山に向かって、走る。夜の道路は、喪服みたいに黒い。


 車の中、僕は自動再生設定でスマホから音楽を流しつつ、トランクの方をチラチラと見ていた

 

 死体。僕は今、兄に頼まれて男子高校生くらいの男の死体うぃ山に運んでいる。棺桶みたいなトランクに、死体を押し込んで、運んでいる。

 

 警察にバレないかとか、急にトランクが開いたりしないか、とか、そういう不安で脂汗が滲んだ。介護の仕事でかくのとは質の違う、ベッタリとして不快な汗だ。

 

 あの死体は一体、誰なんだろう?

 やっぱり兄が殺したんだろうか?

 状況証拠を見るに、そうとしか思えなくはあるけれど、でも。


 心のどこかで、さすがにそんなことはしない、と思う自分もいる。


 昔から本当に、本当に身勝手な人ではあったけど、でも、人殺しだんんて。


 僕は改めて兄のことを思い出す。


 昔は、よく兄に殴られた。


 台風のような人だった。少しでも機嫌を損ねると、軽い冗談のような調子で暴力を振るう人。


 笑いながら鼻を思いっきり叩かれたときは、しばらく血が止まらなかった。

 

 今思えば、虐待だったんだろう。


 でも、僕はそれで、兄を嫌いになったり怒ったりはしなかった。

 

 思えば兄に対して本気で怒ったりしたことなんて一度も無かったのではないだろうか。


 怒らなかったというより、怒れなかったのだ。


 怖かったのもあるけれど、好きだったから。


 そう言う態度が、あの暴君を増長させていたところかなりあるんだろう。


 でも、兄さんの手って優しいんだよなぁ。


 優しい、という言葉が適切かはわからないけれど。

 別に兄は優しい性格ではない。全然ない。

 でも、兄の手は、大きくて温かくて優しい。


 両親が滅多に帰ってこなくて、寂しくて泣いている僕のことを撫でてくれたあの手は、本当に、本当に温かかった。

 

 だから僕は、兄さんの手が好きだった。触れていると、頭がふわふわした。


「あの時も?」

 

 突然、後ろの方から、声が聞こえた。

 若い、というよりも幼さのある、男の声だった。でも、車には誰も乗っていない。


 聞き間違い、だろうか?あるいは、幻聴?

 

「あの時も、暖かくて、優しかった?」


 二度目。

 直感的に、あの死体だと思った。

 あの死体が、いま、起き上がって僕に話しかけている。そんな、確信めいた予感がする。


 いや、いやいやいや。


 ありえない。


 そんな、死体が、しゃべったりするわけがないのだ。そんなこと、現実的に考えて、あるわけがない。


 きっと幻聴だ。絶対幻聴だ。


 死体運びなんかしてるから、精神に変調をきたして、空想と現実の境目があやふやになっているだけだ。


 そうだ、幻聴。妄想からくる幻聴。

 そうだよ。妄想だよ。

 妄想に決まってるよ。

 全部妄想だよ。


「お前が愛されてたってこととおなじように?」


 死体は、変わらず喋り続けた。なんなんだこいつは。何を言ってるんだ。幻聴のくせに。


「なんのことだよ」


 僕は、その幻聴に返事をしてしまった。自分がおかしくなっている自覚はあったのに、返事をせずにはいられなかった。

 

「高校、2年生の時」


 死体は、ゆっくりと、僕の恐怖を読み取ってわざとなぶるように、ゆっくりと続けた。


「高2?」

「覚えてないの?」


 死体の声が、嘲るように弾む。


「お前から誘ったんじゃん」


 背中から、嫌な汗が一気に吹き出た。シャツがベッタリと張り付いて、気持ちが悪い。


 助手席に置いたスマホから流れる曲が変わる。

 お気に入りのボカロ曲。

 

「誘ったって、誰を」

「はは!忘れたふりはやめろよ」

 

──忘れてないくせに


 今度は耳元で囁くような声だった。鼓膜に生ぬるい息がかかったように錯覚する。錯覚なんだ。

 

 これは妄想で幻聴で錯覚で、振り返ったら誰もいない。そうに決まってる。


 でも。

 頭がちっとも動かない。

 

「忘れられてるなら、かえっていいんだけどさ。お前のためにも。でも、忘れられないのに忘れたふりして、そのまま放っておくのは、いただけないなぁ。そろそろちゃんと、けじめつけるべきだったんじゃないか?」


「さっきからなんなんだよ。ケジメって?」


「ふふ。あはは。いいよそういう茶番は。俺はいい機会だと思うけどね、もうすぐ結婚だろ?にいさん」

 

 どくんと、心臓が脈打った。

 それから遅れて、小さな動悸が奇妙なリズムで続く。葬式の、木魚を叩くみたいな音だ。

 

「兄さんの結婚となんの関係があるんだよ」


「だって、結婚したら、流石に諦めもつきそうなもんだろ。なぁ、とぼけるなってば。惚けるって惚れると同じ文字だよな。はは。だからさ、高校二年生の時だよ」


 だぁかぁらぁ、と粘着質な発音が響く。

 だぁかぁらぁさぁ。


──抱かれたろ?にいさんに。


「ッ」


 喉の奥から、泥が這い出してくるような感じがする。

 僕を見下ろしている兄さんの顔が、フラッシュバックする。


──お前さぁ。

──お前、さぁ。

──他の男にもこういうことしてんの?


 して、ないよ。兄さんだけ。頑張って、指で練習したんだよ。


「あ、思い出したか?いや、思い出したのとは違うか」

 

 そうだね。お前のいう通りだ。

 幻聴なのに、幻聴のくせに、幻聴だからか?

 全部お前の言う通り。

 はっきりと、覚えている。ずっとずっと、当たり前に覚えている。忘れられたら、楽なのに。


 高二の夏、僕は兄さんに抱かれた。


 暖かい、優しい手が腰を掴んで、熱いものが体内を行き来して。


 僕は、腰を揺らして、兄さん、兄さんって。


 痛かったけど、幸せだった。


 たくさん触ってくれて、髪の毛を、そっと撫でてくれて、涙と涎と、心地よい汗が、全身から吹き出して。

 それは夏のせいだけではなくて、細胞全部が換気していた。

 

 でも。


 キスだけは、してくれなかった。


 あはは。


 愛されてなんか、いなかったのに。


 バカだから、喜んでた。


 はは。ははは。


「っんなんだよさっきからさぁ!?それで!?だからなんだってんだよ!?!?お前には関係ないだろ!!!!兄弟でヤって気色悪いとか言うわけ!?言っとくけど喋る死体の方が気色悪いからね!?」


 涙交じりに声が溢れた。

 

 ふざけんなよ。人の痛みを勝手にほじくり出して、いったいなんなんだよお前は。


「なにって、幻聴だろ?そういうことにしたいんだろ?いいけどさ、似たようなもんだし」


 うるさい。うるさいうるさい。気持ち悪い。


 スマホの音量を上げる。なのに、声をかき消すことはできない。


 うるさい。文句あるのかよ、何が悪いんだよ。


 好きな人にだかれて、何が。


「あのさぁ、いっとくけど責めてねぇからな?そりゃ事後対応についてはお粗末だったけどさ。お前だけが悪いわけじゃないのは分かってるさ」


 後ろから聞こえる声が、どこか優しい、諭すような声に変わった。失敗をした子どもに、語り聞かせるような。


「にいさんもさ、酷いんだし」

「お前、兄さんって呼ぶのやめてくれない?」

  

 お前の兄さんじゃないだろ。


 ああでも、僕のでも、ないか。


 香里さんに、取られちゃったんだし。


 元から、兄さんは女性の絶えない人ではあった。たまに部屋でそういう行為をしていて、僕は悔しくて悔しくて、よく一人で泣いていた。


「あの時は、兄さんがちょうど相手がいなくて、チャンスだと思ったんだよな?」


 声は、懐かしむように言った。


 ああ、確か最初はそうだったっけ。


「お前、しなだれかかるみたいにしてさ。溜まってるなら、僕を使ってみない?……って」


 言ったね、そんなことも。


「ははっ。ツボ押さえてるよなぁ。さすがだよ。才能あるよな──男を誘う、さ」


 ああそれ、兄さんにも言われたんだっけかな。


「それからしばらく抱いてもらったよな。大好きな兄さんに抱かれて、あったかくて大きな手で触られて幸せだった?」


 うん、幸せだったよ。


「最後の一線みたいにキスだけは絶対にしてくれなくて、ただ性処理に使われてるだけって分かってたくせに、猫撫で声で甘えてたよなぁ」


 ね。馬鹿みたい。

 でも。それでも幸せだった。

 寂しかったけど、幸せだったよ。


「乱暴にされて、アザが増えても、ムラついたからって部活休まされても、幸せだったよな?」


 うん、そんなことなんでも無かった。

 すごく、すごく、すごくすごくすごく幸せだった。


 兄さんね、ピアスをいじるとくすぐったそうに笑うんだ。

 それで、誘ってんのかって。


「誘ってたんだろ?」


 うん、誘ってた。めいいっぱい、大人ぶって、素敵な女の人みたいにしようって。


「今思うと猫がじゃれついてる感じだったけどな。いや、小鳥かな?クン」


 うるさいなぁ、しょうがないじゃん。そんなのわかんないもん。


 兄さんはモテるから、引き留めたくていっぱいいっぱいだったんだもん。


「お前も、お前の感情も、少しも顧みられちゃぁいなかったけど、それでも気を引こうとしたんだよな?ガキで、バカで、何にもないお前にはそれしかなったんだから」


 まして、僕は男で、肉体的な快楽以外に、兄さんを繋ぎ止めるものがなかった。


「だから、にいさんに女ができたらあっさり抱いてもらえなくなったよな」


 うん、でも、それでも別れた直後とか、喧嘩してたり都合がつかない時に、雑に抱いてもらってさ。


 それだけでよかったよ。相手がいないタイミングで、時々でも抱いてもらえたら、それでも良かったよ。


「だけど、今の奥さんになる人だったかな?香里さん。お前が大学卒業する前くらいからさ、付き合い始めて」

「うん、そうだったね」

「そいつが現れてから、変わっちゃったんだよな」

 

 香里さん。兄さんの、今のところ最後の恋人。

 

 多分、綺麗な人だと思う。女の人の美醜はわからない。そもそも兄さん以外の美醜に興味がない。

 性格も、いいんじゃないかな?多分、いいんだろうね。


 でも、それだけ。それだけだと思う。

 特別じゃない、よくいる善人で、よくいる真人間で、よくいるいい女で。

 ただ、それだけ。

 

 だから、あの兄さんがあんなに入れ込むなんて思わなかった。


 もう、ああいうのは良くないと思うからって。

 香里に顔向けできないって。

 そう言って、兄さんは僕としたことを、全部なかったことにしたいと言ってきた。


 香里さんを幸せにするために、過去にやってしまったことを精算するんだって、そんなことを口走っていたっけ。


 まじ、ウザ。

 なに、正しいぶってるんだろう。

 ばかばかしい。

 

「どうせすぐ別れるって思ってたよな?そしたらまた抱いてくれるって。でも思ったより長続きして、それでお前、二人が歩いてるの見て折れちゃったんだよな?」


 うん。学校からの帰りに、たまたま。


 泣いちゃったなぁ。


 兄さんが、あんなふうに笑うなんて知りもしなかったんだもん。


 並木道を、歩いているだけの大して絵にならない光景の中で、兄さんは普通に普通な女の人の肩を抱いて、これ以上ないくらい笑っていた。

 

その笑顔が、あんまりにも暖かくて。

 

それで。


 僕がしていたのは、どうしようもない、しょーもない茶番はだったって、思い知った。


 ずっと、なにか少し、本当になにか少しくらいは兄さんの中に、僕の欠片があるんじゃないかって、期待していた。


 でも、ない。

 あの人にとって僕は便利な弟で、それだけ。

 

 兄さんが僕にくれていたものなんて、本当になんてことのない、どうでもいいものだけだった。


 なのに、調子に乗っちゃったんだ。


 ごめんなさい。

 兄さん、ごめんなさい。

 ずっと勘違いしててごめんなさい。

 

 声は、兄さんが変わったっていうけれど、別に兄さんは変わっていない。


 相変わらず、兄さんは僕のことは平気で殴ったし、便利に使うし、無関心で横暴だし。

 兄さんがそういう人間にままだから、今僕は死体を埋めるために車を走らせてるわけだし。


 ただ、香里さんに対してだけ、兄さんが僕の知らない兄さんだった。それだけ。僕は兄さんの特別でもなんでもなかった。


 ほんとに、それだけ。

 


「にいさんは、多分元から優しい人だった。好きな人には、特別な人には優しく笑う人だった。ただ、今まで特別がいなかっただけでさ。それが香里さんだったんだよな」


 うん。多分そう。

 なんていうか、さ。

 ふざけんなよ。


「な?ふざけんなよな」


 僕のこと、散々殴って、僕のこと、抱いてくれて。


 それが。

 それがさ。


 あの時、香里さんと歩いている兄さんを見た時、僕のなかの、何かが死んでしまった気がした。その死んだ何かは、僕の中で、ずっと横たわっている。


「ま、そういうことだよ。さて、じゃぁ問題。おれはなんでしょーか?」


 振り向くと、死体は後方座席に座っていた。


 ああ、ていうかお前が着てるそのセーター、僕の高校の制服じゃん。


「そーゆーこと。お前の、恋する気持ち。ガキだったお前の、もしかしたら兄さんが気持ちに答えてくれるかもていう、淡い希望。お前が死なせてしまったお前。あはは」


 真っ暗な穴から、声が響く。僕の声だ。ずっと僕の声が、僕に話しかけていたんだ。


「なあ、知ってるか?死体をちゃんと弔わないでずーっと放っておくと、真っ黒い鳥の妖怪になって化けて出るんだって。お前、おれのこと、忘れることも、踏ん切りつけることもせずに、そのままにしておくんだもん」

 

 ああ、そういえば昔、本で読んだよ。それ。


 鬼太郎とかに出てる、割と有名な妖怪だよね。


 確か、名前は。


──陰摩羅鬼。

 

 念仏を怠った坊主の前で、死者の魂が怪鳥となりゲラゲラと笑うという。


「あれはさ、厳密には妖怪っていうよりも、『仕組み』なんだ。この入力にはこの出力があるよっていう、自然現象。だからほんと、おれはお前も兄さんも恨んでないってことだけは理解して欲しい。不本意なんだぜ?実際」


 死体は、顔にあいた真っ黒な穴を、指先でカリカリと引っ掻いた。


 僕の頭の中に、ひとつの情景が浮かぶ。


 高校の制服を着た、僕の死体が、兄さんに抱かれたあの部屋の中で、腐食して、腐乱して、どろどろ溶け出して。

 それが揮発して、もやもやと黒い霧のようなものが立ち上り、真っ黒い鳥になる。


 そんな、情景。


 そっか。


 僕が、見ないふりして野ざらしにしておいたから。それは、かわいそうなことをしたな。

 あの日の僕を1番雑に扱ってたのは、兄さんじゃなくて、僕だったんだろう。しょーもない。


「ところでさ、なんでお前鳥の姿じゃないの?」


 僕は、乾いた声で、笑いながら言った。


「そりゃ、御鶴クンだからな」


「あは。そっか」


 面白くないのに、笑いが止まらない。


 はは。あはは。けらけらけら。けらけらけら。


 

「で、どうすんの?おれ的には今からでもお前に立ち直ってもらって、成仏してもいいんだけど?おれなんかさっさと荼毘に伏して、新しい恋見つけろよ、てのがおれの提案」


 なにそれ。

 

 無理でしょ、今更。


「他にはなんかないの?」


「そっか。残念。じゃぁ、もうひとつは……これは全くおすすめしないんだが……成仏できない以上、化けて出て、祟るしかないんじゃないか?」


「いいね。それで」


 僕は、なんだか無性に涙が溢れてきて、それを止めることもできなくて、陰摩羅鬼の、ぽっかりと空いた穴の中に、自分の顔を突っ込んだ。


 ああ、嫌な匂いがする。

 嫌な汗が、染み出してくる。

 ほんと、最後までしょーもない。


 遠くでは鳥が、鳴いていた。

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