ガリアⅩⅨ ~縁の響宴⑥

 1.



 管制塔の一室、そこは窓のない部屋だったが、天井から発光する明かりに照らされ室内は昼間のように明るい。

「ヴェスター、ちょっと訊ねたいことがあるのだが」

 デドライは向かいに腰を下ろしたヴェスターに商談の途中で話題を変えるように話しかけてきた。笑顔が消えている。

 デドライや管制塔に常駐するトレーダーは宙港の管理の他に、キャラバンから受け取った荷をとり纏め、それを元にロンダサークから得ていた数々の商品や食糧を彼らキャラバンに渡していた。

「なんだろう?」

 デドライが何を問おうとしているのか判っているのだろう、ウェスターはにこやかに彼を見つめている。

 ヴェスター・ヴィクスも元はトレーダーだった。エルラド・ファミリーでも屈指の屈強な男といわれたが、ケガが元で引退し今はロンダサークで商人としてオアシスとトレーダーの仲立ちをしている。次に宙港を訪れる予定のファミリーの荷と彼らから受けていた注文の品をリストアップし、今はその確認を話しあっていた時のことだった。

 いつもの流れであれば、この後酒宴となるはずだが、その前にひと騒動ありそうな雰囲気である。

「君にひとつ訊ねてもいいかな?」

「あらたまってなにを?」

 二人の視線が交錯し合う。

「回りくどい話はよそう。君がロンダサークでおこなわれるという大会にエントリーしたというのは本当か?」

 押し殺したような声だった。

「耳が早いね」

「管制塔はそれが仕事だからね」

 ロンダサークの情勢を見極めるのも管制塔に常駐する者の管轄だった。ヴェスターもそれを手伝ってはいたが、情報をもたらすものはトレーダー地区に別にいた。

「そうだったね」

 ウェスターは納得したように頷く。

「それで、本当に出場する気か?」

「ああ、そのつもりだよ」

「なぜ?」そう問わずにはいられなかった。

「あの子に頼まれたからね」

「それが理由か?」

「他にもないわけではないが、それが一番かな」

「ヴェスター、君はトレーダーを引退した身だ。とやかく言うつもりはない。しかし、あえて言わせてもらうなら地根っ子と交わることはやめるんだな」

「それは警告かね?」

「いや、友としての忠告だ」

「そうか、ならば私は参加するよ」

「聞き入れてくれないか」

 強い口調でデドライは言うのだった。

「以前の私であれば、君に言われるまでもなく誘いに乗ることもなかっただろう」

「我々はトレーダーだからな」

 砂漠に生きる民としての誇りがある。

「そうトレーダーだ」ヴェスターは大きく頷く。「だが時代は変わって来ているのだよ。我々がこの地に生き続けるためにはその変化を受け入れていかなければ先はない」

「君は地根っ子のように、地に足をつけてしまったことで誇りも失ったか?」

「そう取られるのは心外であるな。私は今でもトレーダーであることを誇りとしている」

「ではなぜ地根っ子と交わる?」

「その方が人生楽しからさ」ヴェスターは微笑む。「あの子を見ていると楽しくてね。毎日が新鮮な驚きでもある。あの子のおかげで下町にも知り合いは増えた。商いもやり易くなったし、より良い商品が手に入れやすくなったのは君にも判るだろう?」

「この目録もその成果だというのかね?」

「ああ、充実したものだろう?」

「確かに今までだとこれの半分も集まらないことすらあったからな。それに品質も申し分ない」

 管制塔に持ち込まれた商品見本はどけも見事なものだった。特に工芸品は芸術の域にまで達している。

「本来、砂漠に生きるものとしてオアシスもトレーダーもなくてはならない存在だ。地根っ子だトレーダーだと垣根を作っている場合ではないのだよ」

「その理屈は判らんでもない」

「君にも受け入れてくれとは言わない。それにそう簡単にいかないことなのは私も判っているよ」

「それでも引くつもりはないか」

「トレーダーが力でも一番であることを証明してみたいしな」

「君がエルラド・ファミリーでも屈指の剛腕だとは聞いている。しかし、それも過去のことだ」

「そうかもしれない。それでもあの子は私の強さを覚えてくれていた」

「今の君が出ても恥をさらすだけではないのか?」

「トレーダーが負けることを心配しているのならそれは無用だ。私はすでに引退している身であり、ファミリーとは無関係だ」

「しかし、トレーダー地区の代表として君は出るのであろう?」

「ロンダサークの一人の住人としてだよ。肩書きは商人だ。トレーダーとしてではなく、まあ言ってしまえば商区と商工会の代表となっている」

「どんな言葉を使おうとも地根っ子は、君をトレーダーだと考えるだろう。それを許すわけにはいかない」

「デドライもそういう考えか」

「あの子がどう考えようが、我々トレーダーは地根っ子と交わるわけにはいかない」

「ではどうするね?」

「力ずくで止めよう」

「やれやれ、では私も君らに勝負を挑むとしよう。私が君らのうち誰か一人にでも負けたのなら出場を見合わせようではないか」

「勝負と来たか。よほど自信があると見えるな」

「あの子が信じてくれたのだ。ここで引くわけにも負けるわけにもいかないだろう?」

 ヴェスターは不敵に笑いデドライに問いかける。


 アームレスリングの勝負は一瞬で決まることの方が多い。

 力の差があればなおさらだった。

 会場が広く、そこに多くの観衆が集まればどうしても遠くからそれを見なければならない人も出てしまい、間近で見られない分、迫力も緊迫感も薄れしまうだろう。それを懸念した少女は巨大モニターを稼働させ遠くからでも見えるようにすることを考え、それを可能にするためにクロッセや工の民に協力を要請した。

 大ホールで使われているものと同等の大型モニターで試合を見せることに成功するのだが、電源供給がうまくいかず綱渡りの中継が続く。

 それでも対戦を重ねるごとに選手だけでなく、観衆の緊張感、高揚感も高まっていく。応援にも力が入り、ベスト十六が決まる頃には秒殺される選手は少なくなり白熱した戦いが続くようになってきた。

 両者が小さな卓上を挟み向かい合うと、手を合わせ組み合うのである。

 それまで会場に響き渡っていた応援の声が止まり、静まりかえる会場。

 固唾をのんで見守る中、審判役が両者を確認し開始を告げる。

 唸るような声とともに渾身の力でお互いが相手をねじ伏せにかかる。

 卓がきしむ音が聞こえてくるようだった。

「勝者、ヴェスター!」

 審判が右手を高く上げ宣言する。

 観客席からの拍手はまばらだった。

 ヴェスターは出場者の中でも異質な存在だった。商区の代表としてエントリーされていたが、その実はトレーダー地区の人間だった。

 異を唱える者もいたが、シュトライゼやベラルが大会の明文を読み上げ、ヴェスターがロンダサークの住人であることを肯定し参加資格があることを認める。

 その実力は対戦を重ねるごとに観衆を納得させる。

 いつしかコードイックやマサとともに優勝候補のひとりに上げられるようになっているのだった。


「まったく化け物かよ。ヴェスターってやつはよ」

 バルガスは右腕を擦りながらぼやく。

「まあ、あの人はエルラド・ファミリーの歴史の中でも五指に入る猛者であったと聞きますからね」

 エルラドのファスティアは言う。

「その伝説はまことであったということですね」

 ティーロは肩をすくめる。

「なんであんなやつが引退してんだよ!」

 信じられないといった表情であった。

 力自慢を自負し、バルガスはセラドー・ファミリーでもアームレスリングでは負けなしのはずだった。

 そんな彼をはじめとし管制塔の誰もがヴェスターとの勝負に勝てなかったのである。バスガルにいたっては再戦を挑んだ挙句、その戦いで腕の筋を痛めてしまうのだった。

「ケガだよ。足をやられたんだ」

 デドライは肩をすくめる。

「巨大竜巻の中で横倒しになったウォーカーキャリアからファミリーのものを救うため負ったケガだと聞いています。出来るかぎりの治療をして、療養もしましたが、どうしても足の踏ん張りがきかないとかで、キャラバンを下りたそうです」

 若いファステアはファミリーから聞かされた話をした。

「それ以外は大丈夫だというのにな、もったいない話だ」

「脚だと! 踏ん張りがきかない? それでアームレスリングでよく勝てるな?」

「そうだな。腕力だけで勝てるほど甘いものではない」

「引退して十年なんて信じられないぜ。あれだったら、地根っ子になんか負けるわけがねぇやな」

「そうだな。しかし、ロンダサークには港湾のコードイック・ドルデンやパサド・グーニッジ、工の民のマサ・ハルトなど油断ならぬ者も多いと聞くがな」

「トレーダーが地根っ子に負けるわけがねぇ! もしもそんなやつらに負けたりしゃがったら、俺がゆるさねぇぜ」

「許さないっていったってなぁ。それだったら、お前が出てそいつらと戦った方がいいだろうが」

「地根っ子のところになんざいけるか!」

「そう、それは勇気がいることだよ」

 デドライは呟く。

「そんなことに勇気なんざ必要ねぇだろう! 俺らは俺らだ」

 バスガルはなおも吠え、デドライは吐息を洩らす。

 外を見れば走路をヴェスターがゆっくりと歩いていく姿が見えた。背筋を伸ばし足のケガなど微塵も感じさせない。

 頭の片隅ではデドライも判っていたことだった。管制塔に常駐するファミリーの人数だけではない。トレーダーの数も彼が若かりし頃に比べれば減少しているし、消滅してしまったファミリーもある。いずれはオアシスとの交易も減り、オアシス自体の存続も危うくなるかもしれない。

 頭では理解できても、過去に諍いや対立を知っていればなおさらだった。

 新しい輪を作ることは難しいはずだが、少女は乗り越えていこうというのである。それをすべて肯定することはできなかったが、タブーとされてきたことを打ち破ろうとすることには嫌悪とともにうらやましさを感じずにはいられなかった。

 デドライにはできないことだったからなおさらである。

「まったく驚かされることばかりだ」

 壁の向こう側を見つめながらデドライは笑みを漏らすのだった。


 電源室のドアが勢いよく開けられる。

 はでな物音に中にいた者たちは驚き一斉に入口を見た。

「エアリィ、どうしたの?」

 ソールは腰が引けつつも少女に訊ねた。

「どうしたもこうしたもないわ。この忙しいときにクロッセったら、フラフラとほっつき歩いているから引っぱって来たのよ!」

 少女はまるで雑巾を投げつけるようにクロッセを電源室に放り込むのだった。体格も力も及ばないはずの小さな少女が大の大人を振りまわすのである。床に転がるクロッセを居合わせた人々は呆然と見つめる。

「いいっ! クロッセ。どこにいこうがあなたの勝手だけど、きちんと自分の仕事をこなしてからにしてよね。電源が不安定で、ハラハラし通しなのだから」

「わ、判った」

 身を起こしながら恨めしげにクロッセは少女を見上げる。

「ソールもトーマもちゃんとクロッセを見張ってなさいよ!」

「ボ、ボクも?」

 トーマは面食らう。

「ひやかしでここにいるのだったらたたき出すわよ! ここにいるかぎりは見物なんて許さないからね」

「おおせのままに、姫君」

 堂々とした少女の物言いにも、トーマは笑顔で仰々しい立ち振る舞いとともに応えるのだった。

「そんなあいさつなんてしなくてもいいわ。まったくあたしをなんだと思っているのよ」

「ロンダサークの破壊者、下町のリードオフマン、嵐を呼ぶ姫君」

 知っているかぎりの二つ名を指折り数えてトーマは言うのだった。

「あたしは怪物か?」

「そうとも言えますね」

 トーマは不敵に微笑む。

 少女と交錯する視線が火花を散らす。

「へぇ、言ってくれるじゃない」

「ええ、あなたそのものがウォーカーキャリアだ。壁をぶち壊し恐怖をまき散らす。そして嵐でもある。障害をものともせず蹴散らしていく最大級の大竜巻だ」

「そうだったらいいわね。目に見えるものだったら壊しがいもあるし楽でしょうね」

 少女は口元をゆがめ白い歯を見せ微笑んだ。

「風はどんなものでも、隙間さえ見つければ吹きぬけていくものですよ」

「あたしはそれほど器用じゃないわ」

「だが愚直だ」

 少女は真っ直ぐに物事を見据え答えを求め走り続ける。

「後悔したくないだけよ」

 少女は踵を返し電源室を出ていくのだった。

 ハラハラしながら二人の様子を見ていたソールは何事も起きなかったことにホッと胸をなでおろす。

 その場にいたものは誰もそう思ったに違いない。

「どうかしたかい?」

 トーマはそんなソールに気付いてか訊ねる。

「エアリィに面と向かってよく言えましたね」

「嬉しくてね」

「あれのどこがですか?」

「ボクを頭数に入れてくれたこと、そして相手をしてくれたことかな」

「そうだとしても、エアリィの様々な二つ名を本人を前にして言うのだから、心臓が凍りつきそうでしたよ」

「まあ、ちょっと饒舌すぎたかな」トーマは笑う。「それにしても、クロッセ。どうしたんだい?」

 部屋の隅で壁に手をあてブツブツと呟いているクロッセを呆れながら見る。

 哀愁すら漂う背中を見ながらソッと近づき耳を澄ますと……。

「……もう少しで言えたんだ……もう少しで……」

「何をだい?」

「そ、それは……シェラに、その……なぁ」

 なおも壁に向かってクロッセは呟き続ける。

「気の利いたセリフのひとつも言えないようではまだまだ無理なんじゃないかな?」

「気の利いたセリフくらい……」

「言えるのかい? 君のことだ。今日は暑くて乾いた砂が多いとか、優秀賞おめでとうとか、それぐらいしか話すことができなかったのだろう?」

 見て来たかのようにトーマはいう。

 図星だっただけにクロッセは言いかえすことすらできない。

「じゃあなんて言えばいいんだよ」

「好きですってね」

「そ、そんなストレートに……、恥ずかしくて言えるかよ」

「まあ、花にたとえるとか、澄んだ青き水のような瞳に、とかいろいろな言葉でシェラさんを飾ることはできる」

「ぼ、僕には無理だ。そんなの思いつかない」

「ここはシンプルに言うべきだろう。日頃思っていることでいいんだよ。感謝しているのだろう? 好きなのだろう?」

「そ、そうだけど……なんか今さらで」

「じゃあ、どう言うつもりだったんだい?」

「それは……」

「まあ、それじゃあ一生このままだね。プロポーズの言葉ひとつもいえないようでは」トーマのひと言にクロッセは吠える。壁に頭を打ち付けそうな勢いだった。「きちんと正直に自分の心を伝えなければ、相手には伝わらないものだよ。シェラさんのこと、好きなんだろう?」

「う、うぅぅぅぅぅ」

「なんだよ。その目は……」

「どうせ僕はトーマのように気の利いたことを言えないよ……」

「判った、判った。作戦会議を開こうじゃないか」

 電源室にいる者達にトーマは声を掛ける。

「ぼ、ぼくも?」

「弟だろう? シェラさんの好きなものとか、そういう情報も欲しいところだね」

 自分がそれを知りたいだけであったのだが、トーマは喜々として言うのだった。

「まあいいけど……」

「なにか問題でもあるのか?」

「仕事していないと、またエアリィが怒鳴りこんでくるかもしれないよ?」

「それは困るな」

 やむなく作業を続けながら作戦会議は始まるのだった。


「本当に邪魔して行きやがったよ」

 目の前を少女に引きずられていくクロッセの表情は情けなかった。マサはそれを呆れながら眺めていた。

「まあ、あのままじゃあ進展しないようにも見えたからねぇ」

 いずれ沈黙だけが訪れる、そう言いながらハーナは吐息を洩らすのだった。

「なんか見ててもじれってぇもんなぁ」

 マサの言葉に誰もが同意するところであった。

「あら、皆さん集まってどうしたんですか?」

 クロッセと少女の後ろ姿を見送っていたシェラは集まっていた者達に声を掛けるのだった。

 マサや他の面々はばつの悪そうな顔をしながらその場をあとにしていく。

 残ったのはハーナだけだったが、微笑んでいたシェラの瞳から涙があふれてくることに彼女は驚き駆け寄った。

「ど、どうしたの? 気分が悪いの?」

「そうじゃないんです」

「じゃあなんで?」

「ホッとしちゃって……」涙をぬぐいながらシェラは言う。「最近、涙もろくていけませんね」

「まあ、年をとれば誰だってそうかもしれないけれど……、そのねぇ、辛いことがあったんなら」

「私、嬉しいんです」

 シェラは首を横に振る。

「どうして?」

「いつもと変わらないあの人がいたから」

「変わらないねぇ……」

「いつもと変わらず、私を受け入れてくれていたました。それがとても嬉しかった」

「それでいいのかい?」

「どうしてです?」

「変わっていくものだよ。世の中も人もね」

「そうかもしれませんね……。でも私は変われるでしょうか?」

「変われるんじゃないのかい」

「私は怖いです」

「自然と変わっていくもの、何かがきっかけで変わってしまうもの。心や立場、生活、いろいろとあるけれどね、シェラちゃんはどっちなんだい?」

「なんかいろいろなのが変わりすぎて、本当の自分がよく判らなくなっています。答えが出たつもりでもそれが本当に正しいものなのか、やっぱり迷ってしまうものなのですね」

「で、先生は変わっていなかったと」

「なにか言いたそうでしたが」

 シェラは頷きながら言うのだった。

「何かだなんて、気付いているんだろう?」

 シェラは小さく首を横に振る。

「私と同じであればと、そう願いたいです」

「まったくあんたって子は」

 ハーナはシェラを優しく抱きしめる。

「自信を持っていいんだよ。あんたはすごくいい子だ。先生だってあんたのことが大好きだよ」

「……そうだといいです……そうだと……」

「確かに拒否されるのは誰だって怖いさ、それでも口にしなければ伝わらないことはあるよ。あんたはどうなんだい? 先生のことは好きかい?」

「はい」シェラはハーナの胸の中で確かに頷いた。「この気持ちがそうなのなら、出会ったあの頃から私はクロッセが好きです」

「ならばあんたの方から言っちまいなよ!」

 ハーナはシェラを離すと彼女の顔を覗き込み満面の笑みを浮かべ言うのだった。

「で、でも……」

「待つのだけが女じゃないよ。それとも今のままでいいって言うのかい? あたしゃその方が進展がなくて悶々としちまうよ。そうじゃないかい?」

「た、確かにそうですが……」

「あの先生から、気の利いたセリフが聞けるとは到底思えないからねぇ」

「そ、そんなことは……ないと……思います」

 声が尻すぼみになっていく。思い当たることは多々あるのだろう。

「あんたの方から言っちまった方が早いって」

「で、ですが……断られたりしたら……」

「そんなことないって、あたしが保証するよ。先生は絶対にシェラちゃんに惚れているって」

 そう言いながらハーナはもう一度シェラを抱き寄せる。

「ありがとう、ハーナさん」

 その温もりに優しさを感じながらシェラは微笑むのだった。



 2.



 風よ 雄々しき力よ

 奮わせよ うちなるものを

 砂の大地よ 鋼鉄の体よ

 突き進め 無限の彼方へ

 太陽よ 熱き魂よ

 強き鼓動 鳴り響け 我らの心

 地平の果てを貫くまで



 八強戦最後の試合、コードイック・ドルデンとスレダス・グルーダンの対戦が始まろうとしていた。

 両者の入場前から応援合戦がヒートアップしていて、個々の戦いとしてだけではなく、農区と港湾の決戦といった様相も呈している。

 それというのも四強戦に進出した者のうちの三人までが決まっていたが、その中に農区の者はいなかったのである。一人目はヴェスター・ヴィクス、商区代表であるが、元トレーダーという異色の経歴を持つ。一方、彼の対戦相手に決まったのはパサド・グーニッジ、港湾地区の砂上船乗りで五十一区の出身だった。三人目は下馬評通り工の頭、マサ・ハルトが準決勝進出を決めており、コードイックとスレダスは四強最後のイス、マサとの対戦者となるべく二人はぶつかり合うのである。

 港湾の者はすでにひとり四強まで駒を進めていたが、農区では八強まで進めたのは彼の他にもいたがすべて破れ去っていたのだった。農区としての威信もあったのだろう。スレダスへの応援にも熱が入っていた。

 スレダス自身もこれほどの応援が自分にあるとは思ってもいなかった。

 負けられぬという意地は最初からあったが、今はそれだけでなく観客席からも背中を押されるような感覚が高揚感を与えてくれている。それ自体は悪い気はしなかったが、戸惑いも大きかったのである。

「おおっ、盛り上がっているねぇ」

 親方はステージに立つと観客席で何本もなびいている大漁旗を見ながら嬉しそうに呟くと応援する観衆に向かって大きく手を振る。

 二人の名がアナウンスされると、会場が二分されたように声援がわき上がるのだった。

「おまえさんところも盛り上がっているじゃねぇか」

 親方は手を差し出し握手を求めたが、スレダスはそれを無視しコードイックを睨みつけるのだった。

「勝負は始まっているってか、いいね、いいね」

 スレダスの面構えを面白そうに見つめる。

「優勝候補だか何だか知らねぇが、俺様が勝つに決まってんだよ!」

「そうか、そうか活きがいいじゃねぇか。だがなこちとらも負けられねぇんだよ。すでに向こうが勝ち上がって俺を待っているんだからな。それでもこの俺に勝とうってんだったらてめぇの意地をぶつけてこいや、思いっ切りな」

 睨みあう二人の間で前哨戦は始まっているのであった。

「年寄りが吠えてんじゃねぇよ。てめぇらの時代なんてのはとうに終わってんだ。痛い目みたくないんだったら、さっさと負けちまいな」

「終わっているかどうかはやってみてから言えや。年はとってもこちとら若いもんにはそう簡単に道は譲る気はねぇからよ」大柄な者同士が顔を間近にして睨みあう。「何も出来ないくせにいきがって、ただ世間や親に反発して吠えるだけだったら誰にでもできらあな。弱いやつほどよく吠えるってな」

「なんだとお、このジジイが!」

 親方の言葉にスレダスが拳を振りおろす。

 不意な攻撃であったが、親方は意に介さずその拳を右手だけで受け止める。

 騒然とする場内だったが、親方は平然としながら左手でスレダスの手首をつかむと握力と腕力にものを言わせスレダスの右手を自身の右手で掴むとアームレスリンのテーブルに試合の準備とばかりに強引に引きずっていくのであった。

 問答無用の力技だった。

「そんなにおめぇの意地は安っこいのか? これは喧嘩じゃねぇんだよ。判るか? てめぇだってあの声援背負っているんだろう。ここで無様ところをさらしてまた以前のように逆戻りしてぇのか? そうじゃねぇだろう。これはな、男同士の勝負だ。勝ちてぇんだったら正々堂々とかかって来やがれ、負けたくねぇんだったら力いっぱいぶつかってこいや、男の意地をぶつけてこいや、そうすることでお前さんは男になれるんだぜ」

 知ってか知らずか親方は彼の本質を突く。

 親方の言葉とその馬鹿力ゆえの痛みに頭に血が上っていたスレダスは少し冷静になれたようだった。

「てめぇらは、そこでジッとしていろ!」そう言いながら、舞台の袖で待ち構えていた彼の子分どもを制するのだった。「これ以上、俺に恥をかかせんじゃねぇぞ! ここからは俺自身の勝負だ!」

 臨戦態勢に入っていた子分達は出鼻をくじかれ、おとなしくその場にとどまった。

「いいとこあんじゃねぇかよ。男と男の勝負はこうじゃなくちゃな」

 親方は余裕の表情であった。乱入、乱闘があろうと蹴散らすつもりでいたという。

 もっともシュトライゼや一部の者しか知らなかったがそういった場合に備えての準備は進められていたのであったが。

「余裕ぶっこいてんじゃねぇ。俺は勝つ!」

「そうこなくちゃな。正々堂々、悔いなくぶつかってこいや」

「そのつもりだ!」

 意地をぶつけてくるスレダスをみて、親方はニヤリと笑う。

 その声に呼応するかのように、見守っていた会場から歓声がわき上がる。

「ちゃんと、できるじゃねぇか」

「は、早く勝負を始めろってんだ」

 真っ赤になりながらスレダスは審判に言うのだった。

 それまでと同様に禁じ手などの説明が審判からあり、両者の右手が組み合う。審判はお互いの肘の位置や組んだ手の状況などを確認し不正がないかを見る。

 終わると審判が声を掛ける。

 スタートの合図だった。

 一気に両者の腕に力が入る。

 観衆には丸太のような腕の筋肉がはちきれんばかりに盛り上がり血管が浮き出てしまうように見えた。木製のテーブルがきしむ音が聞こえてくるほど会場は静まり返り、息を殺し瞬きもせずその一瞬を見守る。

 数秒の均衡ののちスレダスの右手甲がテーブルに押しつけられた。

「一本目、コードイック・ドルデン」

 大漁旗が振られ、波打つ砂丘のようなうねりとなって港湾側の応援席から歓声が沸き起こる。

 一方、農区の応援席では落胆の声が聞こえてくるのだった。

 スレダスは悔しげに左手を握りしめる。

「二本目、準備はいいですか?」

 肘の位置を探り、足場を確認しながら二人は再び右手を組む。

 位置取りが納得いくまで済むと審判はそれをチェックし二本目の掛け声がかかる。

 ほんの一瞬であるが、スレダスの反応が早かった。

 その勢いのままコードイックの右手をテーブルに叩きつけるのだった。

 同点となり三本目が決戦となる。

 意気消沈していた農区側は一気に盛り上がり、港湾を蹴散らせとスレダスに声援を送る。

 審判の方はというとフライング寸前ではないかと悩むほどスレダスの動きが早かったように見えた。審判は反対側にいたもう一人の審判を呼び協議を始めようとする。それを見た親方は審判を制する。

 三本目を続けろというのだった。

 その姿を見たスレダスは親方の巨体が巨大な外壁のように大きくなっているように見えた。その背後からは陽炎が揺らめくような熱いオーラが見えたという。

 一本取り返したが、それでも勝ったような気がしなかった。力で圧倒出来たのではないと判っていたからだろう。

 すでに右手を差し出し待ちかまえる親方の姿は鬼神のようであった。

 一本取られて火がついたようだった。

「そら、どうした小僧。この俺から一本取ったんだ。ここいらで決戦といこうや」

「お、おう」

 生唾を飲み込む。喉がカラカラだった。

「なに、ビビってんだよ。俺が怖いか?」

 命までとられるわけではないが、初めて彼は人としての大きさの違いをいやがおうにも感じるのだった。どれだけ喧嘩が強かろうが、身体がどれだけ大きかろうが越えられないようなでかい壁がそこには存在していた。

 親方の燃えるような瞳に魅入られたように視線が外せない。

「俺はなぁ、看板背負って戦ってんだ。港湾やシルバーウィスパーや、いろいろとな。で、てめぇはどうだ? てめぇは一人で戦ってんのか?」

 そう言われて振り返ると声をからしてスレダスの名を呼ぶ声が風のように彼を突き抜け体を奮わせていく。ステージのそでにいる子分どもそうだった。コードイックに負けないくらいの声援だった。

「ビビってんじゃねぇぞ。それに気付いたようだな。悔いなくぶつかってこいや。俺も全力を尽くす。てめぇの意地をみせろ。背負っているもの全部をさらけ出して俺に挑んでこい」

「言われなくたって、わかってらぁ」

 負けないように自分を奮い立たせ親方を睨む。すでに彼の腕の筋肉は悲鳴を上げているようだった。それでも逃げるわけにはいかない。

 慎重に位置取りをすると親方の右手を握る。

「はじめ!」

 嵐のような衝撃が腕を引きちぎろうとしているかのようだった。腕が持って行かれそうだ。

 ほんの少しだけ持ちこたえたが、ジリジリと押されていく。

 限界が近い。

 あと少しで落とされるところで背を押す声が彼に力を与える。雄叫びとともに仕留めようと力を入れる親方の腕を押し戻していくのだった。農区側がわき上がる。さらに強い声が聞こえてくる。

 スタートラインまで押し戻し、さらにはスレダスの勢いに親方の腕が傾きかける。

 渾身の力をこめて奥歯を噛みしめる。

 しかし、ここまでだった。

 親方は圧倒的なパワーでスレダスをねじ伏せにかかる。どこにそんな力があるのだろうかという勢いだった。

 手首をくの字に曲げて持ちこたえようとするが、親方はそれすら許さなかった。

 手の甲が打ち付けられるのがスレダスにも判る。

「勝者、コードイック・ドルデン!」

 何度も何度もコードイックの名が会場にこだまし、親方は手を振りそれに応える。

 スレダスは座りこみ拳を何度も床に叩きつける。

「お前さんは頑張ったよ」

「負けちゃ意味ねぇんだよ!」

「そうか? でもな、お前さんはすべて失ったわけじゃねぇぞ」

 そう言いながら親方は顔を上げろという。

 スレダスにも彼への惜しみない声援と拍手が送られているのが判る。

「俺は負けたんだぞ……」

「だが、逃げなかった。意地を見せた。だからこそ人はお前さんを認めたんだよ。この声に応える気があるのなら、ただいきがってねぇで逃げずに自分を磨いて行け」

 親方は手を差し出す。

 どれだけの時があればこれだけの力を発揮できるのだろう?

 立ちはだかった壁が大きすぎる。今はそれが実感できた。

「悔しいか?」

「あったりまえだ!」

「勝ちてぇんだったら、港湾に来い! 俺がてめぇを鍛えてやるよ。誰にも負けねぇようにな」

「なんでだよ」

「俺が、お前さんを気にいったからだ」

 それ以上でもそれ以下でもない。

「き、気が向いたらな」

「それでいい」

 震えるスレダスの手を親方はとると彼を立たせ、そのまま手を一緒に高く上げ声援に応えるのだった。


「兄貴!」

 ステージから戻って来たスレダスを、子分達は迎える。

 いずれも緊張した面持ちだった。

「おつかれさんでした」

「おう、応援ありがとうよ。結局、負けちまったがな」

「兄貴が声を掛けてくれれば俺らは……」

「それいはもういい」

「しかし」

「いいってんだよ! 何度も言わすなっ!」スレダスは声を荒げ、一喝する。「もうそんなことする必要がねぇんだよ。相手の方が一枚も二枚も上だったんだよ。俺はまだまだだ」

 それだけ言い残すと、子分らを残しドームの奥へと歩いていく。彼は控え室には向かわず人気のないところに姿を消した。

 ひとりになると彼は壁に額を押しつけ拳を強く握りしめ、そこで声を押し殺し泣いた。

 悔しくて、悔しくて、もっと強くなりたくて。

「ちくしょう。負けてられるか」

 その心を胸に、スレダスはその後、港湾に姿を現す。

 意地を見せるために、彼は一歩を踏み出す。いつの間にか彼の子分達もそれに従っていた。


「やれやれ、前の試合があれだけ盛り上がるとやりづらいものだね」

 興奮冷めやらぬ観客席を見回しながらヴェスターは肩を竦める。

 スレダスとコードイックの熱戦を彼らは英雄譚でも話すように熱く語り合うのだった。

 四強戦を前に誰が優勝するのか、議論は白熱して行き、そして応援合戦も盛り上がっていくのだった。

「自分は奮えました」

 あまり表に感情を現さないパサドも拳を握りしめていた。

「そうか、私も熱いものがよみがえってくるようだよ」

「やっぱり親方は凄い」

「シルバーウィスパーの乗組員たちを引き連れているだけはあるね」

 その姿はファミリーを導く頭目を彷彿させる。

「ええ、自分もそんな親方に憧れます」

 港湾の市場で下働きをしていた彼の希望、漁師になることを許し、五十一区という生まれも育ちも関係なくシルバーウィスパーに迎え入れてくれた。

 実直で真面目なパサドはその心意気に応えるべく頑張ってきた。その実力が認められるたびに彼自身も成長できていると実感できた。

「それだけ慕われているというものうらやましいかぎりだね」

「はい」

「君もいい顔つきだ」

「そんなわけがないじゃないですか」

「トーナメントが始まった頃は、オドオドしていたが、今の君にそれはないからね」

「そ、そうでしょうか……それはきっとみんなが応援してくれるからですよ」

 ずっと応援し続けてくれている観客席の一角をパサドは見る。

「私のようにとってつけたような応援に比べれば数万倍もいいですね」

「ヴェスターさんにも心強い応援があるじゃないですか」

「どっちの応援をしているか判らないがな」

 いつの間に仲良くなったのか知らないが、五十一区の住人達が陣取るすぐ隣には館から応援に来た使用人達の姿がある。

 一緒になり交互にパサドとヴェスターに声援を送っているようであった。

 それにパサドには港湾関係者が加わりさらに盛り上がっていた。親方ほど熱狂的ではなかったが、パサドを認めたうえで大漁旗が振られ横断幕が張られていたのである。

「自分の地区は誰だって迎え入れますから」パサドは笑う。「エアリィちゃんの家族であればなおさらですよ」

「だからだろうね。あの子も頑張るのは」

「自分もこんなに応援してもらえるとは思いませんでした。まあ、港湾同士で決勝、港湾の完全勝利を親方は目指していますから、それが狙いなのでしょうけれど」

「それだけの実力は君にもあるだろう」

「自分はまだまだです」

「そうかね? 私はね君とやってみたかったのだよ」

「どうしてです?」

「君は隠したがっているようだが、君が親方に勝ったことがある唯一の人物だと私は聞き及んでいるのだよ」

「あれはたまたまです」

「偶然で勝てるほど親方は勝負に関して優しくはないと思うな。港湾の事実上のトップは君だと私は確信しているが、どうだろう?」

「そんな、恐れ多いですよ」

 慌ててパサドは否定しようとする。

「君は自分をもっと出した方がいい。まあ自分の殻を破ることは、そう簡単なことではないかもしれないが」

「生き方を変えることは本当に難しいですよ」

「自分を貫くことも大切だが、難しくとも変えることは不可能ではないと思うがね。あとは当人次第か」

 それは自分やトレーダーに語りかけているようなものであると、ヴェスターはのちに思う。


 シェラはいてもたってもいられず観客席の最上段にやって来てしまった。

 走ってきたので息が上がっていたが、そのまま最上段から見守るつもりでいた。

 皆が嫌いとか逃げたかったわけではなく、ただそこから外れたところにいた自分が、いまさらその輪の中に入っていけるか不安だったのだ。

 それは杞憂でしかない。すぐに地区の知り合いに見つかりシェラは最前列に陣取った五十一区の応援席に引きずられていく。

 小さなマーク入りの旗を渡され揉みくちゃにされながら彼女は最前列に押しやられる。

 そこには工の地区をはじめ他の地区の子供達で、そのほとんどが放棄地区に出入りしていた子らである。

「シェラおねぇちゃんだ!」

「どうしたの、あなた達?」

「おうえんだよ♪」

 当たり前のことのように少年少女達は言う。

「エアリィが、みんなでおうえんするとたのしいっておしえてくれたんだ♪」

 子供達は満面の笑みで答える。

「そうだよね、そうだよね」

 シェラは頷く。

 まだ染まりきっていない無垢な魂。それは教え方次第でどこへでも行けるということだった。差別は生み出すことも無くすことも出来るのだ。

 シェラは決意を新たに胸に子らの手をとりながらパサドとヴェスターに声援を送るのだった。


 四強戦、最初の試合であるヴェスターとパサドの戦いが始まろうとしていた。

 主審としてステージに現れたのは大会運営委員長のシュトライゼ・グリエだった。

 観衆に笑顔で手を振り応えると、商区のヴェスターを勝たせるためかという突っ込みにも、新聞の編集長として間近で実況するのだと返し、観衆を煙に巻く。

 それが本当なのかは判らないが翌日の記事にはシュトライゼらしい観察眼でアームレスリングの模様を克明に書き綴るのだった。

 彼はマイクを手に、ヴェスターとパサドの名を呼び準決勝の開始を宣言する。

「実行委員長自ら審判とはねぇ」ヴェスターはシュトライゼと握手しながらいうのだった「本来なら、マサさんと親方の試合の方が盛り上がるだろうに」

「そちらは真の実行委員長にお任せしていますよ」

「それは、それは」ヴェスターは笑った。「二人はあの子を掛けてさらに気合が入りそうだね」

「そうでしょう?」シュトライゼは微笑む。「それにわたくしはあなた方お二人の試合が楽しみなのですよ」

「あまり面白いものではないですよ」

「派手さはありませんが、お二人ともお強い。どちらも全試合ストレート勝ちで勝ち上がり一本もとられていないときています。玄人好みの試合を目の前で拝見させていただきたいのですよ」

「玄人好みですか?」

「あまりお気に召しませんか?」

「見世物としては、あまり面白みはないでしょう?」

「それでも手を組みあう前から戦いは始まっているのですよ。それを見ている人も少なくないはずですよ」

「私はこういうスタイルですからね。今さらそれを変えるわけもない」

「じ、自分もです」

「人それぞれスタイルがあります。華やかな戦いは親方や工の頭に任せてもいいと思いますよ。あまりいい例えではないかもしれませんがマサさんと親方の試合が光だとすれば、こちらは影。表裏一体となす四強戦であるとわたくしは考えているのですよ」

「そういう見方もありますかね。実にシュトライゼらしい表現だ」

「次の試合はとことん盛り上げてもらうとして、普通に見ていると判らないような技の応酬のようなものをじっくりと見させていただければ思うのですよ」

「そんなたいそうなものではありませんよ。これは力と力のぶつかり合いだ」

「しかし、それでも駆け引きのようなものはあるでしょう?」

「どうだろうね、パサド君?」

「じ、自分はそういうのは苦手です」

「その実直さが彼の持ち味でもありますからね」

「港湾では貴重な存在だと監督も仰っていましたよ」

 ヴェスターの言葉にシュトライゼも頷く。

 のんびりとしたシュトライゼの調子は相手を煙に巻くような感じで、毒気を抜かれたり気にいらない人は我を忘れペースを乱すこともあったという。

 戸惑うようにパサドは二人を交互に見る。

「さあ始めようじゃないか」

 ヴェスターの声にシュトライゼは副審を呼ぶ。

 注意事項を確認し合うと二人は右手を組みあう。

 響き渡っていた応援の声が止まり、観衆が二人を見つめる。

 シュトライゼの声がマイクを使っていないはずなのに奥までこだまして行った。

 力と力がぶつかり合う音が聞こえるようだった。

 二人は息を止め、腕だけではなく腹筋や脚の筋肉に力が入る。かみしめた奥歯が軋みを上げる。

 低いうなり声とともに筋肉の盛り上がるような音と歯の軋みまでもが聞こえてきそうだった。

 観衆も呼吸を止めその一瞬を逃さないよう瞬きも惜しみその瞬間を見つめる。

 パサドとヴェスターの力は五分と五分に見えた。

 小刻みに両者の腕が左右に振られる。

 力でねじ伏せようとするヴェスターの勢いをパサドは受け止め、ちょっとした力の加減でカウンターをあてるように反転攻勢に出ようとする。腕力に自信がなければできないことであったが、自然と体が反応するかのようにパサドはそれをやってのけてしまう。

 注意深くそれを見ていないと見抜けないほど一瞬の攻防でもあった。

 ヴェスターの腕を押し倒そうとする勢いを今度はパサドがさらに力で受け止め強力を持って受け返すのである。

 わずかな時間のあいだに繰り広げられる攻防にシュトライゼも息を飲み、手に汗を握りしめるのだった。

「一本目、ヴェスター!」

 息を吹き返した会場。どよめきが起こり、続いて拍手が広がっていくのだった。

 ヴェスターもそれに応え手を振る。

 パサドは手首を上下にさらには左右に動かしながら状態を確かめる。

「君のようなタイプはトレーダーにも見当たらないよ」

 ヴェスターは自分の勝利が紙一重であったと理解していた。実際に対戦してみるとかなりやりづらい相手であった。

「いえ、ヴェスターさんはお強いですよ」

 いつもなら受け切れる勢いを相殺しきれなかった。

 彼は手首を擦るようにしながら作戦を考える。

「二本目、始め!」

 それまでの受けて立つ形を捨てて最初から腕の力を開放する。

 その瞬間のパワーはヴェスターの力を凌駕する。

 ヴェスターは手の甲が押しつけられる直前になってこらえようとするが、パサドの勢いを止めることはできない。あえなく押さえこまれてしまう。

「二本目はパサドの勝利!」

 驚きとともに港湾側から大きな歓声がわき上がり、旗が大きく振られる。

「やれやれ、意表をつかれたというところか」ヴェスターは苦笑いしている。「パワーもトレーダーの中に入っても遜色ないものだったんだね」

 その目は笑っていない。

 嵐のカーテンの向う側に見える雷光のように輝いているように見えた。

 ヴェスター自身は意識していなかったが、それは若かりし頃のぎらついた目であったともいえる。

 それを知らないパサドからは脂汗がにじみ出している。

 三本目の勝負はそれが勝敗を分けたのかもしれない。

 蛇に睨まれたカエルのようなものであったと思われ、萎縮してしまい本来の力を発揮する間もなかった。スタートから何とかこらえようとするが盛り返すのもほんの一瞬でズルズルと相手のペースに引き込まれていった。

「三本目、ヴェスター! よって、この勝負、ヴェスター・ヴィクスの勝利!」

 雄叫びをあげ、拳を振り上げるヴェスターの姿を初めて少女は見るのだった。

 若かりし頃の彼を彷彿させるものであったという。


 準決勝第二試合、ステージにまず審判が入ってくる。主審としてエアリィ・エルラドが中央に立つと、そのアナウンスがあったわけではないが出場選手並みの拍手が巻き起こるのである。

 工の民や港湾、そして五十一区の者達が少女に喝采を送り、彼らだけではない商区やそこで知り合った者達からも声を掛けられている。まるで勝者と同じように大きな拍手で迎えられたといってもいいかもしれない。

 それとともにこれから始まる勝負への期待も高まっていく。

 少女と親方、そして工の頭の一件はすでに下町に知れわたっていたこともあるが、それ以前よりロンダサークの力自慢の話題となれば二人の名が上がらぬことはなかった。絶対に交わることないといわれた二人の一戦がここに実現したのである。

 当人達が実際に顔を合わせたのは過去に三回しかない。その内二回がエアリィとの因縁が関係しているとなれば、さらに噂が噂を呼び、人々の興味を駆り立て、周囲は興味本位でマサとコードイックの動向を見ることになるのだった。


「まあ嬢ちゃんが工の頭のことを許していることも、頼りにしていることも知っているがよ」

 シルバーウィスパーの親方ことコードイック・ドルデンは四強戦を前にシュトライゼのインタビューに応えている。

「それでも俺はやっぱりあん時に工の頭にガツンと殴りとばせなかったのが悔しいわけよ。滅茶苦茶、腹が立ったからな」

 コードイックは心残りであるかのように言うのだった。

「嬢ちゃんの手前もあるしな。別にもう恨み辛みがあるわけじゃねぇし、殴り合いをするつもりはないんだが、それでもあのオヤジとはどんな形であれ白黒つけてぇと思うわけよ。そのチャンスがようやく巡って来たわけなんだからよ。俺はこの勝負にかけてんだよ」

 どこで準備運動をして来たのか判らないが、試合前から親方の体からは湯気が立っているように見えた。

 居合わせたシルバーウィスパーの乗組員からは、大人気ないだのと野次が飛ぶが、親方は苦笑いしながら軽く一喝するだけだった。

「嬢ちゃんからよく話を聞くが、まあ仕事柄っていうのもあるが、俺はあの時以来で工の頭とは面識なんてあるわけじゃねぇからな。いい機会じゃねぇのかい? あのオヤジとは気が合いそうだしな。なにかあるのかって? ああ仕事を頼むかもしれねぇしな。色々とガタのきているものも多いからな、俺の砂上船も港湾の設備も」

 少し照れくさいのか、質問はこれで終わりと親方は気合を入れると、控え室をあとにするのだった。


「コードイック・ドルデン? ああ、あんまりあの時のことは思い出させんなよ。お嬢には悪いことしたと思ってんだからよ」

 工の頭は苦笑する。

「いや、お嬢だけじゃねぇな。大人気なかったっていうのかな。まあやっちまったことはもう取り返しがつかねぇから、あとはそれをどうにか取り戻すようにするしかねぇやな。だからよ、あいつがぶつかって来るんならおれもそれに応えるしかねぇんだよな。理屈抜きにな」

 シュトライゼの踏み込んだ質問にもマサ・ハルトは淡々と答えていた。

 八強戦までは闘志を前面に出していたが、コードイックとの対戦が決まるとマサは不気味なくらい静かに控え室でその時を待っていたのである。それは周囲がいぶかしがるほどであったという。

「不器用? まあ器用な人生なんか歩んじゃいねぇからな。今さらそんな生き方ができるわけでもなく、後悔したからってやり直せるわけじゃねぇからな。だったら今、頑張るしかねぇじゃねぇか?」

 少し自嘲気味に工の頭は答えた。

 ハーナだけがそれを見て、納得したように頷いていた。

 大事な局面を迎えればむかえるほどマサは静かにうちに闘志を秘め、一気にためたパワーを吐き出すのだと彼女は長年連れ添った夫を評するのだった。

「お嬢のように精一杯やるしかねぇよな。どれだけやれるかなんて判ったもんじゃねぇがな。うん? 年寄りくせえだと? そう簡単におれが諦めるわけも、譲るわけもねぇだろうが、判ってんだろう? そういうこったよ。誰が来ようがおれは負けるつもりはねぇんだ。あいつがどうこう言ってこようが、おれはおれの意地をぶつけるだけよ」

 そう言ってマサは立ち上がる。

「勝つ自信? 負けるつもりで行くわけがねぇだろう! おれだって工区の看板を背負っているんだ。優勝するつもりがねぇんだったら、最初から出ねぇよ。港湾や農区の連中に負けないほどうちの地区だって人材はそろっているんだからな」

 団体戦も頂くと、そう言い残して工の頭はステージへと向かうのだった。


 いつの間にか観客席には太鼓や笛、ラッパなどの楽器が持ち込まれ、それを使った応援合戦にまで発展し、工区と港湾は盛り上がっていた。

 少女が宣言し、マサとコードイックの名を呼び上げる。

 ステージへとお互いが登場すると両者の応援席から鳴り物とともに歓声がわき上がり、その響きは天井をぶち破るほどであった。

 観客席は超満員となり、前評判通り優勝候補であるマサとコードイックの激突は事実上の決勝戦と言われ、会場を熱狂の渦に巻き込むのだった。

「あたしが考えたことだったけれど、こんなに盛りあがるとは思ってもみなかったわ」

 観客席を見回しながら少女は呆れたように呟く。

「おれとお嬢の勝負もだが、周りが騒ぎすぎなんだよな」

「いいじゃねぇか、ここまで盛り上がってくれた方が俺はやりがいがあるぜ」

 呆れるマサだったが、コードイックは楽しそうだった。

 二人は少女に促され握手をする。

「待ちに待っていた勝負だぜ」

「誰も待っちゃいねぇよ。そんなのてめぇだけだろう」

「そんなことありませんよ。あたしは楽しみです。この勝負のこんなに間近で見ることができるのですから、ワクワクしてしまいますよ」

「そういうこった。恥ずかしい勝負なんかできやしねぇやな」

「ふん。こちとらはなっからそのつもりよ」

「おう、よろしくな」

 少女が止めなければ、相手が根を上げるまで力いっぱい握りしめ続けていた二人だった。

 手を離した後もお互いに視線ははずさない。

 まるで先に目をそむけた方が負けであるかのように睨みあいは続く。

 あいさつを交わしただけで二人は不気味なまでに沈黙を守る。その背後には灼熱の太陽よりも熱い炎が見えているかのようであった。

 もっと熾烈なやり取りがあると誰もが思っていたが、言葉など要らぬかのように視線が絡み合い火花を散らし、気迫とお互いの意地が交錯し会場の雰囲気を変えていく。

 徐々に観客席も静まりかえっていった。

 子供達でさえその空気に動きさえも止めてしまう。

 テーブルを挟み少女の言葉に従いお互いが手を組みあうと張り詰めた空気に場内も息をのむ。

「セット」

 少女の声に緊張が高まる。

 エアリィが合図すると同時に筋肉と筋肉がぶつかり合う音が聞こえたような気がした。

 分厚い木製のテーブルがきしみを上げた。

 ピタリとマサとコードイックの動きが止まっているように見えるが、それは力が均衡しているからであって、けっして静止しているわけではない。

 いったいどれくらいの時間が経ったのか判らないくらい誰もが声を上げることができずにいた。

 大きな破壊音とともに観衆は我に返る。

 ステージ中央に設置されたテーブルが台座だけを残し砕けていた。

「一本目、ドロー!」

 少女の声に静止していた空気と時間が動き出したような気がするのだった。

 左手に残った木片を二人は床に叩きつける。

「やるじゃねぇかよ」

「ふん」マサは鼻を鳴らす。「ウォーミングアップにもなりゃしねぇな」

「もっと頑丈なテーブルを持って来いってんだ。まったく命拾いしたな」

「てめぇもな」

「あのまま続けてりゃ、俺の勝ちだぜ」

「へっ、なに冗談言ってやがる」

「てやんでぇ、弱いやつほどよく吠えるってな」

「どっちが吠えてんだよ」

 二人は視線をはずさない。

 内なる鼓動とともにため込んでいたものが噴き出してきそうで、 触れれば爆発しそうな勢いである。

 予備のテーブルを運んできた者達は二人の周囲の大気が震えていると感じたほどであった。そのビリビリくるような感覚に耐えられず、設置が終わると彼らは逃げるようにステージをあとにする。

 近くにいた副審は終始笑顔で平然としている少女が、なぜこの圧迫感に耐えられるのか不思議でしょうがなかった。

「二本目を始めます。セット!」

 工の頭と親方はそれに従い右手を合わせる。

 急速に緊張が高まっていく。

 ゴーサインとともにぶつかり合った衝撃が波紋のように会場全体へと広がっていく。

 その中心たる二人は微動だにしていない。

 しかしその間も小刻みな力と力の攻防は続く。

 長き時間にわたってそれは続いたようにも観衆は感じた。実際に時計を見て時間を測っていた少女によると五分であったという。

「二本目、ドロー!」

 少女は再び引き分けを宣言する。

 両者の肩を叩くと組み合った手を離すように言うのだった。

 その動きにため息が漏れる。

 決着がつかなかったことに観衆は安堵すると、緊張から解放された体をほぐすように首や肩を動かし、汗ばんだ手を何度も握り締めていた

 少女は十分間の休憩を宣言する。

 そして少女はシュトライゼやその場にいた運営と副審に声を掛ける。ステージ中央で彼らは協議を始めるのだった。ルール通り二本先取したものを勝者とするか、それとも三本勝負にこだわり次の三本目を取った者を勝者とみなすのか。

 誰もが二回続けてドローになるとは考えもしなかったのである。


「なに話し合ってんでしょうね?」

 アベルはハーナに訊ねる。

 ステージ中央では少女とシュトライゼを中心として運営にかかわる者達が集まり相談し合っている。

「ここにいる人たちはとことこん二人に戦って欲しいだろうからねぇ」

「そりゃあ、そうですよ。ここまで盛り上がっているんですから! 二人の力でテーブルを砕いてしまうなんて前代未聞ですよ」

「そして二回続けて勝負がつかないとは思ってもみなかっただろうからね。腕がどうにかなっているんじゃないかと心配だよ」

「大丈夫ですよ。頭はずっとハンマーを振るい続けて鍛えた腕ですから」

「やわにはできていないとは思うけれど、それでも仕事と腕相撲は別だからね」

「それは確かにありますね。頭の強力でも勝負がつかないなんて信じられませんよ」

「向こうもそう思っているかもね」

 港湾の応援席もざわついている。

「もっとも長期戦になればうち人の方が不利になるだろうね」

 ハーナにだけは右手を気にしているマサの様子が分かってしまう。

 相手には弱みを見せないようにしていたが、それでも腕の状態を気にしているのは明白だった。

「いままで勝負のほとんどは一瞬で決めてきたけれど、親方さんにはそうはいかなかったからね。お互いにどれだけ余力が残っているかと、あとは……」

「なんです?」

「意地や執念が相手より勝っているかだね」

 見ると少女は協議を終わらせ、シュトライゼと何かを話し、再開を宣言するのだった。

 しかし、その三本目でも勝負はつかなかった。

 少女は次の四本目でこの試合の勝者を決めるとマイクで観衆に説明する。

 これまでは五分以上時間が経過して決着が付かなければ引き分けとしていたが、四本目はとくに時間制限は設けず勝負がつくまで時間を延長するものとしたのである。


 天を見上げるように少女はホールをぐるりと見回す。

 ライトが星の瞬きのように感じられ、瞼の裏側に残像を残す。

「天が星なら、地には人かな」

 少女は呟く。

 多くの声が折り重なり地を揺るがすほどの鳴動となる。

 エアリィ・エルラドは大気が震え己が体を貫いていくのを感じ続ける。

 歌が聞こえる。

 それは船乗りの歌。航海の無事と大漁を願う歌だ。大漁旗が振られ、漁師達が肩を組み合い砂丘のうねりのように波打ち体を左右に振る。

 その歌に合わせるかのように手拍子が加わり、親方の名を呼ぶのだった。

 どちらが始まりなのか、それは判らない。それと似た歌がトレーダーにもある。砂漠を渡る者達が火をかこみ歌う姿を少女も見て来た。

 心をひとつにする歌だ。

 工の民も負けてはいない。

 鳴り物や太鼓を持ち出し、声が枯れるまで声を出し続けるのであった。

 そのうねりを感じながら人は生まれも育ちも超えて、港湾や工区を応援するのである。

 熱気が肌を焦がすようだった。

 会場は少女が考えていた以上に一体感が生まれていた。

 その視線の集まるところに二人がいる。

「やるじゃねぇか」

 噴き出す汗をタオルでぬぐいながら笑みさえ浮かべ親方は言う。

「てめぇもな」

「次で勝負が決まるなんてもったいねぇな」

 親方は楽しそうだった、うらやましいくらいに。

「納得がいくまで何度だって相手してやらぁ。もっとも勝つのはおれだがな」

 マサは鼻を鳴らす。

「言うだけタダだからな」

「親方も工の頭も腕とか大丈夫ですか?」

 少女は睨みあう二人の間に割って入る。

「おう」

「いつでも来やがれってんだ」

 音を上げるわけがないと判っていたが、それでも訊ねずにはいられなかった。

「わかりました。では、はじめましょうか」

「おうよ」

 工の頭は拳を鳴らす。

「見てろよ嬢ちゃん」

 頬を叩き気合を入れ直す親方だった。

 テーブルを挟み右手を合わせる。

 どこからともなく拍手が沸き起こり、観衆は二人の名を何度も何度も呼ぶのだった。

 二人の手を少女は両の手で覆うように包み込む。

 心臓の鼓動でさえ止まってしまったのではないかと思えるくらいの静寂がおとずれ、時さえも静止しそうなくらいゆっくりと進んでいく。

 軽く少女の手が握られる。三つの温もりが想いを伝えあう。少女が無言で開始の合図を伝え、手が離れる。

 マサの唸り声とともに彼はありったけの力をこめてコードイックをねじ伏せにかかる。

 電撃的な戦法であったともいえる。

 言葉とは裏腹にマサには余裕がなかった。それ故に持久戦になる前に相手を圧倒しようと仕掛けたのである。

 瞬間的な圧力は親方の筋肉を糸のように切り裂いていき、腕の骨をも折らんとする猛攻だった。

 その勢いは、あと数センチで親方の手をテーブルに押し倒すまでに迫る。

 どよめきと悲痛な叫びが聞こえてくる。

 勝負は決まったかに見えた。

 少女の瞳は冷静に動きを追っていた。

 誰もが主審の宣言を待ったが、少女は首を振る。

 ステージの大画面には親方の手の甲とテーブルのあいだにある数センチの隙間を映しだす。

 そこから親方の腕は太い砂上船の竜骨ように揺るがない。その角度になっても平然と親方は工の頭の普通の人であれば耐えきれないような圧力を受け切っていたのである。

 拍手が沸き起こる。

 工の頭にとってはそれが厚い壁でもあるかのようでもあった。

 力と力がしのぎを削る。

 二人から伝わって来る熱気に少女はいつの間にか力強く両の拳を握りしめていたことに気付くのだった。ようやく肺から息を吐き出し、肩の力を抜く。

 再び歌が聞こえてくる。

 シルバーウィスパーで何度も聴いてきた歌だ。



 風よ吹け 我を進めよ

 鳴動する大地は 我らの鼓動

 覆いつくす砂雲は 我らの体躯

 砂上を行くは 我らの魂

 いざ進め 我らが船よ

 誘え 荒れ野の聖霊よ

 見果てぬ地平は 我らの故郷



 嵐の砂漠を乗り切る時に歌う力強い歌だ。

 熱き歌を背に受けながらコードイック・ドルデンは嵐を切り裂き進む砂上船のようにゆっくりと、しかし確かな力で徐々に体勢を盛り返していく。

 信じられない光景であるといってもいいだろう。

 幾多のアームレスリングを経験し見てきたものでも、驚愕に値する出来事であったという。

 まるで己が力を誇示するような姿でもあった。

 それでも工の頭も負けてはいない。攻勢に出る親方の力を立ちはだかる壁のごとく跳ね返そうと試みる。

 本当にそれは意地と意地のぶつかり合いだった。

 普通であれば握力も限界であったはずであるが、それを超えた次元で二人は戦っていた。

 後世まで語り継がれる名勝負であり、その目撃者となった者達は幸いである。

 ベラルはそれを詩や歌として讃え伝えていき、人々はシュトライゼの記事を前にして熱闘を語り合うのだった。

 その時、確かに些細な垣根は取り払われ、ロンダサークの民は共にいたのである。

 ささやかな一歩であり、その礎を築いたとベラルは振り返り、そう歴史書に記した。

 右手の甲がテーブルに触れた瞬間、二人はそのまま大の字になってステージに転がるのだった。

「勝者!」

 少女は人さし指で天を指さし、高らかに勝者の名を呼ぼうとしたが、一気に歓声が沸き起こり、少女の声はかき消されてしまう。

 主審という立場を忘れ、その流れに少女も乗ってしまいそうだった。それだけ二人の勝負に見入ってしまっていたのである。

 それでも少女は衝動を押さえこむとマイクを受け取り、主審としての仕事を全うする。

「勝者、コードイック・ドルデン!」

 少女の声が響き渡ると、会場全体が鳴動する。

 ようやく上半身を起こした親方の腕をとり勝者の右腕を高く掲げさせるのだった。

 耳をつんざく様々な声や音がホールを震わす。それはロンダサークが震えているかのようでもあった。

「よう」

 コードイックはマサに声を掛ける。

 気力も体力も使い果たしたマサはステージに座り込んでいた。

「なんでぇ」

 顔を上げると目の前には差し出された手がある。

「楽しかったぜ」

「どこがだよ。五十年分の体力を使い果たした気分だぜ」

「そいつぁよかった。こちとら百年はどうでもよくなるくらい意地をぶつけたぜ」

「てやんでぇ、その頃には砂になって地平の果てだ」

「あんたもな。まあ、腹いっぱい戦った気分だ」

「ふん。こちとらまだまだやりたりねぇくらいだ」

「口の減らねぇジジイだな」

「てめぇだって同じだろう」マサはニヤリと笑う。「おれはなぁ、こんくらいなんともねぇよ。自力でたてらぁ」

「そう言わないでください。マサさん」

 少女も手を差し伸べる。

「まったく、お嬢にはかなわねぇな」

 二人に手を取られマサは立ち上がった。

 親方も少女の手をとる。少女を真ん中にして三人は手を高々と上げるのだった。

 その勢いに少女はステージから持ち上げられる。

 観客席から人が雪崩れのようにステージに殺到する。もみくちゃにされながら、三人は胴上げをされるのだった。

「ちょ、ちょっとぉ! なぜあたしまで胴上げされるのよ? 勝ったのは親方でしょう!」

 少女は戸惑いながら抗議する。

 それでも集まった人々は親方を胴上げした後、工の頭や少女まで一緒になって胴上げをしてしまう。

 三人一緒に神輿のように最後には担ぎあげられてしまうのだった。

「まあいいじゃねぇか、お祭りなんだからよ」

 親方は楽しそうだった。


「あの輪の中に壁は存在しないだろうね」

 ベラル・レイブラリーは傍らに立つシュトライゼ・グリエに向かって言うのだった。

「あなたはいつも冷静に状況を見つめていますね」

「そんなことはない。私も興奮しているよ」

 そう言って汗ばんだ手を見せるのだった。

「あれだけ熱の入った勝負を見せられて、興奮しない者はいないだろう?」

「そうですね。かくいうわたくしもそうですよ」いつもの冷静なる観察者も興奮冷めやらぬといった様子であった。「エアリィ・エルラド嬢の想いは一瞬のことであれ、叶えられたのですね」

「一瞬ではない。すでに輪は生まれているのだからな。それを恒久的なものへと進めるのが、あの子の想いに応える我々の務めだ」

「務めですか?」

「そうだよ。かつての思想家や長老が願った理想をあの子は成そうと駆けまわったのであるからな」

「エアリィ嬢に理想も思惑もなかったはずですよ」

「だからこそ成し得たのかもしれないな。あの子は心のおもむくままに生きている」

「エアリィ嬢は風、ですからね」

「風か……。あの子から、どうしてこのようなうねりがわき上がったのだろう?」

「愚直なまでに真っ直ぐに、自分の疑問をぶつけてきましたよ。だからでしょうか、我らもそれに応えなければいけないと引っぱられてしまう」

「我々の中にも熱い血が眠っていたのかもしれないね」

「我らも砂漠の民の末裔ですからね」

「ああ、そうだね。あの子が閉ざしていた心を開いてくれたように、我々も心を開かねばならぬのだろう」

「出来ますかね?」

「出来ないとあきらめては、先はない」

「そうでしたね。エアリィ嬢の不屈の闘志が、ここまでわたくしたちを引っぱって来たのでしょうからね」

「本当に不思議な子だ」

 古木を前に目と目を向き合わせた時からベラルは少女に一目ぼれしたのかもしれない。

 出会いは偶然でしかない。それでも、それをきっかけにベラル自身だけでなく、多くの人が変わり始めたのである。

「本当に風の生まれし地からやって来た聖霊なのかもしれませんね」

 シュトライゼも頷く。

「とうのあの子はトレーダーだと言い張るだろうがね」ベラルは微笑む。「絶えず新たなる風が吹きこみ、砂漠が姿を変えるように新しい価値や新鮮な驚きをロンダサークにもたらしている」

「そうですね。それにしてもまるで彼女が優勝したかのような歓迎ぶりですね」

 少女がもみくちゃにされ胴上げまでされている様子を見ていると、そう感じずにはいられなかった。

 ステージ上では人々が一体になり肩を組み合い喜びを分ちあっている。

「決勝はこれからだというのにね」

 そこには勝者も敗者もなかった。コードイックとマサの勝負を皆が讃えあうのであった。港湾も工区もない。会場にいた下町の住人すべてが輪となって喜びや興奮といった感情を共有していたのである。

 これまでであれば考えられない光景であった。

 シュトライゼは、その光景を砂漠の陽光を見るように見つめ、目に焼き付けるのであった。


 決勝はコードイック・ドルデンとヴェスター・ヴィクスとの間でおこなわれることが決まった。

 ステージを埋め尽くした観衆が元に戻るまでかなりの時間を要した。

 そのために決勝の時間がずれこんでしまったが、どこからも文句は出なかった。むしろハプニングすら織り込み済みのイベントであったかのように観客は見ていたのかもしれない。

 大会前の予想ではコードイックやマサが優勝候補に挙げられていた。ここにきてヴェスターを押す者も出てきたが、先程のマサとの熱戦を見た後ではコードイックが優位であると大方の人が予想するのであった。

 そして親方の圧勝する様を予測していた観衆は決勝戦の結果を呆然と見つめるのだった。

 勝者の優勝旗はヴェスター・ヴィクスの手にある。

 さらなる熱戦を期待した者には肩すかしを食らったような気分だろう。

 コードイックは持てる力を発揮しようとしたが、それでも十分ではなかった。ヴェスターの力はそれを圧倒し、あっ気なくコードイックは二本続けて負けてしまうのである。

 ヴェスターはインタビューで万全なコードイックと戦いたかったと話す。

 コードイックはマサとの対戦に勝利したが、その代償として腕や手の筋肉の疲れはピークに達しており、ほんの少しのインターバルでは回復しきれていなかったのである。

 コードイック自身はそれを言い訳にはしなかった。

 清く負けを認めたうえで、勝者であるヴェスターを讃えたのである。

 場内から拍手が沸き起こる。

 結果、第一回アームレスリング個人戦はヴェスター・ヴィクスが初代の王者として栄冠に輝く。二位はコードイック、三位がマサとパサドとなる。そしてこの四人がのちに四天王と呼ばれ、アームレスリングの大会では死闘、熱闘を繰り広げ優勝を分け合ったのであった。



                   〈第十九話了 二十話へ続く〉


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