エピソード3 初恋の君
「――どういうことですか!」
エクリプス公爵家の屋敷に戻るなり、アンネローゼは執事に詰め寄った。
「な、なんのことでしょう?」
「ロベルト公爵様のことです。貴方は討伐に出掛けられたとおっしゃいましたよね? ですが町で話を伺えば、みな声を揃えて、今日帰還したと言っていました」
「そ、それは……」
執事が視線を泳がせた。
その瞬間、アンネローゼは自分が嘘を吐かれたと理解する。
「……いいわ。そちらにもなにか事情があるんでしょう」
「ご、ご理解、いただけるのですか?」
「ええ。ですが、わたくしは帰らせていただきます。シャロ、馬車の用意を」
「かしこまりました」
二人して踵を返す。
執事が慌てて回り込み、その行く手を遮るように両手を広げた。
「お、お待ちください、アンネローゼ様! これには事情があるのです!」
「ええ、そうでしょう。ですから、その件について抗議はいたしません。けれど、それと縁談については話が別です。わたくし、信用の出来ない方と添い遂げるつもりはございません」
「……それは、理解できます。しかし、本当にやむにやまれぬ事情があるのです」
「そのやむにやまれぬ事情というのは?」
「それは……」
ここに来ても隠そうとする。
(それじゃ、信用なんて出来るはずないじゃない)
これ以上は話しても無駄だ。
そう思ったアンネローゼが今度こそ別れを告げようとする。
その直前――
「では、せめて、今夜だけはこのお屋敷にお泊まりください。ここは辺境の地ですので、夜に街道を通るのは危険です」
「……それは、脅しかしら?」
「滅相もございません。旦那様は貴女になにかあることを決して望んではいません。本当に、辺境の地は危険なのです」
真剣な眼差し。
さきほどと違って、その眼差しは嘘を吐いているようには見えなかった。それを踏まえ、どうしますかと問い掛けてくるシャロに向かって、アンネローゼは小さく頷くのだった。
夜更けのバルコニー。緩やかに吹き抜ける風が、アンネローゼの前髪を揺らす。月明かりを受けたプラチナブロンドがキラキラと煌めいている。薄手のネグリジェに上着を羽織ったアンネローゼは手すりに身を預け、眠れない夜を過ごしていた。
「わたくしの異能が目当てでもかまわない。ただ、誠意ある態度を示してくだされば……と、思っていたんですけど、上手くいかないものですね」
アンネローゼは幸せな結婚に憧れている。だけど、ラインハルトの婚約者だった彼女は、既に現実がどういうものかも知っている。
その上で、身の丈にあった幸せを求めているのだ。
「わたくしは……」
夜空に向かって手を伸ばす。
刹那、にゃーと鳴き声が聞こえた。
「猫……?」
どこからと視線を巡らせれば、隣の部屋にあるバルコニーの手すりの上に、真っ黒な猫が座っていた。
「……あなた、この公爵家の猫ちゃんなの?」
「にゃー」
コクンと頷いたように見えた。
もちろん、ただの偶然だろう。そう思いながらも、アンネローゼは猫に微笑みを向けた。
「……少しわたくしとお話しませんか?」
「にゃー」
ぴょんと、バルコニーの隙間を飛び越えて、こちらの手すりの上に降り立った。猫は驚くアンネローゼにゆっくり近付いてくると、手すりの上に乗っていた腕に頬ずりをする。
「驚いた。本当に賢い猫ちゃんですね」
「にゃー」
「もっとも、私は犬派なんですが」
「にゃ!?」
「でも、賢い猫ちゃんは好きですよ」
「にゃ~」
本当に可愛らしいと、アンネローゼは笑みを零す。
だけど、現実を思い出してすぐに寂しげな顔をした。そんなアンネローゼの内心を理解しているように、猫がアンネローゼの腕の頬ずりをする。
「優しいのね。あなたのご主人様も、あなたのように優しければよかったのに」
「……にゃあ」
猫がしょんぼりと項垂れる。
「……でも、酷いのはわたくしのほうかもしれませんね。ねぇ猫ちゃん、少し昔話を聞いてくださいますか? わたくしには、初恋の男の子がいるんです」
猫は答えない。
だけどアンネローゼは手すりに身を預け、そのまま静かに語り続ける。
王城の中庭で出会った、年上の男の子との思い出。一緒に過ごしたのはわずかな時間だったけれど、その男の子のことを好きになってしまったことを。
「でも、そのときのわたくしは既に婚約をしている身だったので、男の子のことはすぐに忘れました」
寂しげに笑うと、猫がじっとアンネローゼを見上げていた。まるで「本当に?」と聞かれているような気がして、アンネローゼは視線を彷徨わせる。
「……忘れたつもりだったんです。でも、ラインハルト様に婚約破棄を言い渡されて、もしかしたらあの子が、わたくしを迎えに来てくれるかも……なんて」
アンネローゼはそう期待してしまった。忘れたつもりで、男の子のことを少しも忘れていなかった。ただ、心の片隅に押しやっていただけだったのだ。
だけど――
「……だけど、物語のような都合のいい展開、あるはずないでしょう?」
あれから十年が過ぎている。
あのときは、男の子もアンネローゼに好意を抱いてくれていたかもしれない。だけど、婚約者のいる相手を十年ものあいだ思い続けるなんてあり得ない。
それどころか、年上の男の子はとっくに結婚している可能性が高い。
結局のところ、幼い頃より婚約者を決められてしまったアンネローゼにとっての唯一の希望だったのだ。いつか、なにか奇跡が起きて王子との婚約が取りやめになり、それを聞きつけた男の子が自分を迎えに来てくれるかもしれない――という儚い夢。
でも、それは夢であって現実ではない。
王子から婚約を破棄されるに至ったけれど、男の子が迎えに来るはずはない。でも、そんな現実を突き付けられるのが怖くてこの縁談に臨んだ。
男の子が迎えに来ないのは、アンネローゼが次の婚約を決めてしまったから。アンネローゼのことを忘れているからではない――という、自分を誤魔化すための口実が欲しかった。
アンネローゼは、唯一の希望を失うのが怖かった。
「……こんな気持ちでお見合いをするのは失礼でしたね。ロベルト公爵様がわたくしと会ってくださらなかったのも、きっとこんなわたくしの気持ちを見透かしたからなんでしょう」
「にゃー」
猫がアンネローゼをまっすぐに見上げる。
まるで、なにかを訴えかけるような、そんなまっすぐな視線を感じる。
「……猫ちゃん?」
「にゃっ!」
猫はクルリと身を翻すと、隣のバルコニーへと消えていった。
「……猫ちゃんにも振られてしまったわね」
寂しげに笑う。だけど、ずっと心の内に秘めていた想いを打ち明けたことで、今日のアンネローゼは少しだけ眠れそうな気がした。
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