ユキちゃん(幕間)

「もう嫌だ……」ユキは布団に包まりながら、ついに呟いた。それはフリースクールで一日目を過ごして以来、心のどこかでずっと思っていたことだったが、今まで口に出さずにいた。意図してのことではない。ただ、自分の中に眠るプライド――そんなものが自分にもまだあったのかと思えるほどの小さなプライドだったが、それが腐りかけのトタン板のように頼りなく、心の叫び口を塞いでいたにすぎないのだ。防御壁が破られたが最後、中でくすぶっていた弱い感情が、地震を感知して逃げ出す鼠の集団みたいに、一斉に外へ飛び出していった。もう嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤダイヤダイヤダ。ユキは布団を被り暗闇の中で両目を見開き、ごめんなさい、お父さんお母さんごめんなさい、と呪文のように呟く。お父さん、お母さんごめんなさい。我儘を言ってごめんなさい。あなたたちが嫌いでごめんなさい。私はお二人がどうしても好きになれませんでした。愛をくれなかったから、ただ義務みたいに私を育ててくれるだけだから、ああ、それだけで。私はなんということをしてしまったのだろう。それだけで十分幸せだったのだ。愛を受けられず、何も期待されない、何もされないということがどれだけ幸せか、私はわかっていなかった。親たちがいないここにくれば、必ず仲間がいると思ったのだ。自分と同じように親に愛されない仲間。私はそれと友達になる必要はなく、ただそういう存在がいるのだと知るだけで良かった。確認がしたかっただけなのだ。だけどそんな人はどこにもいなかった。私と同じ人なんて。みんな気が狂っている。おかしいんだ。みんなおかしくなってる。一番怖いのは無関心じゃないんだ。憎む。憎む憎む。悪意。わざわざ寮に虐待写真を送りつけるような。絶対逃げられると思うなよ? お前はもう逃げられないんだ、逃げられない……道連れにしてやる。大人の男の声が、あれは、獣なんだ。自分より弱いものに暴力を振るうことしか考えられない獣。人間じゃないから、生きる目的が全く違うから。逃げるしかない。どこまで? どこまで逃げるの? あの人が死ぬまで。七十歳? 八十歳? どうして、どうしてそんな目にあわないといけないんだよ。生まれてきたこと自体が駄目だった? そんなことって――「駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だダメだダメだダメだダメだダメだダメダダメダダメダ」そのとき襖を開く音がして、ユキははっと呼吸を止めた。反射的に耳をふさぐ。壁ガリ女が戻ってきたのだ。壁ガリ女。昼間は気持ち悪いぐらいにニコニコしている。夜になると壁をがりがり掻き毟り出す。変な奇声を発しながら、一晩中。狂っている。狂ってるんだよ。耳を塞いだ状態で聞こえるのは、自分の呼吸の音だけだった。ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ……だんだんと速くなるのを感じ、ユキは唾をごくりと飲んだ。無理やり息を吐くペースを落としていく。分厚い羽毛布団を被っているわけだから、苦しくなった。酸素を少しでもかき集めるように口が大きく開いて、それでもペースを緩めるのを止めなかった。胸が風船のように大きく膨らみ縮み、頭の中に聞こえる音が、はぁぁっ……、はぁぁっ……と、潮が満ちて引くような、大きな、大きな、自分の中の何かを攫って、何かを連れてくるような……潮が満ちてきたそれは、具体性を伴っていた。指にぎっしり巻かれた包帯がほつれて、ボロボロの、肉と爪が一体化してグチャグチャになった指先が壁を一心不乱に掻いて。壁ガリ女だ。耳はぴたりと閉じて音は聞こえないのに、わかる。掻いているんだ。ガリガリと、漆喰の内壁を。いちど思い浮かぶと。もう止まらなかった。目を閉じても開いてもその光景が目に入ってきて、おまけにガリッと頭に音が聞こえてきた。「ガリッ、ガリッ、ガリッ、ガリッ、ガリッ」ひとつひとつが爪が剥がれんばかりに強烈で、それが何度も、何度も、何度も。ガリッ、ガリッ、ガリッ、ガリガリッ、ガリッ、ガリガリガリガリッ……いくら耳をふさいでも止まない。それは自分の内側から鳴っているのだ。記憶がかき鳴らしている。ガリッ、ガリッ、ガリッ、ガリッ、ガリッ、

「もうやめて!!」ユキは布団を放り投げ、ヒステリックに叫んだ。抗議というよりも懇願だった。お願いだからもう、壁を掻き毟ることだけはやめてほしい。なんでもするから。もう一生愛されないままの人生でも受け入れるから。偽らざる本音が心の奥から飛び出してくる。自分は弱いのだ。無関心の檻のなかで守られていなければ、あっという間に捕食される運命の弱い草食動物なのだ。ぼやけていた視界が少しずつ鮮明さを取り戻し始める。目を開いているのだ。閉じなければならないのに、目を閉じる気力すらない。ガリッ、ガリッ、ガリッ、と脳内に聞こえる音がだんだん小さくなっていって、壁ガリ女が映った。そのウェーブがかった茶髪のロングヘアーは誤魔化しようがない。人形のようなのだ。人形のように細い、ビニールテープを割いたような髪が腰の上あたりまで流れて。壁ガリ女はひとつしかない窓から外を、薄っすらと夜の月から降り注ぐ青白い光を受けて、空を見上げていた。え、と思う。とっくに壁をガリガリしていたはずの女は、ただじっと空を見上げていたのだ。「ユキちゃん……?」壁ガリ女はゆっくりとした声で、ゆっくりとつぶらな瞳をこちら側に向けた。つぶらな瞳だ。狂気を帯びているのではなく、どこかから借りてきた、愛でるために育てられた愛玩動物みたいに。昼の彼女と一緒だった。夜は狂うくせに、昼はずっとニコニコしているのが恐ろしく不気味で。この子は間違いなくキチガイなのだとユキは理解していた。理解不能の、キチガイ。しかし月明かりが頬を青白く照らし、悪意もなにも見当たらず、じっと自分を見続ける瞳。おそらくそれは気のせいだ。気のせいであるのに、少女が全くまともな人物であるように思えた。一瞬だけ、そう見えたというだけなのに。「ユキちゃん、どうしたの? 怖い夢でも見た?」いや、と言ってユキは瞼を下げた。暗闇の足元をじっと眺める。混乱していた。まともな人物に見えることも、まともな言葉を投げかけられたことも。よく考えれば、外は真っ暗。とっくに消灯時間なのに、ひとり窓辺に座り込んで空を眺めている。おかしいとは言えないが、全くまともとも言いづらい。だけど今ユキは、自分のほうがまともではないように思えて恥ずかしくなった。自分は何を恐れているのだ? 何を、何を? ゆっくりと面を上げると、壁ガリの少女は既にこちらから目を離し、再び空を見上げていた。降り注ぐ月光に正面を向くようにして。見ていればそこから誰かが降りてくるのだと、言っているみたいに。 ……満月? そうだ、とユキが視線を上げた先には暗闇の天井しか見えなかった。しかしその先には、この無機質に立ちはだかる天井がなければ満月が見えたはずだ。綺麗な綺麗な、真円の月が。lunatic――ユキはかつて本で得た知識を思い出した。月による狂気。満月の夜に変身する狼男のように、その怪しげな光か引力が人を狂わせる。いま私の目に映る壁ガリの少女は、嘉間良アカネという女の狂気は、月によるものなのだろうか。そのエネルギーをいま溜めている? それとも、もっと狂いたくて……後者の考えに至ったとき、ユキは全身の寒気でぶるりと震え、思わず布団に潜った。そして寝るふりをした。隙間から覗く月明かりの少女は、ずっと空を眺めていた。延々に引き伸ばされそうな長い時間、ずっと、ずっと。


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2013年10月頃?作

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