天影無明 斑臥竜と天狐の姫
檻墓戊辰
序幕
序幕
その戦を人は『百鬼の役』と呼んだ。
戦乱の大地・ヒヨリガハラ。その中の扇喜(おき)幕府が支配する国に、北海よりオニが襲来した。人間よりも巨大なオニの進攻を止めること敵わず、北方を守護する諸藩は内地まで蹂躙される。そんな惨劇を幕府も見過ごすわけもなく、国中へ直令を飛ばし、大名らに北方へと進軍させた。またこの名を上げるチャンスに、燻ぶっていた腕自慢の武芸者や浪人も戦地へと集う。
浅黒い肌を持ち、頭部に数本の角を生やしたオニは、低い者でも七尺(約二メートル)を超え、筋骨も逞しい。力こぶだけで人間の成人男性の頭部ぐらいはありそうだ。
『剛磊(ごうらい)』と呼ばれるオニ固有の能力で岩石の強化外骨格に身を包む彼らに、生半可な攻撃は通用しない。また、見た目に反して動きは俊敏で、その剛腕から振られる一撃は武士十人を容易に吹き飛ばすほど。文明レベルこそ人間に劣るも、純粋な戦闘能力や危険を察知する嗅覚はオニに分がある。また、武士達を悩ませたのは、単独で動くことの多いオニが、統率された集団戦を仕掛けてきたことだった。
高度な戦術とまではいかずとも、単独でも厄介な相手が徒党を組んで迫ってくる。それだけでもかなりの脅威だった。
それでも戦場に立つ者達は、それぞれの戦鎧に身を包み、武器を手にして迎えうった。強力な力の込められた特殊武器や法具に呪具などの武装具。加えて、武僧や陰陽師なども多数参加したことで、法術や呪術による敵のかく乱、支援で優位に立つ。
一時はかなり劣勢であったが、気が付けば海岸線まで戦線を押し上げることに成功した。
荒涼とした剥き出しの岩場、灰色の木々、重く垂れさがる曇天。そして積み重なる無数の骸に、そこここで燃え上がる紅蓮の炎。
血や泥、臓物、火薬といった独特な戦の臭いを帯びた熱気は、北海より強烈に吹きすさぶ風をも押しのけるほど。
金属がぶつかる音、肉を断ち切る音、破裂音、悲鳴、雄叫び……。
まさにこの荒野で、幕府軍とオニが激しくぶつかり合っていた。
どこを見ても血しぶきが靄のように漂い、どこを向いても死の臭いが立ち込める。
そんな乱戦を疾風怒濤の勢いで駆けまわる影が四つ。
迫りくるオニを物ともせず、斬り伏せ、打ち負かし、突破する。まるで雷神のごとき猛攻を止められる者はおらず、オニの屍による道ができていく。
その四人で先陣を切るのは、年の頃は十代後半、そのほっそりとした顔立ちにはまだ幼さが残る青年武士だった。
名は王来王家百桜(おくおか・ももはる)。
扇喜幕府将軍家の剣術指南役を務める王来王家家の子であり、幼い頃から『斑霧(むらぎり)藩の麒麟児』と呼ばれた才児である。
無数の研鑽を積み、修行を収めた彼はまさに、この戦いにおける幕府側の切り札だった。
切れ長な鋭い眼光には、決して年齢では推し量れない実力を感じさせ、身に帯びる胆力は他の三人よりも高い。それは武を極めぬ者ですら容易に分かる程に。また金糸の編み込まれた鎧には幾重にも法術が施され、彼の持つ太刀も薄っすらと神聖な輝きを放つ。
鎧は強力なオニの打撃でも傷一つ付かず、太刀は剛磊で固める肉体を容易に斬り捨てる。
百桜の一行が向かう先には、彼らが狙う敵の姿があった。
戦場でも一層禍々しい気配を漂わせる巨体で異様なオニ。
『大戦鬼(だいせんき)』と呼ばれるオニの首領。
集団を好まないオニたちを圧倒的な力で従わせるオニの王である。
その名に相応しく、身長は十尺(約三メートル)を超えており、全身を包む剛磊は他のオニよりも頑強そうだ。さらに隙間からは灼熱のマグマが赤々と収まり、剛磊を傷つけようものならば、そのマグマが血のように飛び散る。腕にはその巨体に相応しい刀、そして金砕棒が握られる。どちらからも、不気味な気配(オド)が揺らめき、呪術による強化が施されていた。
大戦鬼が刀を一振りすれば、数十の胴が切断されて宙に舞い、金砕棒を薙げば一帯の兵士が弾け飛ぶ。
まさしく大戦鬼は、一騎当千の豪傑である。
その怨敵へ、百桜一行は突貫する。
進路にいる憐れなオニの大量の血潮が旋風となり、血風の中より勢いよく前へと躍り出た。
百桜は瞬く間に距離を詰めると、疾風のごとく舞い上がり、横一閃。
狙うは大戦鬼の首。
が、そうやすやすとやられる相手ではない。
迎え撃った大戦鬼の巨大な刃が、百桜の刃と激突。天をも穿つほどの音を響かせた。
「んむぅ」
会心の一撃を防がれたことに、百桜の口から悔恨の混ざった息が漏れる。同時に薄っすら笑みを浮かべると、腰を落とし、刀を担いで見せる。そして、戦場全体に響き渡るかと言うほどに声を張った。
「遠き者は音に聞け、近く寄りてその目に見よ! 我こそは、王来王家百桜。大戦鬼。我ら幕府に牙向く逆賊にして、オニの卑しき王よ。上意によりて、その御首級頂戴仕る!」
口上も、その態度も、明らかに大戦鬼に対する挑発である。
これに武士達の士気は上がり、口々に吠える。
「小癪な。身の程を弁えろよ、小僧!」
大戦鬼の低く地鳴りのような声が響くと、耳がおかしくなりそうなほどの喧噪が水を打ったように静まり返った。彼が言葉を吐くたびに、灼熱の吐息を放出しており、傍にいるだけで、肺が焼けてしまいそうだ。
百桜の威光を大戦鬼の妖気が相殺し、緊張が走る。
両の手に握られるそれぞれの武器を構えると、途端に周囲の空気が重くなる。
それは大戦鬼の放つ殺気と威圧。
まともに受けるだけで圧し潰されてしまいそう。
笑みを崩さない百桜だが、その実、込み上げる吐き気を必死で抑え、冷汗が流れ落ちるのを感じた。太刀を握る手がじっとりと汗をかいている。
最高の防具、最強の武器、天賦の技、強靭な精神。
それらを持ち合わせてもなお、大戦鬼は強大な敵だった。
気を抜けば脱兎のごとく逃げ出してしまいたくなる。
不用意に踏み込めば、一瞬にして命を刈り取られる。
まさしく目前にいるのは絶望を具現化した存在だ。
仮に初撃を受け流したとしても、激烈な連撃を躱せる自信はない。
しばしの膠着状態の中、改めて相手の強大さを知る百桜の足は重くなる。
攻めることができない。
これまでの鍛錬や試練は今日この時のためにある。ようやくここまでたどり着いたが、最後の最後で詰みかもしれない。
(苦しい……呼吸がうまくできない。
これほどの威圧を相手から受けるのは初めてのこと……か……。
いや、そうでもないか)
縁起でもないが走馬灯のように過去の欠片が頭の中で流れた時、ふと昔の光景を思い出して心の中で呟いた。その途端、大戦鬼からの圧が消え、体が軽くなる。自然と笑みが溢れた。
次の瞬間には、彼は大戦鬼へ足を踏み込んでいた。
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