──13── 予期せぬ遭遇
それはまるっきり唐突に。
路地の向こうから、男の声が割り込んだ。ばっ、と一ノ瀬が振り返る。ボックスプリーツが大きく翻って、その向こう、表通りのきらめく電飾を背負った人影が、ゆっくりとこちらに近付いてくる。
(あ──っ)
その正体を認めた瞬間、俺はとっさに一ノ瀬の後ろに身を隠していた。一ノ瀬が驚いたように俺を見る。ふるふると首を振った。
「この街で働いてる子かな? こんな奥まで来ると危ないよ」
(……甕岡、さん)
ドキュメンタリーの撮影なのだろう、甕岡はいつものカメラを手にしている。見た感じ、俺に気付いた様子はない。それでも俺は、ひゅっと肝が冷えるのを感じていた。
「……あなたは?」
一ノ瀬が、俺を背に庇ったまま、淡々と問いかける。甕岡はやわらかな笑みを浮かべて、ああごめん、撮ってはいないよ、とカメラを背後に隠した。
「びっくりさせちゃったね。僕はこういう者だよ」
懐から取り出した名刺を見せつけるみたいにかざして、彼はにこりと微笑みかける。一ノ瀬はまだ硬い顔をしていた。
「……カメラマンさんが、ここになんの用です」
「仕事でね。ドキュメンタリーを撮ってるのさ。ちゃんと許可はもらっているよ。だからそんなに警戒しないでくれるかな」
気持ちはわかるけどね、と甕岡が肩をすくめる。ざり、と地面が音を立て、甕岡が一歩こちらに近付いた。俺はとっさに下を向いて顔を隠す。
「ごめんね、びっくりさせて。ここは危ないから、もうちょっとゲートの方に行ったほうがいい、って思っただけなんだ」
「……ご忠告、痛み入ります」
「なんだったら、ゲートの入り口まで送るけど」
「結構です」
淡々と近付いてくる甕岡に、一ノ瀬が一歩後ろに下がった。華奢な背がとん、とぶつかる。「うわ」と思わずよろめいた。顔を隠した不自然な体勢のせいで、とっさにバランスが取れなかったのだ。
どしゃ、と音を立てて尻もちをつく。甕岡が焦ったように走り寄った。しゃがみこみ、覗き込まれる。
「だ、大丈夫かい?」
「だ──だいじょうぶ、です……」
できるだけ細くて高い声を作って、逃げるように下を向いた。一ノ瀬が鋭い声を上げる。
「彼女、人見知りが激しいので。あんまり近付かないでくれませんか」
「そうなのかい」
こくこくと頷く。そう、ごめんね、とやわらかく語りかけられて、目の前にすっと手が差し出された。
「立てる? 怪我はない?」
「平気、です……」
緊張で心臓が破裂しそうだ。こんなところで調査をしているなんてバレたらまずいし、それ以上に、こんな女装姿、憧れのお兄ちゃんには見られたくない。
俺は俯いたまま、手を引かれてよろりと立ち上がった。軽くスカートをはたいて、小声で礼を言う。
「ありがとうございます」
「いいんだよ。でも、気を付けてね」
「はい──……っ⁉」
びくっ、と肩が跳ねた。甕岡の大きな手が、顔にかかった髪をそっと払い除けたからだ。ああやっぱり、と小さな声がして、俺はぎくりと身を強張らせる。
(ど、どうしよう──)
「この街には慣れてない子なんだね」
「え?」
恐る恐る、上目遣いで見上げると、すぐ近くに、なにか納得したような顔があった。どうやら、俺の正体に気付いたわけではなさそうだ。
「慣れてない、って」
「ここでの撮影も長いからね。見たらわかるよ。きみはまだ、そういうのじゃない」
「そ、そういう……?」
緊張と、バレたらまずいという気持ちで、頭がうまく働かない。まじまじと覗き込む甕岡から逃げるように視線を逸らすと、彼はくすりと微笑んだ。
「きみはまだ、けがれてない、ってこと」
「ッ……!」
その瞬間の違和感を、俺はうまく表現できない。
ただ、覚えがある、と思った。俺が俺じゃなくなる感覚、俺がただの〝堂島敬斗〟じゃない、ぜんぜん別のなにかとして扱われる感じ。
(甕岡、さんまで……どうして)
完全に黙り込んでしまった俺に、甕岡は小さく笑うと、胸元にそっと名刺を押し付けた。小さな紙がはらりと落ちそうになり、とっさに受け止める。
「もしかして、どこにも居場所が見つからないのかな。そういうの、わかるよ」
「いや、えっと」
「つらくなったら連絡して。僕は外の世界にツテがあるから、助けになれるかもしれない」
「あ、……ありがとう、ございます……」
だめだ、なにがなんだかわからない。とりあえず頷いておく。甕岡は穏やかな笑みのまま、じっと俺を見つめていた。いたたまれない。
「……もういいですか?」
割り込んでくる冷えた声。一ノ瀬だった。
彼は俺のすぐ傍に立つと、俺の肩に手を置いて、一言一言を区切るように「彼女、人見知りなんです」とはっきり言った。
「ああごめん。ちょっと強引だったね」
甕岡が、ぱっと両手を広げる。黒いカメラがひらりと翻って、一ノ瀬は甕岡と俺のわずかな隙間に身をねじ込んだ。
甕岡の目が、なんとなくの含みを持って一ノ瀬を見た。
「きみはもうそういう子みたいだから、言うけど。純真な友達を、あまりここへ引きずり込まないほうがいいよ」
「……そうですね」
抑えたような返答に、甕岡が苦笑する。彼は軽く肩をすくめると、一ノ瀬をまっすぐに見て、尋ねた。
「そうだ。きみたち、〝此倉街の天使〟って知らない?」
「……っ」
「──知りません」
ぴく、と肩を跳ねさせる俺とは裏腹に。一ノ瀬はすぱっ、と断言した。いつも通りの完璧に作った清楚な笑顔を浮かべ、おしとやかな仕草で小首をかしげる。
「言葉だけは聞いたことありますけど。どうして探してるんですか?」
「……いや。単に〝天使〟がどういう子か興味があってね。知らないならいいんだ」
苦笑して返す甕岡。一ノ瀬は完璧な笑みを貼り付けたまま、じっと彼を見つめている。甕岡もまた、どこか探るような視線で一ノ瀬を見つめていた。
しばしの沈黙。疎外感と居心地の悪さを覚えつつも、この空気の中、動くに動けない。俺はただ息を殺して、じっと二人を伺うしかできなかった。
そうして、なんとも言えない緊張は、ふ、という息の音で唐突に切れた。甕岡だった。小さな苦笑と、「じゃあね」と小さな声。それきり、彼は身を翻して、あっさりと裏路地を去っていった。
薄暗い路地が静かになる。甕岡の足音が、表通りの喧噪にゆっくりと混じっていって、他のそれと完全に区別がつかなくなったころ──一ノ瀬が勢いよく振り返った。
「なに、あいつ。隠れたってことは、知り合いだろ」
「えっと……うん。あれが、甕岡さん」
ぼそぼそと言った途端、一ノ瀬があー、と額に手を当てた。どうりで、なんて小さなつぶやきが聞こえる。それから、小さな舌打ちも。
「ったく、面倒なことになったな。あいつが曲がってったの、カラオケ店のほうだろ。いくらメイクしてたって、明るいところで顔見られたら、さすがにおまえの正体バレるよ」
「え。じゃあ俺、着替えできねえの?」
「しばらくはね。隠れたほうがいいと思う」
うわ、と顔をしかめる。一ノ瀬は少し考え込むと、渋々といった感じでつぶやいた。
「しょうがない。ちょっと奥行こう」
「奥?」
「ラブホ坂のほう。あそこなら人が少ないし見通しもいいから、あいつが来たらすぐわかる。ほとぼり冷めたら送るから、ちゃんと帰れよな」
「わ、わかった」
一ノ瀬は俺の返答を聞くと、つかつかと歩き出した。熱っぽい夜の空気に、さらさらと黒髪が揺れる。相変わらず歩くのが早い。俺は慌ててその背中を追いかけた。
(……さっき、なんか、変な感じがした)
心臓が、気持ち悪い、おかしな鼓動を立てていた。その正体は杳として知れない。ただ、はっきりした違和感だけが、俺の底を妙にざわざわさせる。
『きみはまだ、そういうのじゃない』
『けがれてない、ってこと』
そんな言葉、なにひとつ心当たりがない。けれど甕岡は確信があるみたいに断言した。まるでそういうドラマを、テレビの向こうの物語を見ているみたいに。
やっぱりわからない、と思う。この街は俺の知らない文脈で動いていて、俺だけがそれを知らない。強烈な違和感、俺が俺でなくなる感覚、物語みたいなことを語る大人たち。
(なんか──きもちわるい)
うまく言葉にできない変な感じ。胸の内側にこびりつくみたいなそれをぐっとこらえて、俺はひたすら一ノ瀬の背中を追いかけた。きらきらした電飾の中を歩くたび、変な気分がじりじり強くなる。靴の裏に汚れたガムがくっついたみたいだ、と思った。
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