──17── 『先生』
そのとき、とんとん、と肩になにかが当たる感触。びく、と身を跳ねさせて、振り返る。一ノ瀬だった。
指先で俺の肩を叩いた彼は、すい、とドアを指差す。そして、ちょっと悪い、みたいな拝む仕草をした。
「え、出るのか? ああ、うん……」
俺の返答を聞くと、一ノ瀬は無言でうなずき、そのまま小走りで部屋を出ていった。開いたドアの向こうから、廊下の音楽がズン、ズン、と重低音を響かせる。ひとりでに閉じるドアに遮られ、そのリズムはすぐに小さくなった。
俺はいぶかしみつつも、今はゆりだ、と思い直す。
「あ、えっと……悪い」
「……誰か、いるの」
警戒もあらわな声だった。え、ああ、とうなずく。その途端、ひゅっ、とゆりが息を呑む音がした。
(やばい、切られる──)
ほとんど拒絶に近い気配を感じて、ひやっ、とした感覚が背を走る。その瞬間、とっさに言葉が口をついて出た。
「こ──〝此倉街の天使〟だよ!」
「えっ?」
「そう、あの〝天使〟がさ、小野塚を探すのに協力してくれて! さっきまで、ここに」
なんでもいいからゆりの気を引きたい。その衝動に突き動かされて、俺はほとんど無心で言葉を連ねまくった。
「だから、このアカウント! ほんとに〝天使〟のものなんだ」
「……うそ。本当なの?」
興味をそそられたらしい。ゆりはためらいがちに、俺の言葉に耳を傾けた。この期を逃してはならないと、俺は慌てて本当だよ、と断言する。
「あいつ、意外といいやつでさ。いろいろ良くしてくれたんだ」
「そうなの……私も、探してたんだ。〝天使〟のこと」
やや重い口ぶりからして、おそらくは〝そういう〟仕事の紹介が目当てだったんだろう。それでも、咎めることはできなかった。切られたら終わりだ。なんとか通話を繋がなければという緊張感で、俺は懸命に続ける。
「やっぱ有名なんだな、あいつ」
「……うん。その子に合う仕事を紹介してくれて、なにかあったら相談に乗ってくれて、いざとなったら悪い大人から守ってくれる、って……」
そんなうまい話ないと思ってたんだけど、とゆりはぽつりと言う。俺はいやいや、とむりやり話に食い込んだ。
「たしかに、本当だよ。あいつ、すごいんだぜ! 色んなとこに顔が利いて、人望もあって」
「やっぱり、そうなんだ」
ゆりの声には少しの期待と歓喜がにじんでいた。
「ね、どういう人なの」
「え? えっと……」
俺はちらりとドアを見る。一ノ瀬が戻る気配はない。
本人もいない、許可すら取っていないのに、彼のことを勝手に喋るのは良くない。あまりにも当たり前の常識、そんなことはわかっている。
(でも……)
やっとゆりの気を引くことができたのだ。この通話を切ってしまえば、きっともう、二度とゆりと繋がることはできない。たった一度きりの機会を、俺はどうしても逃したくなかった。くちびるを噛んで考えて、そして。
「あ、あの、さ。これは秘密なんだけど」
「秘密?」
(……一ノ瀬、ごめん……!)
ゆりの心が通話に引き寄せられていることをはっきりと感じながら、俺は口を開いた。
「実はそいつ、女装した男なんだ」
「えっ──そ、そうなの⁉」
さすがにびっくりしたらしい。ゆりの声が、はっきりとこちらに興味を示した。小さく息を呑んで、俺が仔細を離すのを待っている。
俺は緊張と罪悪感で引きつった笑みを貼り付けて、ああ、と相槌を打った。
「しかもすごいことに、誰ひとり気付いてないんだ。それほどの美少女っぷりでさ。噂通り、今すぐ坂道系のトップ取れるぜ、あれは!」
「へえ……! すごい、ドラマみたい」
「そ、そうなんだよ!」
なにがなんでも、ゆりの注意を留めておきたい。その一念だけを胸に、俺はひたすら大袈裟に〝天使〟の話をし続けた。張り付いた笑みでぺらぺらと言葉を重ねつつ、心の中で、ひたすら一ノ瀬に謝罪する。
(一ノ瀬、本当にごめん)
責任なら取れるぶんは全部取る。できることはなんだってする。土下座でもなんでもして、いくらでも殴られてもいい。だから。
とにかく、この通話を切らないように、切られてしまわないように、必死だった。たった一本きりの糸、二度は通用しない手口。この一回で、ゆりの心をなんとかして引き寄せたい。
俺はへらりと笑って、そうなんだよ、と適当な相槌を打った。
「お嬢様女子高生、って感じの格好してるけど。まあ実際はもうハタチ超えててさ。一ノ瀬っていうんだけど、これがもうすんげえ美人で──」
「……一ノ瀬?」
そのとき、まったく唐突に。
すっ、とゆりの声が固くなった。え、と戸惑う俺の声を打ち切って、ゆりが淡々と尋ねてくる。
「待って。その〝天使〟の人……一ノ瀬、なに?」
「え? 一ノ瀬、新だけど……」
「ッ……!」
今度こそ、はっきりとゆりが息を呑んだ。それきり、息を詰めたように黙り込む。
「小野塚?」
俺の呼びかけにも、ゆりはまったく答えなかった。ただじっと、呼吸すら押し殺したまま、得体の知れない沈黙を続けている。
じっとりと、てのひらが嫌な汗をかいていた。俺は余計なことを言ったのだろうか。これ以上失態を重ねたくはなくて、口をつぐんだままゆりを待つ。
そうして、張り詰めた、長い沈黙のあと。
「……一ノ瀬、先生──」
「え?」
ぽつん、と落とされた言葉に、目を見開いた。勝手に声がこぼれおちる。
「もしかして……知り合い、なのか」
「うん」
とても硬い、こわばった返答。どういう、と尋ねる前に、ゆりが先に口を開いた。
「中学のとき、付き合ってた、塾の先生」
「え──」
かすれた、絞り出すような言葉に、今度こそ俺は完全に硬直する。勝手に声が出てきた。
「付き合っ、てた、って──」
ゆりは押し殺したため息をつくと、なにやってんだろうあの人、とつぶやく。その声には確かに、深い関係にあった相手への、なんとも言えない気安さがあった。
俺はおそるおそる尋ねる。
「その……元彼、ってやつ……?」
「……そんないいものじゃなかったけどね」
耐えるような、苦いような声に、俺はなにを言っていいかわからなくなる。ゆりは静かに言った。
「ただ星占いが好きだっただけの私に、天文学の面白さを教えてくれた人」
ぽつんとこぼした声には、なんとも言えない複雑な色がにじんでいる。いいものじゃなかった、という言葉が、じんわりと俺の胸にしみこんだ。
「その、えっと……どうして」
どうして別れたんだ、と思いつつ、ストレートには聞きづらくて、語尾がごにょごにょと掠れていく。けれど「どうして」の続きを正しく悟ったらしい。ゆりはくすっ、と小さく笑った。そして。
「──きもちわるかったから」
「えっ」
とても小さな、でも、はっきりとした声は、妙にまっすぐ耳に突き刺さった。俺は口を半開きにして、ゆりの言葉を呆然と聞くしかできない。
「だから、一ノ瀬先生が、気持ち悪かったから」
きもちわるいって──あの、一ノ瀬が?
信じられなかった。ただ絶句する。息を呑んで黙り込んだ俺に、ゆりがかすかに笑う。
「……いいや。もう、全部話しちゃおうかな」
そう言って、自嘲的な笑みをこぼすと。ゆりはぽつぽつと、一ノ瀬とのことを話しはじめた。
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