り過ぎていって、ぐるぐる、もやもやしたものが、俺の中身をぐしゃぐしゃにかき混ぜていく。
──女の子。
きれいで、かわいくて、やさしくて、いつだって柔らかくて、いい匂いがして。俺たち男なんかとは似ても似つかない、すてきで、特別な生き物。俺たちが守ってあげなきゃいけない、大切なもの。けがれのない、純粋で清潔な、尊くて儚い存在。ずっとそれを信じてた。でも。
なにかが違う、とささやく声がする。俺の中の深い場所が、とくん、とくんと脈動みたいに主張をはじめる。この二日、此倉街で女の子として扱われて、感じたことや見えたものが、なにかがおかしいと訴える。
かわいいかわいい、けがれのない、儚くてきれいな女の子。
『あのきれいなものを、きみが守ってあげなきゃいけないよ』
幼いころ、あの言葉をもらった瞬間から、俺はずっとそれを信じていた。疑ったことなど一度もなかった。
だけど違和感が消えないんだ。俺がなにか自分じゃない、ぜんぜん違うものとして扱われる感覚。俺やゆりや一ノ瀬について、まるでテレビの向こうの物語みたいに語る大人たち。俺の知らない顔をした甕岡の、きみはまだけがれてない、というささやき。
ゆりの言葉が、鮮烈に脳裏に蘇る。
『──きもちわるかったから』
「……っ」
ぱたっ、と芯が落ちた。気が付けばノートの上には何本も黒い芯がちらばっていて、俺は黙ってくちびるを噛みしめる。
あの、なんとも言えない、へんな違和感。無理矢理にでも、それを言葉にするならば。たしかに、きもちわるい、と言えるのかもしれなかった。
(でも、だって、俺、俺はずっと……)
言い訳と弁明に限りなく似た何かが、胸のうちでひたひたと波打っている。なにを、どう言いたいのかすらはっきりしないのに、ただ苦しいということだけがわかる。胸の奥までせり上がったそれらが俺の息をひどく詰まらせて、今すぐなにかを喚き散らしたくなる。
(──くそ、……くそっ)
奥歯を噛み締めて、吐きかけたため息をすり潰した。ぐっ、とシャーペンを握りしめる。俺はどさ、と机に突っ伏した。なにも考えたくなかった。
陽光で熱を持った白いノートに、ぐっと押し付けた頬の下。ぱきっ、と芯が折れる、とても小さな音がした。
ぐるぐると腹のうちを渦巻くものに耐えているうちに、気が付けば補講は終わっていた。
だけどもやついた気持ちはちっとも晴れることはなく、俺はどろどろが渦を巻く心のまま、いつまでも突っ伏して、机の上でじっとしていた。
ざわめきと笑い声と、入り交じるいくつもの足音。時の経過とともに、そのにぎやかさが少しずつ、少しずつ減っていく。そうしてとうとう、教室の中がほとんど無音になったころ。小さな、心許ない足音が近付いてきた。
ゆるゆると、伏せた机から顔を上げる。すぐ傍に立っていたのは、美優だった。
「……座って、いい?」
俺の返事を聞くより先に、美優は思いつめた表情で、手前の座席の椅子を引いた。かた、と腰を下ろす。うつむいた彼女の表情は硬く、こわばっていて、緊張と憔悴のせいか、頬は真っ白になっていた。
「……ケイティー。ゆりちは……?」
「美優……ごめん」
期待と願望が入り混じったうながす声に、俺はこんな返事しかできなかった。状況が良くないことを悟ったのだろう。美優は目元を暗くして、はあっ、と震えるため息をついた。
「……まだ、見つかんない?」
「っ……」
心細い声に、なんと答えればいいかわからない。見つかったか、見つからないかで言えば、ゆりはまだ見つかってはいない。でも連絡は取れた。言葉だって交わした。
(でも……)
──戻らない。
──私のことなんか、誰にもわからないよ!
ヒステリックなゆりの声が、鮮烈に脳裏に蘇る。あんな言葉を投げられて、なにもかもを拒絶されて、俺は美優に、なんて報告すればいいんだ。
下を向いてくちびるを噛んでいると、ぐずっ、と鼻をすする音がした。はっとする。
ぱたぱたっ、と小さな音がして、俺の机にしずくが散った。天板の上で光る澄んだ液体に目を見開き、俺はゆるゆると顔をあげる。
美優は下を向いて、肩を震わせて、くちびるを噛んだまま、とても静かに泣いていた。
「美優……」
痛々しい泣き顔に、心臓がずくりとした。罪悪感と、なにをやっているんだ俺は、という叱責が胸を刺した。
うまくやれなかったとか、なんて言えばいいとか、そんなのは関係ない。いま美優は心配して、こわがって、涙混じりにやつれきっている。まずはそれをどうにかしてやるのが、今の俺がすべきことじゃないのか。
「……美優。聞いてくれ」
美優はまだ、肩を小さく震わせている。俺は息を吸うと、あのな、とゆっくり言った。
「ゆりと、話をした」
「えっ」
ばっ、と美優が顔を上げる。その瞳は真っ赤で、涙で濡れていて、でも、俺の言葉に対するはっきりした期待で揺れていた。
眼差しを見つめ返して、俺はかすかに目元を歪める。息を吸って、一瞬だけ詰めて、ぽつりと言った。
「でも──ごめん、説得できなかった」
「説得、って……」
「小野塚、帰らないって」
「っ……!」
ひくっ、と息を呑む音。そんな、と小さな声がした。俺はもう一度、ごめん、とつぶやく。
「で、でも、でも」
美優が、がたっ、と腰を浮かせた。身を乗り出して、ぎゅうと握りしめた手を天板の上に置いて、彼女は言う。
「は、話はしたんでしょ⁉ だったら、連れ戻しに」
「通話だったんだ。居場所は、まだわからない」
「じゃあもう一回連絡して、うちとか、そうだママ、ママと話!」
ゆるゆると首を振る。こみ上げる苦いものを必死にこらえた。
「小野塚ははっきり、戻らない、戻りたくない、って言ったんだ。たぶんもう──あの連絡先には繋がらない」
「そんな……」
へな、と美優が椅子にへたりこむ。小さな頭がかくん、とうつむいて、ハイトーンのゆるい巻き髪が目元を隠した。下を向いて、肩を落として、美優は黙ってうなだれる。とても長い沈黙。
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