──16── ゆりの豹変

 ほとんど身を乗り出す勢いで、俺は必死に取りすがる。


「小野塚……俺さ、聞いたよ。夢があるって。新しい占い、作るんだろ? 望遠鏡なら、俺と美優でカンパだってする。なんだったら一緒に星探そうぜ。なんだって手伝うよ。だから、なあ」

「──そういうの、もう、いいから」

「小野塚……!」


 にべもない、冷えた返事だった。胸の底が暗くなって、歯噛みする。なにを言ってもゆりに届かなくて、ちっとも言葉が通じない。もどかしくて、悔しくてたまらなかった。

 くちびるを噛んで、なんでだよ、と問いかける。


「どうして、そんなこと言うんだよ……」

「……どうしてだろうね」

「なあ、帰ろうって。だって、このままじゃ、おまえ……売春するしかなくなるんだぞ⁉ わかってんのか⁉」


 ほとんど叫び声、みたいな呼びかけに、ゆりが一瞬で黙り込んだ。押し殺した呼吸音が、電波の向こうから聞こえてくる。悲しくて、やりきれなくて、情けない声が出た。

「そんなん、絶対だめだろ……なあ、頼むよ。帰ってきてくれよ……」

 ゆりはなにも答えない。通話を通した空間に、痛いほどの沈黙が、長ったらしく満ちていった。


 俺は祈る。この十数秒の沈黙のあいだ、せめてゆりの心が少しでも揺れていますように、と。けれど。


「──どうして、駄目なの」


 ようやく返ってきたのは、ものすごく静かな、抑えた、それでいて冷たい響きの声だった。えっ、と言う俺に、ゆりは淡々と言い放つ。


「私が私の意志で、私の身体を使うことの、なにがいけないの」

「そんなの、だって、その」

「私が勝手にそういう女になることで、敬斗くんになにか、迷惑かかる?」

「それ、は──」

 そういう女。耳に入った単語で蘇るのは、白髪の男から聞いたゆりの言葉だ。


『ここに連絡したら、そういう女になれるんですか』


 その言葉といい、今の発言といい。もう、間違いようがなかった。確信が一つの言葉をかたどった。


 ──小野塚ゆりは、望んで、みずからの身体を売り渡そうとしている。


(どうして、そんな──)

 絶句する俺を放置して、ゆりは押し殺した声を重ねる。


「もう嫌なの。そういうんじゃないとか、けがれてないとか、本当は純粋でどうとか、俺だけがきみの価値をわかるとか。そんなのはもうたくさん」

 一気に浴びせられた声に、切々としたなにかの感情に、俺はうまく返事ができない。ゆりは言う。

「みんなわかってないだけ、知らないだけ。最初から、私は、そういう女なの」

「小野、塚──」


 どうしよう。なにを言えばいいのかわからない。頭がうまく回らなくて、ただ止めたいという感情だけが胸を揺らして、口元が勝手にこわばってしまう。

 ゆりの声ははっきりしていて、迷いなんか微塵も感じられなくて、冷えた言葉の裏にはなにか強い意志と、古い傷、みたなものが感じられた。


 じくじくと、胸の奥で膿みたいな鈍い痛みがうずく。どうすればいいかわからない。小野塚は俺の知らないなにかを知っていて、俺だけがわからないことをわかっていて、その上で、もう帰らないと言っている。


(でも、それでも、俺は)

「……帰ろうって、小野塚、なあ……」

 俺は情けない口調で、小さくなった声で、バカみたいに同じ言葉を繰り返すしかできなかった。ゆりが小さくため息をつく。呆れたような口調が言う。

「わかるよ? 家に帰ったら、順当に、簡単に、みんなの知ってる小野塚ゆりとして、普通っぽく生きていけるって。でもそんなの、ただ生きてるだけ」


 ──生きるだけなら犬でもできる。

 思い出されたのは占い店のトイレで聞いた言葉で、あのときの射抜くような視線が、韓国風の制服の立ち姿が、俺の無知を責め立てる。ぐっ、と手を握りしめた。


「わかんねえよ、俺……どうして、家出なんか……」

 そのとき、ゆりがすうっ、と息を吸った。

「だって──気がついたから」

「えっ?」


 唐突に。ゆりの声のトーンが、すっと変わった気がした。


「わかったから。私はずっと傷付いていたのかもしれないって」

「どういう、こと」

 呆然とした問いかけに、ゆりは少しだけ黙って、わかったの、とつぶやいた。


「私がこの街に飛び込んだのも、孤独とか傷とか育った環境とか、そういうのがいけないんじゃないかって。私が〝そういう〟女になろうとしたのは、ただ自分を傷付けたかったからなのかもしれないって。きっと私は孤独で、傷付いていて、でもそれに気付いていなくて。自分を粗末にして傷付けることで、なにかを癒そうとしていたのかもしれないって」


「お、小野塚……?」

 急に早口になったゆりが、一気に言葉を浴びせかけてくる。脈絡なく押し寄せたそれらに、俺はただ戸惑うしかできなかった。けれどゆりは俺の困惑など気にも留めず、ますます声の調子を強くする。


「私がこんな風なのはきっと家のせいで、親のせいで、環境のせいで、誰もわかってくれなかったせいで、きっとずっと嫌だったの、それがわかったの、もうやだ、もうやだったの、だから私、違うところに行きたいの……!」

「ちょっ、お、小野塚、落ち着けって!」


 いきなり調子が変わったゆりに、まるでついていけない。俺はただ彼女をなだめて、でもゆりは全然俺の言うことなんて聞いてはくれなかった。まるで溜まっていたすべてを吐き捨てるみたいに、彼女はどんどん言葉を続ける。


「親も学校も友達も、星だって、もう知らない。私はただ、傷付いた孤独な魂を持て余していて、わかってくれる人なんてほとんどいなくて、だから違うところに行こうって、ここじゃないどこかに行こうって!」

「小野塚! 落ち着けって、なあ、俺の話を聞いてくれよ!」

「だってどうしたらいいかわからないんだもの‼」


 ほとんど絶叫、みたいにゆりが叫んだ。耳元できいん、と耳鳴りがして、俺は思わずスマホを離す。取り乱した声が、小さすぎるスピーカーから放たれた。


「私はただ、違うところに行かなきゃいけないの、あんな家にいちゃいけないの! だって、あそこにいたら私は孤独で、傷付いていて、誰も本当のことをわかってくれなくて、そういうのがきっとあるから、だから──」

「小野塚!」


 なにかがおかしい。ゆりの言葉は支離滅裂で、変だ。話がうまく繋がってないし、なんだろう、ゆりの言葉がうまく心に入ってこない。それにゆりの語ることと、俺の知っている事実が、ちっとも一致して感じられない。


 家のせい、親のせいだと言うけれど。ゆりの母親は間違いなく、心からゆりを案じていた。あの美優が『ママのところに帰してあげて』と本気で涙するほどには、ゆりの母は彼女を想っていた。ゆりだってそれは知っているはずだ。


 それに、孤独、傷、わかってくれない、そういうキーワードは、ゆりにちっとも似合わない。彼女はいつも一歩引いたところから俺たちを見守っていて、その眼差しには、常にあたたかい温度があった。ひとりぼっちなんかじゃないと、自分の居場所はここにあるのだと、きちんと知っている人だった。天文部で美優とふたり、肩を寄せ合ってくすくす笑い合う姿は、いっそ羨ましいほどだったのに。


 なにかが変だ。違和感がひどい。さっきまでは、そんなことはなかったのに。

『だって気がついたから』

 そう言って声のトーンを変えた瞬間から、ゆりがまるっきり別のなにかみたいに感じられる。なにか強烈な違和感が、心臓をしきりに叩いていく。スマホ越し、耳に刺さるゆりの声が、まるでぜんぜん違う誰かの、借り物の言葉みたいな──


 そのとき、テーブルに置きっぱなしだった俺のスマホが、ヴー、とかすかに震えた。ずっと黙って俺を伺っていた一ノ瀬が、光るスマホをふっと見る。可憐な瞳が、ごく小さく見開かれた。


 俺もつられてそちらを見る。いつものロック画面に、ポップアップが浮かんでいた。



『甕岡祐介:

 こんばんは、敬斗くん。実は今夜、撮影が忙しくて。

 悪いけど、美優ちゃんのフォローお願……』



 美優ちゃんのフォロー。その単語がはっきりと目に留まって、

(そうだ、美優──)

 強烈な焦躁が胸をまっすぐ突き刺した。


「──美優が待ってんだよ!」


 気が付けば思わず叫んでいた。ゆりが小さく息を呑む。ぎゅう、とスマホを握りしめて、俺は必死で言い募った。


「俺はしょうがないよ、しょせんただの部員だ。でも、美優はちがう。親友だろ⁉」

「……っ」

 電波越しにごくわずか、ゆりのためらう気配。頼む、と俺は祈る気持ちで言葉を続けた。

「美優が待ってるんだよ。泣いて喚いて憔悴して、小野塚が帰ってくるのを、あいつずっと待ってるんだよ! なあ、頼むって、美優のためにも──」

「──戻らない」

「小野塚!」


 硬い声に、失望がこみ上げる。それでも振り切ってなにか言おうとする俺を、ゆりの声がさえぎった。


「みゆぽもだってどうせ、私のことなんにも知らないじゃん! 私のことなんか、誰にもわかんないよ‼」

「っ、そんな──」


 言葉が出なかった。まさか、あんなに仲の良かった美優にまで、こんな言葉を投げつけるなんて。俺は明日、美優になんて言えばいいんだ。




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