もう、いいや。
時雨(旧ぞのじ)
何気ない日常の中の、些細な切っ掛け。
次第に辺りが薄暗くなり始める夕暮れ時。
あまり天気が良いとは言えなかった今日は、陽が沈むそのタイミングに、目の前の高速道路の輪郭が、やけに鮮明に、そしてそのはっきりと見える角張った建造物がとても、とても私が嫌いな一つの絵画の様に思えた。
もう、15年間も歩いた近くの地下鉄の駅の3番出口から自宅までの路。
30歳を迎えたその年の秋、妻と何軒も内覧して決めた建て売りの一戸建て。
玄関先の脇には、彼女が好きなミモザが植えてある。一人娘も同じように、その黄色く咲き誇る姿を好んだ。
ーーーガチャリ...。
娘は、今年の春から高校生となり、毎日帰ってくるのは私よりも1時間ほど遅い。
妻は、最近始めた習い事に週3日通っており、月、水、金曜日は帰りが遅く、習い事の日は娘と何処かで外食して来たり、スーパーで惣菜を買って帰って来て、2人で食べているようだ。
私は、自室でスーツを脱ぎ部屋着に着替えると、風呂の湯張りボタンを押して、キッチンのコンロで薬罐に火をかけてから、隣のリビングのソファに身体を投げた。
ピーッ、ピーッと鳴く音にソファから起き上がって、カップ麺に熱湯を注ぎ、手近にあったテレビのリモコンで蓋を押さえる事にした。
自分でも意外だったが、私はカップ麺が出来上がるまでの3分間が好ましいらしい。
働いている時間よりも圧倒的に短く、駅の出口から自宅までかかる時間の三分の一程度のその時間だけは、自室にいる時間以外の〈家庭〉という集団生活の中で自分の為だけに費やせる贅沢な時間だと頭が認識し、心が一息つける休憩時間だからなのか。
少し、冴えない父親っぽくて笑えるからか。
ーーーズルズルズルッ...ゴクッ、ズルズル...
あっという間。
私が、私でいられる時間はそんな刹那で、あっさりと終いを迎える。
あまりのんびりと寛いではいられない。先程風呂も出来上がったみたいなので、箸を洗い、カップ容器を濯いで捨て、風呂場に向かう。
風呂から上がり、自室へ。
念願の書斎には、シンプルなPCデスクと少し奮発したチェア、使い慣れたノートPC。
どれくらい経ったか、書斎で寝る為に買った布団一式が畳んである。
デスクの上にスマホを置き充電ケーブルを繋げると、チェアに座りノートPCを立ち上げた。
小説投稿サイト。
無料でweb小説を読んだり、書いたりできるそのサイトに、元々読書好きだった私は興味が惹かれ、気が付いたらログインする事が日々の楽しみとなった。
〈フォローしている小説が更新されました〉
そんな通知を見ると、年甲斐も無くワクワクしてしまう。
私はスマホにこのサイトのアプリをダウンロードしていない。確かに手軽に読めるのは魅力的だが、私はこの楽しみを家族に気付かれたり、何かしらの反応をされるのが嫌だからだ。
スマホは常にオープンにしているし、パスコードも家族には伝えてある。碌にゲームもしないので、ダウンロードしているアプリ自体少ない。家族間の連絡用でLIMEのアプリはあるが、家族以外にはIDを伝える事はしていないし、自動で〈友達〉が増えるという恐ろしい機能は、勿論OFFである。
つまり、これは私の唯一の趣味であり、家族も知らない私の〈秘密〉だ。
ーーーカタカタカタッ...
好きな、フォローしている小説が一つ完結した...
最後まで、完結まで書き上げて頂いた作者の方への感謝と、楽しませてもらった御礼に応援コメントを送った。
「終わってしまったか.......もう、いいかな」
私の中で、小説の中の主人公のハッピーエンドが小さなトリガーとなって、歪な歯車達がゆっくりと、動き始めた。
ガタン、ガタン、ガタン。
噛み合わせの悪い歯車は、その歯で互いに傷付け合いながら。
ギシッ、ギシッ、ギシッ。
まるで悲鳴を上げているかのように音を鳴らしているのに。
もう、止まれない。
だって、動き出したから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます