荒廃の魔女

吉城カイト

序章 

 この世界は、少しの優しさとそれを塗り潰すほどの理不尽さで出来ている。

 電車で大学に向かう通学中、加速していく風景を眺めながら僕はそんなことを考えていた。郊外を横断する路線は利用者がそれなりに多いものの、普段は閑静な空気に包まれている。

 退屈な日常が始まるはずだったのに、今日に限っては最悪な場面に遭遇した。

 五十代ほどのおっさんが缶ビールを片手につまみをかじりながら、大音量で野球か競馬か何かの中継を聞いている。ジャンジャカうるさいんだが。僕は思わず顔をしかめた。周囲の乗客たちも全員迷惑そうな顔をしているが、注意する気力のある人間は誰一人としていなかった。


 スマホを弄っている者。音楽を聴いている者。目を閉じて寝たふりをしている者。

 三者三様の行動はあっても、誰もその男を見ようとしない。視界に入っているはずだが、迷惑行為を咎めようとはしない。

 今度はため息が漏れた。こういう人間はどこにでも一定数いるもんだ。周りの迷惑を考えずに、我が物顔でふんぞり返っている。自由の度合いをはき違えた人間は、他人の自由を侵害していることに気づかないのだろう。

 そうしているうちに、降りる駅まであと数分。その場から動くのも億劫になってくる。だから僕も背景の中に溶け込もうとして深く背を壁に預ける。しかし、この淀んだ空気を僅かな勇気が裂いた。


「あ、あの! 皆に迷惑なのでやめませんか」


 それは学生服を着た男子の声だった。中学生、いや高校生になったばかりだろうか。パリッとした新しい服に身を包み、緊張の面持ちを浮かべ、背伸びしたような背格好をしている。後ろにいた二人の友人が彼を不安そうに見ていた。

 注意されたビール男は自分が文句を付けられたと気づいたのか、遠目からでもわかるほど眉根を寄せる。立ち上がって、勢いのある怒声で学生に食って掛かった。


「なんやねん。ワシがどこで何しようとワシの勝手や。てめえに関係ないやろが!」

「い、いやでも。周りの皆も迷惑していますし……」

「ああ? 皆って誰や。ここにおるもん、だーれも文句言ってへんやろうが。ワシが悪いって証拠あるんか? 根拠を出せ根拠を!」

「それは、ルールとか規則とかで――」

「やかましいわ、こんのくそガキが!」


 ビール男がこぶしを振り上げた。

 おいおい、まさか殴るのか⁉

 その拳が顔面に近づいてくる感覚を想像して、当事者でもないのに固く目を閉じてしまう。数秒経って、恐る恐る目を開けた。その間にイメージしたものが一つあった。嫌な感覚ってのは、どうやら当たってしまうらしい。

 ビール男のそれは男子高校生の顔を正確に捉えていた。高校生は潰れた悲鳴を上げて、その場に崩れ落ちた。鼻骨が折れたのか、ポタポタと血が床に垂れている。押さえている赤い手の袖口が下がったことで、手の甲から腕にかけて、淡い三本の赤い線が露出した。

 そしてビール男もそれを見たらしく、突然大声を上げた。


「なんやお前、魔女の子かいな⁉ きもち悪いのおー。人間と同じ電車を使うなや」


 『魔女の子』と――。その単語が男の口から出た瞬間、周囲の乗客があからさまに後ずさりしたのがわかった。潜在的な嫌悪感が一気に噴出していく。


「ちがっ、僕のこれは……ッ!」


 男子高校生はとっさに腕を隠そうとする。それを見て、ビール男は大義を得たりといった風に笑った。嫌な笑みを浮かべたまま、男子高校生を押し倒して馬乗りになると、再度こぶしを振り下ろす。ゴッゴッという鈍い音が耳の奥にまで響いてくる。


「お前らみたいなもんがおるからッ、街が汚れていくんや。こんの災害めが!」


 二発、三発と、続けざまに殴る。男子高校生は自分の身を守るのに精いっぱいだった。その場の異様な雰囲気に気圧されていたのだろう。誰も動けなかった中で、出遅れた二人の友人が慌てて、ビール男を止めにかかる。必死に友人をかばい、理不尽な暴力をなんとか止めようとする。どんなに殴られても蹴られても、男子高校生たちは決して手を出さなかった。

 その騒動が数分続いた所で、ようやく僕が降りる駅に到着した。

厄介事から逃げるように出ていく乗客たちの中で、誰かが駅員を呼びに行ったのだろう。駆け付けた二人の駅員がビール男を押さえつける。それでも喚きながら、ビール男は魔女の子への罵倒をやめなかった。近くにいたもう一人は警察と病院に連絡しているらしかった。

 解放された男子高校生は既に気を失っていた。友達が呼びかけても反応はないが、呼吸はしているように見えた。生きているはず……たぶん。


 後はなんとかなるだろう。そんな曖昧な予感がする。僕が絡まれなくてよかったという安心感と、誰かがやってくれるという楽観さに満たされながら改札を出た。広告パネルの一つに「魔女の子、撲滅スベシ」の文字が並んでいて、胸の中は一気にうんざりした感情で満たされていった。

 魔女の子は厄介事の種だ。それがわかっているから、あの倦厭な場で僕らはただの乗客になるしかない。そんな言い訳めいたことで自分の中にある思いをごまかした。

変わらない僕の生活に、大きな亀裂が入る匂いがした。甘ったるさに酔う春の香り。

 嫌なことを思い出す。似たような光景を前にして、何もしなかった奴の事を。

 大学に続くコンクリートの道路には、桜の花びらが点々と散らばる。その中に一つ、白桃色をしたつぼみがぼとりと地面に転がっていた。誰かに踏まれたのか、形が崩れていた。


 ヒーローはいつも自己犠牲で事件を解決する。

 そして、救いはいつも遅れてやってくる。

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