バーガー・タイムトラベル

しろすけ

未来のフィレオフィッシュ

未来のフィレオフィッシュ


 僕はフィレオフィッシュを食べた。


「あー、今日もうめえ」


 仕事で疲れ切った心身にフィレオフィッシュが溶けていく。

 一口かぶりつくごとに脳内も口の中もフィレオフィッシュで満たされ、店内の騒々しさすら遠くなり、消えていく。彼はこの時間がたまらなく好きだった。

 男の名は佐藤。24歳、独身。好きなものはフィレオフィッシュ。

 小学生の頃、親に連れられて来たマクドナルドにて人生初フィレオフィッシュを経験、彼の中で激震が走った。幼いながらも「こんなに美味いものがこの世にあっていいのか」と思ったほどだ。

 その日から佐藤はフィレオフィッシュの虜になった。お小遣いが貯まればマクドナルドへ直行し、同年代の誰よりもフィレオフィッシュを食べた。

 社会人になり、ブラック企業に勤めるようになってからは食べる頻度が減ったものの、必ず週に一回はマクドナルドへ通っている。もちろん、目的はフィレオフィッシュ一択。


「ご馳走様。今日も最高だった」


 店を出て、すっかり暗くなった空を眺める。佐藤は未だ口の中に僅かに残るフィレオフィッシュの味をしっかりと噛み締めた。また来よう、と何百回思ったであろう言葉を小さく溢す。

 しかし、彼を包んでいた幸福感はそう長くは続かなかった。夜道を歩き、マクドナルドが遠ざかるにつれ、だんだん現実へと引き戻される。


「はあ、くそ。なんなんだあの上司。自分の仕事を僕に押し付けやがって。なのに、提出期限が明日だぁ? いい加減にしろよ……僕は奴隷じゃないんだぞ? ……はぁ」


 怒りに任せて小石を蹴る。当たりどころが悪かったのか思ったより転がらず、それは数十センチ先の街灯の下で停止した。思い通りにいかず、舌打ちをする。


「このっ」


 小石を思いっきり蹴り上げようと足を引いた瞬間、物陰から猫が飛び出した。


「ちょ、うわ」


 今、小石を蹴ったら猫に当たるかもしれない。

 一瞬の思考ののち、佐藤は躊躇し、その結果派手にバランスを崩し、大きく尻餅をついた。


「いってぇ……ったく何してんだよ、僕」

『……それはこちらのセリフです』


 聞き慣れない声に顔を上げる。


「は……?」


 そこに広がっていたのは衝撃の光景だった。

 見たことないほどの巨大なビルが立ち並び、これまた巨大な3Dのプロジェクションマッピングがそこかしこを埋め尽くし、大空には何重もの道がかかり、挙げ句の果てには車が飛んでいる。

 確かに夜なのだが、ビルやら何やらから発される光の量が多すぎるため、一瞬昼に見間違えてしまうほど明るい。

 寂れた夜道とは正反対な光景が佐藤の視界を埋め尽くす。

 呆然とする佐藤の傍を奇抜なファッションの人々が歩き去っていく。ちらちらという視線に気づき、佐藤は顔を赤らめながらようやく立ち上がった。

 そこで彼はあるものに気がつく。自分と同じ目線の高さに20×15センチほどのiPadのようなものが浮かんでいた。その真っ暗な画面には子供でも描けるような、三本の線で表した簡素な顔がかかれている。

 とりあえず、掴んでみる。


『わっ!』


 喋った。

 さっき声を発したのはこのiPadだろうと推測する。


「会話できるのか?」

『はい! 私はナビゲーターです』

「お、おう、そうか。じゃあナビ、言葉が分かるなら説明してくれ。これ、どんな状況だ? 車が空飛んでるぞ? なに? ドッキリ?」

『そのことを説明するために参りました。単刀直入に言いますと、貴方は過去からタイムスリップして未来にきたのです』


 言葉が詰まる。こいつは何を言っているんだと思考する。しかし、言葉以上の意図が見当たらない。

 困惑する頭でなんとか口を開く。


「タイムスリップって、あれ、だよな? 過去から未来にいける、みたいな」

『さっき私が同じこと言いましたよ』

「だ、だよな。じゃあ、今って西暦何年?」

『現在の西暦は2613年、9月3日金曜日です』

「ああ、ご丁寧にどうも。……2613年!?」


 佐藤がいた年は2022年のため、約600年ほどタイムスリップしてきたということになる。


「ちょっと待って。待って。え? は?」

『最近科学者がタイムマシンの研究を始めたのですが、それと同時にタイムスリップの誤作動が確認されてまして、こうして稀に過去や未来から人が召喚されるんですよね。そんな時、ナビゲーターである私が出動して現状を伝え、貴方みたいな方をどぅどぅどぅして落ち着かせるのです。全く困ったものです』

「なに被害者面してんの!? てか迷惑すぎね!?」


 頭を抱え、「一旦整理させて」と言う。


(僕は佐藤。身長175センチの24歳独身で誕生日は5月30日生まれた時間は21時32分。よし、僕は正常だ。たぶん)


 見ると、両手で掴んだままのナビは口をへの字に曲げ、困ったような顔をしていた。その表情になんだか腹が立ち、ずっと見ていると無意識に画面を割ってしまいそうでさっと視線を背ける。


(この僕佐藤はブラック企業に勤めて毎日上司に無理難題を課されている。ひいひい言いながらもなんとか生きてきた。唯一の癒しはマクドナルドでフィレオフィッシュを食べること。フィレオフィッシュを……あっ)


 両手に力が入る。手元のナビが何かを言う前に佐藤は口を開いた。


「フィレオフィッシュは! あるのか!?」

『……はい?』

「フィレオフィッシュは! あるのか!?」

『……はい?』

「何回やらせんだ! マクドナルドのフィレオフィッシュはまだあるのかって訊いてるんだ!」

『そうですね。そのことも含めて歩きながら話しましょうか。ここの案内をします』

「……分かった。案内してくれ」

『あといい加減手を離してください』



▲△▲



『ここはドンキホーテです』

「ほう。600年後にもあるのか。すごいな」


『ここはGoogle本社です』

「うわー、ビルの上の方見えねえよ」


『ここから先はタイムマシン研究施設です』

「あとでクレーム入れてやる」


『そして、ここがマクドナルドです』


 そこまで距離はなく、あっさりと到着する。

 店のデザインはそこまで変わっていない。トレードマークの、赤い背景に黄色いMの字は相変わらずでどこか安心感を覚える。

 店の前に立つだけでバーガーとポテトの香ばしい香りが鼻腔をくすぐった。先ほど食べたばかりのはずなのに、お腹がぐぅと間抜けな音を立てる。


「未来のマクドナルド……! 進化したフィレオフィッシュ……!」


 佐藤はうっきうきで店に入った。彼の中ではすでに未来やらタイムスリップがどうとか言う話はどうでも良くなっていた。ただ、未来のフィレオフィッシュを食べたいという欲が佐藤を支配していた。


 そんな佐藤だったが、数分後、絶望した様子で店から出てきた。ナビはにんまりとした顔で佐藤を待っていた。


「ない。フィレオフィッシュが、ない。ついでにこの時代の通貨もない」

『実はフィレオフィッシュは100年ほど前に廃止されたのですよ』

「先に言え!」

『ハイテンションな貴方を見てるとなかなか言い出せなくてー』

「じゃあせめてすいませんって顔しろよなんだその顔画面かち割るぞ」


 いつも世話になっている店の前でギャーギャー騒ぐわけにもいかないので、佐藤は今にも飛び出しそうな右ストレートを堪え、大きくため息をついた。


「なんでないんだよ……。未来人は魚食わないの?」

『これには理由がありまして』


 真剣な顔に変わるナビ。


『2500年を越えたあたり、世界的にとある問題が起こりました。なんだと思いますか?』

「え? うーん、高齢化? あと人口の減少とか?」

『ぶっぶー。残念。馬鹿野郎。正解は生物の絶滅の増加です』

「ナチュラルに悪口止めろ?」

『生物の絶滅増加。森林が減り、大気が汚染され、動物たちの住処はどんどんなくなっていきました。このまま絶滅する種族を増やしては生態系が崩れてしまうと恐れた政府は動物愛護法を改正、発令しました』

「ナチュラルに話進めるのね」

『その内容は驚きのものでした。元々あった動物の虐待禁止等に加え、彼らの殺傷を全て禁じ、獲ることも、食べることも、何もかもがダメになったのです』

「って、え? 動物の殺傷を禁止? つまり肉食べれないの?」

『そういうことです』


 いや、と佐藤は心の中で否定した。

 マクドナルドに入った時、美味しそうにハンバーガーを頬張る客がいた。その時見えたが、確かにハンバーガーには肉が挟まれていた。動物愛護法に従うのなら肉があるはずがない。


『改正当初は批判が殺到しましたが、技術の進歩により、肉以外の材料で肉の味を完全に再現できるようになっていたのであっという間に反対意見は消えました』

「あー、2022年ですら大豆で作った肉なんてものがあったからな。600年も経てば完全再現なんてちょちょいのちょいか」


 納得する。否、納得できない。そこまで再現できる話ならフィレオフィッシュだって魚がなくても作れるはずだろう。今はそこが問題だ。

 その旨を伝えると、


『フィレオフィッシュに使われていた魚のスケソウダラですが、絶滅してしまって。味は再現できるのですが何ゆえ再現に使う材料のコストが高く、当時はそこまで人気があったわけではなかったのでわざわざ作るほどじゃないと判断したらしくそのまま廃止の流れに……』


 と、ナビに説明される。


「嘘だろ僕のフィレオフィッシュ……」

『貴方のではありませんけどね』


 足元から崩れ落ち、膝をつき、四つん這いになる。これだけ目立つ行為をしてもなお、佐藤の内に秘める絶望度は表せられない。

 彼の人生を薔薇色に変えてくれたフィレオフィッシュ。友達と喧嘩した時も、受験の時も、仕事で5徹した夜も、いつも佐藤の側で支えてくれていた。そんな食べ物が未来で食べられる。しかも、味も進化してより美味しいものに変わっているはずだった。

 期待が大きすぎた分、落差は激しいものだ。佐藤は周りの喧騒も、景色も、全てが遠ざかっていくような感覚を覚えた。

 自分が落とした影をただ見つめ、動く気力もない。それどころか、影がどんどん大きくなっていく錯覚を覚え、佐藤はそれに飲み込まれていった。


『フィレオフィッシュ一つでどれだけ落ち込むんですか……』


 頭の隅に届いたナビの声だが、気にする余裕もない。

 一体どうすれば、フィレオフィッシュを食べられるのか。廃止される前の時代にタイムマシンで行くか。それともーー。

 その時、佐藤に一筋の光が差した。光は佐藤の目の奥を照らし、彼の中で肥大化した影がみるみると縮んでいく。都会の喧騒が、景色が、色彩が、全て戻ってくる。

 どうしてこんな簡単なことに気づかなかったのだろう、と佐藤は自分を嘲笑った。


「ナビ」

『はい』


 佐藤は決心した。24年の人生で最も大きな志を持ったと言っても過言ではなかった。


「僕がフィレオフィッシュを作ってやるよ」



▲△▲



 ゆっくりと地面に足をつける。バランスを崩しそうになるが、なんとか耐える。

 息を整え、前を見ると、そこには天を穿つような巨大な建物は並んでいないものの、2022年の東京の大都市の雰囲気に似た、十分都会と言って良い景色が広がっていた。


『まさか、自分で作ると言い出すなんて思ってもいませんでした。こんな理由で月に来る方初めてです』

「言ってろ」

『場所が場所なので転送装置を使いましたが気分はどうですか?』

「最悪だよ」


 転送装置。全く別の場所と場所を繋ぎ、一瞬で物や人を転送できる代物、とナビは言っていた。しかし、転送の際にかかる負荷が人にとっては辛いもので、大抵の人は吐き気や頭痛などの体調不良を訴えるそうだ。佐藤もその例外ではなかった。


「う、うげえぇ」


 物陰で盛大に吐く。


『初上陸でそれですか』

「うるせえ仕方ないだろ! おええぇ。僕だって月で吐きたくねえよ」


 そう、佐藤は月にいた。

 ナビによるとフィレオフィッシュを作るための材料はここにあるらしい。

 月には誰でも無料で行ける制度らしく、スーツ姿で明らかに浮いている佐藤でも止められることなく来ることができた。いや、実際不審者扱いされそうになったが、ナビが事情を説明してくれたおかげで来れた。ナビさまさまである。


(それにしてもナビがくれた適応クリーム、全身に塗れば宇宙でも動けるし呼吸できるってマジじゃん……。月に住んでる人も沢山いるみたいだし、改めてすごい時代だな)


 吐き気がおさまり始め、近くの水道で口を濯ぐ。重力が地球よりも軽いためか微妙に苦戦した。


「よし、すっきり。完全回復」


 タイミングを見計らい、ナビが近づく。


『話したいことがあります』

「おうよ。また真剣そうな顔だな。材料のことか?」

『いえ。タイムリミットのことです』


 佐藤の顔から笑みが消えた。タイムリミット、という言葉の意味を咀嚼し、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「当たり前のことを訊くが、それはつまり、僕が帰らなくてはいけない時が来る、ということか?」

『はい。厳密には帰らされる、ですけど』

「帰らされる?」

『ええ。貴方は本来この時代にいるはずのない人物です。過去には過去の、未来には未来の文明や物があり、それらを持ち込まれると我々の時代は大きく変化してしまう恐れがあります。実際に、300年ほど未来から召喚された方は街一つ破壊できるような武装を隠し持っていました。300年後ではその武装の所持が正当化されているらしく、お優しい方だったので大事には至らなかったのですが、危険な思想の持ち主だったらと思うと今でもぞっとします』


 まあつまり、とナビは続ける。


『間違えて過去人や未来人をタイムスリップで連れてきた場合には、その瞬間から24時間後に元の時代に強制的に戻すよう義務付けられているのです。貴方はフィレオフィッシュ馬鹿のようなのでその他の事に頭が回らないと見なし、問題は起こさないと判断してますが決まりですので納得してください』

「一言余計だよ。たったの1日か、そういえば何時間経った?」

『5時間14分。転送装置絡みで数時間取られましたね』

「長かったもんなー。つまり残りは大体19時間か。ま、これくらいあれば楽勝だろ」

『案外あっさり受け入れるのですね』

「フィレオフィッシュが食べれるなら僕はなんでもいいからな」

『そうですか』


 ナビの表情が変わると同時に端末の背中を向けられる。一瞬、怒ってるような顔が見えた気がしたが、確証はない。


「おーい、なんで背中向けるんだよ」

『材料のところへ案内します』

「おーい」


 なぜか機嫌を損ねたナビの後ろをついていく。


「ロボットが一丁前に怒ってんじゃねーよー。なんかしてたら謝るからさ、機嫌直してくれよ」

『ロボットにだって感情はあります』

「そうなの? プログラムじゃなくて?」

『プログラムですよ。でも、感情は感情です。楽しいとか悲しいとか……無駄な機能だって思いますよ。人間も苦労してますね』

「ふーん…………」


 その後は何度話しかけてもナビは答えてくれず、諦めて無言で歩いているうちにビニールハウスに到着した。


『こちらです』


 ようやく口を開いたナビの案内で中に入る。そこでは、見たことがない黄色い植物が育てられていた。土の上からひょっこり顔を出し、高さは20センチほどだろうか。それ以上大きくならないのか、生えているものは皆その大きさに統一してあった。


「月でも育つ植物があるんだなぁ」


 感心していると、横のナビに動きがあった。

 その薄っぺらな端末のどこにそんなものが収納されていたのか、にょきっと細長い腕が生えてくる。佐藤がぎょっとしている内にも腕はどんどん伸び、身近にあった植物を引っこ抜いた。


「は? 何してるの!?」

『材料を取りに来たのでしょう?』

「いやいや、勝手に取って大丈夫なのか? 高価なんだろ?」

『これ自体にそこまでの価値はありませんよ。お金は私が払っておくので貴方はこれを』

「ああ、ありがとう」


 半端強引に植物を受け取らされ、ナビは近くの機械で何やら手続きを始めた。言った通り、お金を払ってくれてるのだろうか。


「あれ? 金払えるの? なら僕がマクドナルドから一文無しで帰ってきた時って……」

『ハンバーガー買えましたが面倒なので黙ってました』

「おい!?」


 何食わぬ顔で決済をする背後からナビを掴み、上下にぶんぶんと振る。


『わっ! やーめーてーくーだーさーいー!』


 佐藤の手から逃れ、怒った顔で振り向くナビ。しかし、何となくだが、どこか楽しそうだった。


『電流流しますよー!』

「こわっ」


 しばらく佐藤を睨みつけていたナビだったが、『冗談です』と、優しい笑顔に戻った。どこかピリついていた空気が和んでいくのを感じる。


 数分後、材料を持ち、さらに場所を移動する。ナビによると、このままでは使い物にならないらしい。


『先ほども言いましたが、この植物ーーモーント自体に価値はほとんどありません。なぜなら、月であれば誰でも育てられますし、別名【月の雑草】と呼ばれるほど繁殖力も高く、環境すら整えれば数日ほどで生えてくるからです』

「それで、高価な理由って?」

『加工工程です。とてつもなく面倒くさいのですよ。ほら』


 ナビの画面が矢印に変わった。その方向に視線を流すと、見覚えのある装置があった。忘れもしない。数時間待たされた挙句、月に来て吐いた原因である。


「げっ、転送装置。地球に戻るのか?」

『いえ。木星へ行きます』

「も、木星? え、いや、あそこガス惑星だろ? 行くにも何も、地面もねえし月より遥かに危険じゃないか?」

『そうです。だからフィレオフィッシュは無くなってしまったのです』

「何させられるんだよこれから……」


 促されるまま、転送装置の上に立つ。地球の時とは違い、受付の人はすんなりと通してくれた。


『これから木星の成層圏へ放り投げます。何があってもモーントは離さないでくださいね』


 佐藤は手元の黄色い植物ーーモーントを強く握りしめた。


「で、これから僕は何をすればいいんだ?」

『簡単に言うと植物を離さずに1秒耐えてくれればOKです。ですが、死にかけます』

「え? 死にかける?」

『はい。木星の成層圏は秒速400mの風が吹いていまして、これは2022年までに地球で観測された最も強い竜巻の3倍以上となります。そのど真ん中に今から放り出します。つまり、風で体が複雑骨折します』

「危険すぎだろ!?」

『複雑骨折程度なら月にある医療設備で後遺症もなく治療できますので大丈夫です。ですが、本当に死にかけるので怖いものは怖いですしトラウマに残るかもしれません。引き返すなら今です』


 未来にまで来て、マクドナルドも健在していて、フィレオフィッシュを作れば食べられると知って、月にまで来て、そこまできて吐いて終わりだなんて佐藤のプライドが許さない。答えはとうの昔に決まっていた。


「やってやんよ。最高のフィレオフィッシュ作るためにゃなんでもするぜ!」

『その意気です』


 ナビは笑顔で頷いた。

 気づくと、心臓が鳴り始めていた。恐怖と緊張からではない。これから起こることへの好奇心と、興奮に似た期待。佐藤はどこか楽しかった。地球で仕事に追われていた毎日ではきっと経験できなかっただろう。


「で、なんで木星にモーント? を持ってくんだ?」

『詳しい説明は省きますが、木星から発される放射線と人間の体温が同時にモーントに加わると性質が変化し、スケソウダラに限りなく近い味になるのです』

「はー、なるほどな。放射線は適応クリームで防げるのか?」

『もちろんです。それと、今、1秒で戻ってこれるよう設定しました。最後の確認ですが、モーントは絶対、絶対に離さないでくださいね』


 ナビの顔つきが真剣そのものになる。


『覚悟はよろしいですか』

「ばっちりよ」


 ナビが指示を出す。瞬間、目の前の景色が変わったが、佐藤がそれを認識することはなかった。体の奥から鈍く嫌な音が響き、視界が真っ暗になった。一瞬だった。声すら出ない。何が起こったのか、それすら理解できず、次に佐藤が見たのは白い天井だった。


「はっ!?」


 飛び起き、ぐらりと視界が揺れ、猛烈な吐き気に襲われる。

 すぐ横に窓があったので、顔を出し、盛大に吐く。


『大丈夫ですか?』

「大丈夫に見えるか? おぇぇ」


 しばらくして吐き気がおさまり、タイミングを見計らってナビが話しかける。


『15時間の手術は成功しました。今は吐き気があると思いますが、後遺症はあり得ませんので安心してください』

「おう。ありがとな」


 鈍い音がまだ耳の奥で鳴っている。形容し難い気持ち悪さに支配され、再び喉を何かがせり上がってくる。なんとか堪えたが、思わず顔を顰めた。


『本当に大丈夫ですか?』

「ちょっと気分悪いかも。水とかないかな?」


 差し出された水を飲み、落ち着く。あの不快な音もいつの間にかなくなっていた。

 そこでようやく周りを見回せるほどの余裕が出てきた。

 6畳ほどの部屋。真っ白な壁と床、そして天井に囲まれ、これまた真っ白なベッドに佐藤は腰掛けていた。枕元には小さな机があり、これも白く塗られている。大衆のイメージに沿ったであろう、シンプルな病室だ。

 壁にはスーツがかかっており、佐藤は薄いクリーム色の服を着ていた。病院の方が用意してくれたのだろう。しかし、やはり趣味に合わない奇抜なデザインをしている。


「あっ!? モーントはどうなった!?」


 手元に無いのに気がつき、焦る。


(離しちゃったか……? もしそしたらどうすんだ? また木星行くのか? あ、やべ、吐き気が)


 頭を抱える佐藤のそばでナビはにやにやと腹立つ顔で笑っていた。吐き気がおさまる。イラっときたが、その顔に安心感を覚える。


『ついてきてください』


 スーツに着替え、病院の方にお礼を言い、その場を後にする。体調は驚くほど万全で、むしろ手術前よりも良いんじゃないかと思うくらいだ。さすが未来の技術だと一人感心する。

 案内されたところは、月の表面にテーブルと椅子を置いただけの殺風景な場所だった。しかし、その向こうには丸く巨大な青い球体が鎮座していた。


「すっげ」


 思わず言葉をこぼす。神秘的な輝きと圧倒的な存在感を放ち、ちっぽけな自分の影がそれに飲み込まれていた。背後に瞬く星も、ずっと広がる宇宙ですら、その青い星を輝かせるためのバックダンサーにすぎなかった。

 間違いなく、この光景の主役は地球であった。しかし、佐藤は既に地球を見ていなかった。


「フィレオフィッシュだー!!!」


 テーブルの上に置いてあるのはその場で誰よりも小さいものだったが、佐藤には一番大きく見えた。彼の中では既に、地球はフィレオフィッシュを彩る絵の具の一つに変わっていた。


「僕、ちゃんと持ち帰れてたのか!」

『はい。首すら折れてましたがモーントだけはしっかりと握ってました』

「優秀だぞ僕! で、これは誰が作ってくれたんだ?」

『私の手作りです。病院の厨房を借りました』

「まじ!? すごいぞナビ! 大好き!」

『えへへ』


 早速、椅子に座る。ナビは佐藤の正面でふわふわ浮いている。

 ボリューム満点のフィレオフィッシュを両手で掴み、勢いよくかぶりつく。

 ふわふわのバンズが優しく唇に触れ、口の中を包み込む。タルタルソースの風味がさくっとしたフィッシュポーションと絶妙にマッチし、とろりとした濃厚なチーズが中で溶ける。肝心のモーントはスケソウダラの白身の味を忠実に再現し、食感も違和感がない。まさに、完璧なフィレオフィッシュだった。


『写真でも撮りますか?』

「うーん、いや、いいよ。どうせ元の時代にはその写真持ってけないだろ?」

『よく分かりましたね。馬鹿からちょい馬鹿にランクアップです』

「うれしくねーよ」


 サイドに添えてあったポテトを齧る。ほかほかと揚げたてで、塩加減もばっちりだ。

 あっという間にフィレオフィッシュがなくなり、ポテトも平らげ、最後にコーラで全てを流し込んだ。


「ぷはっー! 最高! 美味かった、まじで」


 人生で最も幸せな瞬間と言っても過言ではなかった。死にかけたかいがあったものだ。


「変な話だけど、こんな勇気出して自分で決断して何かを成し遂げたのって初めてかもしれない」

『そうなのですか?』

「ああ」


 口を拭き、地球を眺める。やはり、美しい。そこにいるだけでは一生感じなかっただろう。


「僕、小さい頃から結構適当に生きててな。学業も何もせず遊んで暮らしてて、でもどこか何とかなるって思ってたんだ。まあ、それでブラック企業に勤めることになっちゃって、このザマなんだけど」


 思えば、努力をしたことなんて一度もなかったかもしれない。


「何かのために一生懸命になるって、こんなにいいことなんだな。もっと早く知ってればな」


 何も考えず、歩いてきた。理想とは180度違う、現実を見た。なんとか食い繋ぎ、生きてきたが、自分は死んだも同然だと思っていた。でも、こうして目標を立てて、努力をして、それがいかに素晴らしいことか、ようやく分かった気がした。


「ナビはどうだった? 楽しかったか?」

『私……ですか』


 なかなか答えが返ってこない。佐藤はおもむろに立ち上がり、ナビを掴んだ。そして、上下に激しく揺らす。


『わっ! やーめーてーくーだーさーいー!』

「正直に言わないとお仕置きだぞー!」

『もう。……ふふ』

「ははは」


 ひとしきり笑い合う。


『私、楽しかったです』


 何度か見た明るい笑顔でナビは言った。だが、いつもとは雰囲気が違う。漠然と言い表すのなら、幸せそう、と言えた。


『貴方が木星から帰ってきた時、見るも無惨な姿で、正直怖くて怖くて仕方がありませんでした。絶対に手術は成功すると分かっているのに、15時間が長く感じて、不安で仕方ありませんでした。なので、貴方が元気に飛び起きた時、本当に嬉しくて』


 ナビは言葉を一旦切り、続ける。


『嬉しいだとか、悲しいだとか、楽しいだとか、人間は忙しいですね。でも、この忙しさも悪くはない、って思い始めました』


 喜びを体現するかのように、ナビは佐藤の周りをくるりと一周した。


『全てを乗り越えた後の幸福というのは素晴らしいものです。彼らはこれを感じて欲しいために私に感情という機能を付けたのでしょう』

「それは違うなナビ」

『……どういうことでしょう?』


 きょとんとするナビ。いつも生意気なナビのそんな顔に少し得意げになる。


「幸福を感じるために感情があるんじゃない。感情があるから幸福があるんだ。幸福はただの通過点に過ぎない。何かに触れて、感じて、例えそれが幸福じゃなかったとしても、それはそいつの経験になるだろ? つまり、ナビには色々なことを経験して欲しかったんだよ」

『そう、ですね。経験、ですか。では、今日の経験は私、絶対忘れません』

「僕も忘れないよ」


 ナビの顔が少しだけ歪んだ。その変化を見逃さない。


「何かあったか?」

『あの……』

「…………元の時代に戻ったら記憶が無くなるんだろ?」

『……! どうして……』

「写真を向こうに持ってけないって話で大体察したよ。こっちの文明を過去に持ってかれて歴史が変わっちまうのを懸念してるんだろ?」

『はい、そうです。その通りです。ここで起きたことは全部忘れてしまいます』


 地球に視線を戻す。そこは、青く、鈍く光っていた。


「ま、ナビは僕のこと忘れないだろ? それでいいよ、僕は」

『……はい! ぜっったいに忘れません!!』

「おう。って、なんか光ってない?」


 佐藤の体から光の粒子のようなものが飛び始めていた。ナビは『あ』と声を出した。嫌な予感がする。


『すいません、全然気にしてなくて、あとタイムリミット30秒です』

「はあ!? ええ!? そんな経ったの!?」


 話し込んでいるうちにだいぶ時間が経っていたようだ。視界が光に包まれていく。


『あの』


 罪悪感からか、ナビがおずおずと声をかけた。


『最後に名前、聞いてもよろしいでしょうか』

「ああーー」


 とびきりの笑顔で彼は告げた。


「佐藤雅人だ。ナビも笑えって」


 光の隙間から見えたナビの顔は、笑顔だった。



▲△▲



 にゃあ、と逃げていく猫を無意識に目で追いかけ、はっと我に帰る。佐藤は街頭の下で尻餅をついていた。


「あれ……何してたんだっけ」


 足元に転がる小石を見て状況を理解する。


「そうだよ。あのくそ上司。仕事を押し付けやがったんだ」


 悪態を吐きながら立ち上がり、尻の埃を払う。


「いっそのこと辞めてーー」


 自分の言葉に詰まり、佐藤は目を丸くした。


「そうだよ。辞めればいいんだ」


 なぜこんな簡単なことに今まで気づかなかったのだろう。


「仕事辞めて、もう一回大学入り直すか……親に頼めば金出してくれるかな……」


 自分でもどういう原理か分からないが、やる気が湧いてくる。


「そうだ。友達のとこの会社がアルバイト募集してんだっけ。そこも行ってみようかな。でもまずはーー」


 なんとなく空を見上げる。スマホを耳に当て、緊張からか喉仏が上下に揺れ動いた。頭上で佐藤を応援しているかのように月が輝く。


「あの、佐藤ですけど」

『あ? んだよ』


 電話の奥で不機嫌そうに返答する上司。


「僕、明日会社辞めるんで」

「は? おい、なに言って」


 切ってやった。清々しさと爽快感に包まれる。やってやったぞ、と大声で叫んだ。


『よくやりましたね!』

「……え?」


 声が聞こえた気がして周りを見回すが、無論誰もいない。


「気のせいか」


 一歩、確実に歩き出す。例え遅くても、それが彼の人生の一歩になったことに変わりはなかった。





おしまい

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バーガー・タイムトラベル しろすけ @shirosuke0000

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