ガリアⅨ ~よみがえる魂(中編)

  1.



 オアシス。

 それは大地のゆりかご。

 果てしなく続く砂の平原に咲いた小さな花。

 青き水は地を潤し彩る。

 緑は豊穣をもたらし、生きる力と糧を与える。

 恵みの園は人の営みと歴史を育む。



 2.



「……ほ…し………」それは少女のかすかな囁き。「……に……も…みえない…よ…」

 呻くように声がする。

 ゆっくりと開かれていく瞼、少女の瞳にはそれが夜空に見えたのかもしれない。

「エアリィ!」

 少女を呼ぶ声はひどく遠くから聞こえてくる。

「……どうして……ヴェスターがここに……? あたしは……」

 自分がどこにいたのか一瞬思いだせない。

 慌てて体を動かそうとして、背中に激痛が走る。

 体が動かなかった……。

「無理に動かない方が良いわ」

「どう……なっているの?」

 なぜベッドに寝ているのだろう?

 自分の状況を確かめようとするが、体が思うように動いてくれない。

 なお動こうともがき、首から背中にかけて痺れるような痛みが走る。

 少女は顔を歪める。

「どこが痛むの、エアリィ?」

 心配そうに見つめる顔がある。

 ヴェスターだけではない。マーサ、クロッセ、そしてシェラもいる。

 思考がまとまらない。頭の中で靄が掛かっているような感じだ。

「……どうして……どうして、動かないのよ!」

 痛みをこらえながら、少女は必死になってベッドから起き上がろうとする。

 痛みが走ろうと主、負けてたまるかと思いながら。

「む、無理しちゃダメよ」

 シェラが慌てて少女の体を支えようとする。

「こ、こんなことくらいで……」

「今、無理をしたらそれこそ体が動かなくなるかもしれないのよ」

「だ、大丈夫よ、シェラ」

 少女は無理矢理笑いかける。

「本当に? 痛いところは?」

「あたしの、体じゃないみたい」

 頭には包帯がまかれていた。

 シェラは服の上から少女の首や背中に触れてくる。

「痺れはある? 感覚のないところは?」

 触れられた感覚はあった。エアリィは両手を開いたり握ったりしてみる。足も問題ない。ただ動くと神経を逆なでされるような感じが一部でする。

 正直に少女は感じたままをシェラに話すのだった。

 シェラはそれを聞き、ゆっくりと息を吐き出した。

「……もう少し様子を見ないと判りませんが、打撲だけで済んでいるようです」

 シェラは、皆に向き直るとそういった。

 誰もが彼女の言葉に安堵する。

「ここはあたしの部屋だよね? なんで部屋にいるの?」

「覚えていないのかい?」

 クロッセが逆に訊ねてくる。

「えっと……テストが順調にいって、メインノズルに点火したわ……」

 ドン! と大きな音とともに少女の体はシートに押しつけられた。

 景色が急速に動き出し、目の前に何かが迫って来た。

 危ないと思う間もなかった。

 気が付くとこうして部屋の天井を見ていたのである。

「ねぇ、クロッセ、あたしはとべたの?」

「あれが飛んだのだとしたら、酷い有様だった」クロッセは唇を噛み締めるように言う。「轟音とともに、滞空していた場所から十メートル以上高速で移動した」

 バランスを崩しながらも進み、そして激突し落下したという。

「あたしは衝撃で頭をぶつけたわ……」

「石壁の残骸に突っ込んで行ったんだよ」

「ぶつかったってしまった? あたしはどれくらい意識を失っていたの?」

「半日は経っている」

 外はすでに日が落ちていた。

「そんなに……」

 クロッセは子供達にシェラとヴェスターへの連絡を頼んだという。

 シェラは廃棄地区からはかなり離れていた場所にいたにもかかわらず真っ先に駆けつけ手当をしてくれた。そして、ヴェスターが手配してくれたサンドモービルに乗せられて少女は館へと運ばれたのだった。

「ウォーカーキャリアはどうなったの?」

 少女の問いかけにクロッセは残念そうに首を横に振る。

「ぶつかった衝撃で機首はつぶれてしまっている。機体も歪んでしまった」

 目の前が真っ暗になる。ショックだった。

「せっかくうまくいっていたのに……」

「そう落ち込むなよ。機体は何とかなるさ、エンジンだって無事なんだ」

 クロッセは慌てて付け加えた。

「お嬢様!」

「な、なに、マーサさん?」

「機械のことよりも自分の体の心配をしてください……」憔悴しきった表情でマーサは少女を見つめていた。「それはお嬢様が、あの機械を大切にしていらっしゃることは判りますが……」

 そこまで言ってマーサは泣き出した。

 返す言葉が少女には無かった。

「本当に……あなたが無事でよかった」

 シェラがいたわるように少女の体を優しく抱きしめる。

「そうだな。シェラさんがエアリィのためにあの帽子を用意してくれていなければどうなっていたか」

 机の上に置かれた帽子は、一部がへこんでしまっている。どれだけの衝撃が少女の頭部を襲ったのだろう?

「感謝しないとな」

 ヴェスターの言葉にマーサも頷く。

「そんなことありません。もっと皮を厚くしなければいけなかった。緩衝材も足りない……」

 シェラはうつむき悔しげに呟く。

「こんな事態になるなんて誰も予想できなかった。最悪の事態を免れただけでも感謝しないといけないな」

 ヴェスターはそう言ってシェラの肩に手を置く。

「そうですね」

 シェラは気を取り直し立ち上がる。

「エアリィの治療を始めましょう。男の方々は外でお待ちください」

「どうして?」

「女の子なんですよ。エアリィも。それとも見たいですか?」


 少女はシェラに言われるままベッドの脇に腰掛けるように座った。

「つらいなら言ってね。無理はしないのよ」

「…大丈夫」

 気丈に振る舞っているが、本当は背中を少し曲げただけでも痛かった。

 時間が経てば経つほど体に感じる痛みや違和感は増してきている。

 シェラは少女の服を脱がせると、痛むところを確かめながら少女の体に触れていく。

 その手は優しく温かく感じられる。

「骨は折れていないようね」

「でも、手が握りづらくなっているわ」

 左手の薬指が腫れている。

「強くぶつけたか何かに挟まったのかもしれないわね。湿布を貼っておきましょう」

 シェラの手に触れているだけで痛みが和らいでいくような気がした。

「お嬢様の手当てをしてくださったのはシェラ様なのですよ」

 マーサが運んできてくれた湯を使って少女の体を拭いてくれる。

「療法士様のような手際のよさでした」

「そうだったんだ」

「意外?」

「ううん。最初にシェラに会った時、なんとなく療法士かと思ってしまったから、そうでなかった方が驚きだった」

「あなたに隠し事は出来ないわね」

「ねぇシェラ、あたし、治るかな?」

「治るわ」

 シェラは少女を安心させるように、自分自身を奮い立たせるように言葉にする。

 エアリィは希望なのだから、絶対に元通り動けるようにするのだと。

「うん」

 安堵した表情を見せ、少女はシェラに微笑んだ。

「療法士様を呼ぼうとしていたお館様に、シェラ様は自分がお嬢様を治療すると言われたのですよ」

「そう、なの?」

「エアリィの具合を見て、他の療法では時間がかかりすぎると思ったの」

「それほどにあたしの体の状態は悪いの?」

「あなたのような症状の場合、療法士に出来ることは湿布を貼るか、痛み止めを用意したりするくらいしかできない。あとは自然治癒に任せるだけ。それでは治癒までの時間がかかりすぎることの方が多いの」それに後遺症が残るケースもある。

「シェラは違う療法なの?」

「私の療法は、そうね、ちょっと特殊かな」

 シェラはそう言いながらマーサを見る。

「マーサさん、私が治療しているところを見ても驚かないでください。これはエアリィを傷つけるものではありません」

 ここで見たことは口外しないでほしいとシェラはマーサに頼んだ。

「それでお嬢様が治るのでしょう?」

「はい、全力を尽くします」

「では、お願いします」

 マーサは頭を下げる。顔を上げた彼女は優しく微笑みシェラを見ていた。

「普段は指先だけで治すのだけど」

 シェラは持ってきたショルダーバックから小さな箱を取り出す。

「他にもあるの? それで治るの?」

「すぐには難しいわ。事故によってあなたの体の気の流れがおかしくなっているの。そのために体のバランスが崩れかかっている」

「気の流れ?」

「どう説明したらいいかしら。血が血管を伝わって体中を流れているように、気も電気みたいに普段は感じられないほど微弱だけれど体中を流れていて、身体のバランスをとっているものなの」

「う~ん、ウォーカーキャリアの配線のようなものなのかしら?……今のあたしはその流れがおかしくなっているということなのかな?」

「そんな感じかな」

 シェラは右肩を下にして少女をベッドに横に寝かせる。

 小瓶の液体を少女の背中にぬった。

「な、なに? スーっとするわ」

「お酒よ」

 アルコール度の高い酒は消毒液にも使えるという。

「痛いかもしれないけれど我慢してね」

 少女の背中をシェラの指がなぞっていき、刺すような痛みが走り少女は顔をしかめる。

 シェラの指が動くたび、神経を逆撫でるような痛みに襲われたり、なにも感じなかったりもした。

 体を入れ替え治療は続く。

 治療のあとでシェラは糸のように細くやわらかい針を見せてくれた。

 その針を体のつぼと呼ばれる場所に刺すことで、淀んだ体の気の流れを正常なものにしようとしていったのだという。

「大丈夫ですか、お嬢様?」

 治療の様子を見ていたマーサが心配そうに訊ねてくる。

「大丈夫よ。心配しないで、マーサさん。あたし、シェラを信じているから」

 シェラの手が一瞬止まる。

 何かをつぶやいたようだったが、よく聞き取れない。

「なに?」

「そ、そうね。すぐに効果が表れるものではないけれど、明日には痛みが和らいでくれるわ」

「もしかして、初めて会ったあの日にソールの足を治したのも、この治療なの?」

「そうよ」

「だったら、明日にはあたしも治るよね」

「それは無理。ソールとあなたでは状況が違いすぎるの。時間が必要になるわ」

「ど、どれくらい?」

「私の治療は万能じゃないわ。治る速度は人によって違ってくるし、あなたのような症例は初めてだから、はっきりということはできない。でも、あなたのような年ごろの子は治りが早いから、そんなに時間はかからないと思う。痛みが完全に引く前から動き回れるようになるはずよ」

「本当に?」

「あなたは本当に大人しくしていられないんでしょうね」

「だって、寝てばかりだったら死んでしまうわ」

「それでも、そうね。でも、ちゃんと体を治すためにも三日はおとなしく寝ていてもらいますからね」

「え~っ!」

 痛みにも根を上げなかった少女が悲鳴を上げる。

「私も出来る限りそばにいるようにしますけど、マーサさんもエアリィがひとりで外に抜け出してしまわないように見張っていてくださいね」

「承知しました、シェラ様」

 マーサは少女に微笑む。エアリィは逃げられないと観念した。

「あうぅぅぅ」

「少し辛抱してね」

 シェラは優しく少女の頬に触れる。

 そして指先の神経を研ぎ澄ませ、持てる力のすべてを尽くし少女の体を診ていくのだった。

 治療は一時間くらいで終わった。

「大丈夫ですか、シェラ様」

 シェラの顔色は真っ青だった。

 大丈夫だと微笑もうとしてシェラは立ちくらみをおこす。

 慌ててマーサが駆け寄り彼女を支え、椅子に座らせる。

 シェラの治療は自らの気を相手に送りながら続けるもので、そのために気力体力ともに消耗しきってしまうのだという。

「しばらく休めば大丈夫だから」

 差し出された水を飲みながら小さな声でシェラは答える。

 それでも、マーサの勧めもあり、その日、シェラは館に泊っていくことになる。


 寝返りをうっただけで、肩や背中に痛みが走る。

 自分の体ではないみたいだ。

 同じ姿勢で寝ていると痛みは和らぐが、皮膚の神経が過敏になっているのか妙な感覚が抜けない。おかげでなかなか寝付けなかった。

 目を開けると闇の中に天井が映る。

 ただなんとなく少女はベッドからそれを見ていた。

 隣では床に敷いたマットに寝ているシェラの寝息が聞こえてくる。

 少女の様子を見るために、今晩は付き添ってくれている。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう?

 思うように動かない体。

 壊れてしまったという機体。

 なおるのだろうか?

 エンジンが手に入り、ウォーカーキャリアが順調に動くようになった矢先なのに。

 体が治るまで、商いは当分休まなければならない。

 考えたくなくても、余計なことばかり考えてしまう。

 思考は堂々めぐりしてしまい、どうしても負の方向にばかり向かってしまう。

 不安で気が滅入って来るばかりだった。

「どうしたの、エアリィ? まだ痛む?」

 寝返りをうった少女に気付いたのか、シェラが声をかけてくる。

「寝ていなかったの?」

「なんとなく寝付けないの」

「シェラも?」

「いろいろと考えてしまうの……私の針は効いているのかな……とか」

「大丈夫、効いているよ、シェラ。さっきトイレに行ったけど、痛みがだいぶ和らいで前よりも体が動かせるようになったから」

「ならいいけれど……」

「ねぇシェラ」

「どうしたの、エアリィ?」

「シェラはどうして療法師にならなかったの?」

「……」

「すごい技術を持っているのに」もっといい生活ができたはずなのに。

「そんなことないわ」

「ううん。織物も、料理も、読み書きもできる」

 その才能は多岐にわたり、五家のいずれかに弟子入りしていてもおかしくないレベルである。

「シェラはあの療法を誰に教わったの?」

「……」

「シェラ?」

「……私は父からそれを教わったわ」織物も読み書きも全て。

 しばらくしてようやく返事が返ってきた。

「すごい人なのね、シェラのお父さんは」

「知識だけなら私もかなわないくらい凄い人だったわ。何でも知っていたんじゃないかと思えたくらいだった。でもあの人はおびえるように生きていた。人目を避けるように」

「どうして? すごく誇れることじゃない」

 バラバラになりそうだった背中の痛みはだいぶ消えていた。

「そうかもしれない。でも、これはもろ刃の剣でもあるのよ。扱い方次第で人を傷つけることもできる」

「でも、それはきちんと扱っていれば問題のないものなのでしょう?」

「他の人もそう思ってくれれば問題なかったのかもしれない。人の体は非常にデリケートなものだわ。触れれば壊れてしまうくらいに」

 少女の身体に触れるのが怖かったとシェラは言った。

「そうは見えなかったわ。安心して診てもらえたわ」

「ありがとう。でも私は、本当のことをいうと人前で見せたくはなかった」

 シェラは懺悔するように告白する。

「クロッセは知っていたのでしょう? だからシェラを呼びに行かせたのだと思ったわ」

「これはクロッセにも見せたことはないわ。あの人が知っているのはマッサージをしてあげたこととかケガの治療をしたことくらいかしら。きっとそれを覚えていたんでしょうね」

「そうだったの……」

 そうだとしたら怪我の功名としか言いようがない。

「前に少し話をしたことがあったわよね。私の一族は迫害を受けてきたと」

「紙飛行機の話よね」

「それだけではなかったの。この療法によって私の祖先は咎人にされたのよ」

「咎人、それって罪人のことでしょう? 信じられない。医療は神聖なもの、尊敬に値するものではなかったの?」

「この医術は一歩間違えば本当に人を傷つけることになってしまうの。熟練した技能と知識が必要になるわ。見よう見まねでできるものではないのよ」

 だが、それをまねて治療を施した者がいたという。その行為によって死人がでた。その事故はシェラの祖先のせいにされてしまう。流布された噂を信じた人たちによって迫害を受けた一族は離散し、シェラの祖先は罪人にされてしまったのである。

 以来、彼らはその技を人前で見せることも、一族の言葉を語り聞かせることもなくなってしまったというのである。

「ひどい。いっしょにオアシスに住む者同士なのに!」

「そうかもしれない。でもね、エアリィ。オアシスには様々な人が住んでいるわ。ヴィレッジのように自らを最初の住人と称するものたちもいれば、下町にはいくつもの壁が存在し、過去にいろんなオアシスからの流民の子孫がいる」

「それでも同じオアシスで暮らしているじゃない」

「そういう見方もできるのね」

「だってあたしたちファミリーはそうやって砂漠でともに生きてきたのよ」

「共通の目的意識があれば、トレーダーのようにまとまっていられるのかもしれない。でもオアシスは違う、大勢の人がいれば、そこには様々な思惑や考え方が生まれてくる。異端の言葉を伝え、怪しげな技をふるえば、人はそれを恐れ排除しようとする。人は目に見えるものを信じ、理解できないものを排除してしまう」

「どうして理解しようとしないのよ。シェラの祖先は人を助けようとしたのよ。嘘を言っているわけでもないわ!」

「みな、あなたのように思ってくれればどんなにすばらしいでしょうね」

「そんな言い方しないでよ。あきらめないで、シェラ」

「私たちは憶病なの。一度受けた仕打ちは生涯付きまとうものなの」

「でも、それはシェラが受けたものじゃないわ。シェラは誇っていいはずよ。だってあたしに教えてくれた。あたしのためにその技を使ってくれたわ」

「私たちの言葉は人を惑わす。ごめんなさい。私の言葉があなたをこんな目にあわせていのよね」

 シェラはそう言って、少女に謝る。

「なぜあやまるの?」

「話さなければよかった。今はそう思うわ。一歩間違えれば、あなたは死んでいたかもしれないのだから」

「でも、あたしは生きている」

「今もあなたを苦しめている」

「あたしが失敗しただけよ。まだなにかが足りなかった。これからもこんなことがあるかもしれない。でも絶対にあきらめたくないし、絶対にあたしは死なない。約束するわ。だってシェラが教えてくれたことは、あたしの道しるべになっているのだから、後悔はしない。だからシェラも後悔しないでほしい」

「ありがとう」

 あふれだしてくる涙をシェラはぬぐう。

「お礼をいうのはあたしのほうよ。シェラがいなければあたしは自分の殻にとじこもっていたままだった。オアシスを好きになっていなかった」

 人と出会うことなく、つまらない日々を送っていたはずだ。

「私はなにもしていない。私がいなくてもあなたはきっとオアシスを好きになっていたわ」

「シェラが、皆がいてくれたからよ」

「本当にあなたって人は……」

「なに?」

「なんでもないわ。きっとあなたの体は私が元通りに治してみせる」

「うん。あたしは飛ぶことをあきらめない。あの紙飛行機のようにあたし自身が飛んでみせる」あの翼のように飛ぶんだ。「そうか!」

「どうしたの、エアリィ?」

「あの機体にはつばさに相当する部分がなかった。どうして気付かなかったのかしら……、だから、うまくとべなかった?」

「あなたはどんなときにも前を向いているのね」

 シェラは考え込んでいる少女を見て微笑む。

「そ、そうかな。ねぇ、シェラ、クロッセにも紙飛行機を見せてもいいかな?」

「……必要なら……」

「心配しないで。あたしは大丈夫だし、シェラに迷惑をかけるようなことはしないわ」

「あなたもクロッセも迫害されるかもしれない」

「たとえそうなったとしても、クロッセは変な目で見られるのに慣れているだろうし、あたしはトレーダー、そんなことに負けないわ」

「強いのね」

「あたしは後悔したくないだけ。それでも、まわりが気になるようだったら、みんなであたしのファミリーに来ればいいのよ」

「私たちはトレーダーになんてなれないわ」

「そうかなぁ。クロッセはいい技術者だし、シェラだって療法士として歓迎されるわ。問題ないと思うけどな」

「そういってくれるのは嬉しいけれど、私たちは憶病なの。壁に守られて生きることに慣れてしまっている」

「臆病じゃないわ。だったらどうしてシェラはあたしを助けてくれたの?」

「それは……あなたが、私の大切な人たちを助けてくれたから……」

 弟を、クロッセを、そしてベラル師をも救ってくれた。

「シェラはあたしにとっても大切なかけがえのない人よ。だから、シェラにとってあたしもそうでありたいと思っている」

 暗がりでよかったと少女は思った。真顔で面と向かってこんなことを話すことはできなかったかもしれない。

「ええ、あなたは大切な人よ。間違いなく。本当にあなたもクロッセも変わっているわ。私や私たちの地区を受け入れてくれるなんて」

「受け入れてくれたのはシェラたちだよ」

「ううん。あなたは知らないでしょうけれど、私たちの地区はその昔、咎人が送られた流刑の地だったの」

「流刑って?」

「オアシス追放にはならなかったけれど、罪を犯した者達が送り込まれたの。今でこそロンダサークとつながっているけれど、当時は宙港や工の地区と同じように隔離された場所にあったのよ。そのせいで今も罪人の子孫と言われ、さげすまれることもあるわ」

「知らなかった……」

「知らなくて当たり前、今はレイブラリーの尽力もあって差別は少なくなっているけれど、まだ地区ごとの諍いはなくならないわ」

「商売をしていると、どこの地区の出身だとか話をされたこともあったけれど、そういうのが関係しているとは思わなかった。オアシスはみな一緒だとばかり思っていたわ」

「人が多くいれば、その数だけ違いがある。トレーダーがファミリーによってそれぞれ違うように」

「確かにファミリーによって違いはあるけれど、あたしたちは差別したりしない。同じオアシスで暮らしているのだから、そのきずなを大切にすればいいのに」

「みながそう考えてくれればいいのにね。今は偏見や差別は少なくなったけれど、昔は生まれ育った地区によって仕事が制限されたこともあったと聞くわ」

「ねぇ、シェラ……もしかしてシェラが工房にはいっていないのはそのせいもあるの?」

「それが現実なの」

「それって、絶対におかしいわ!」

「それがロンダサークでは当たり前のことのようにおこなわれていたことなの」

「シェラくらいの知識や実力があれば、長老になっていたっておかしくないわ」

「それはおだてすぎよ」

「そんなことない。シェラを認めないなんておかしいもの。トレーダーならリーダーにだってなれる。それが認められないなら絶対にあたしたちと来るべきなのよ」

「ありがとう、エアリィ。だけど私は行けないわ。あなたに目指すものがあるように、私にも夢があるの」

「夢?」

「そう夢。私はね、子供たちに読み書きを教えたいの。ほら、下町の子供たちって読み書きができない子が多いから、そういう子をなくしたい。読み書きの楽しさを教えてあげたいの」

 トレーダーなら幼いころから教え込まれる読み書きや算術も、下町では大人になってもできない者すらいる。

 シェラのように読み書きができるものの方が珍しかったりする。

 ロンダサークにはヴィレッジ以外に学び舎はなく、そこは下町の民にとって狭き門だ。下町では唯一、五家と呼ばれる長老たちがその役割を担っているが、そこに通えるものはよほどゆとりがない限り難しいとされている。

「昔、私が農場で働いていたころ、いっしょに働いていた子供にお話を聞かせてあげたことがあるの。すごく喜んでくれて、その笑顔が忘れられないの」

 ささやかな出来事だったけれど、何の引け目もなく人のためになることができる喜びを知ったのだという。

「わかるような気がする」

 少女に懐いてくれた子供達、あの瞳に応えられた時の喜びは忘れられない。

「シェラならいい先生になれそう」

「そうなれたらいいわ。でも子供達を集めることができる施設もないし、費用もない。それに小さな頃から働いている子供も多いの。近所の子供達にお話を聞かせてあげるのがやっと……」

「でも、あきらめたくない?」

「だから、エアリィを見習わないとね」

「あ、あたしを?」

「あなたは諦めないんでしょう?」

「うん。あきらめたくない。後悔したくない」

 シェラはその真っすぐな瞳がうらやましいと思った。

「なんかすっきりした。あたなと話せてよかったわ」

「あたしもだよ、シェラ」

 悩み落ち込んでいた心がシェラと話をすることで、楽になったような気がするのだ。

 優しい手がすぐそこにある。

 そう思えるだけで心強く、嬉しいものだった。



 3.



 少女はシェラの言いつけを守り、三日間、ベッドの上で過ごした。

 もっともマーサの監視もあったので、食事やトイレ以外は部屋から外へ出してもらえなかったというもある。

 シェラは毎日少女の体を診てくれた。

 そのかいあってか痛みはだいぶ和らいだ。

 まだ体を動かすのに不便はあったものの、普段の生活をする分には支障がなくなってきている。

 そうなってくると大人しくしているのがもどかしく苦痛になってくるのだった。

 ウォーカーキャリアのことや店のことが気になってしかたがない。

 そんな頃に少女の事故を聞きつけたベラル・レイブラリー師が見舞いに訪れた。

 前回のようなお忍びではない。

 公式の訪問だった。

 長老が表立ってトレーダーの地区を訪れるのは、ここ百年なかったことだったという。

 ここにも壁がある。少女はロンダサークの中にある様々な壁や門を通り抜けきた。旧区も下町も名前の違いでしかない。しかし、ロンダサークの民にとって外壁や壁は砂嵐や砂漠からオアシスを守るためのものだけではなかった。人と人を隔てる壁でもあったのだ。

 特に宙港とトレーダー地区はロンダサークの人々にとって高い壁であるという。

 シェラも招きがあったからこそ館へと顔を出しているのだと言った。

 だからなのだろう。使用人の中には門を通り抜けようとした時、見ず知らずの者に声をかけられ、少女の容体を訊かれた使用人もいた。

 見舞いの品を託されたりもしている。

 顔つきやいで立ちを聞くと店の常連さんだと思われた。

 名も知らぬ人達もいたが、ただ商いだけのつながりだけではなかったことに気付かされる。

 落ち込んでいた少女には、彼らの気持ちがとても嬉しかった。


 四日目に少女は納屋に運び込まれたウォーカーキャリアを見た。

 機首はつぶれ、機体も歪んでいた。フレームの外された機体が痛々しい。

 修理する目途すらたっていないという。

 少女は茫然と機体を見つめることしかできなかった。

 館に戻った少女は部屋にこもってしまう。

 シェラが治療に訪れても少女はかなり落ち込んでいた。

「今日はずいぶん静かなのね」

「うん」

「まだ痛む?」

「ううん」

「そうか……見てしまったのね」

「……ぅ……ん……」

「あの機体は、あなたの夢。夢の塊みたいなものですものね」

「……うん」

「今は落ちこんでもいいわ。辛いのなら泣いたっていい。声が枯れるまで叫ぶのも」

「泣かない」唇を噛み締める。「絶対にうれし涙にする」

「そうね。明日になったら気持ちを切り替えて、また元気に頑張るの。立ち止まっていても何も解決できないのだから、自分がやらなければならないことをやっていくの」

「シェラも……そうだったの?」

「言うのは簡単だけれど、そうね、私は母と父が亡くなり……残された私はあなたと同じくらいの年齢だった。ソールはまだ幼く、子供だった二人で生きていくにはどうしたらいいのか、泣くだけ泣いたあと、私は必死になるしかなかった」

 縁者も頼れる人もほとんどいなかったという。

「ソールと二人で暮らしていくのに何をしたらいいのか、何が出来るのか、本当にいろいろなことをやってきたわ……」

 工房が捨てた端切れを使ってマントやマフラーを作ったり、タペストリーも。農区の臨時雇いもやった。

「ふと立ち止まると悲しくなったり、辛く苦しい時もあったけれど、うつむかず前を向いて歩いていると、ほんの少しだけれど頑張れた」

「シェラは強いね……臆病なんかじゃない」

「ただ生きるのに精いっぱいだっただけ。『立ち止まらない』そう思い続けた。エアリィ、あなたが『悔いを残さない』と言っているのと同じかもしれない。でも、そうね、私ひとりだったら……きっと挫けてしまいあきらめてしまっていたでしょうね。そこに誰かの笑顔があったから、それが見たかったから、進むことができた」

「ソール?」

 少女の問い掛けにシェラは笑みを浮かべるだけだった。

「今はあなたもクロッセもいる。あの子にはあの子の道を進んでほしいわ。私みたいに祖先に縛られることなく」

「もしかして、ソールは知らないの?」もったいない。

「あの子の知識はあの子が学んだものよ。私がソールに教えたものは、必要最低限のものだけ。だからかな、あの子が一人で頑張れるようになって、少しだけゆとりみたいなのができて、まわりが見えるようになった。それからだと思う。他の多くの子供達にも教えてあげたいと思うようになったのは」

「それが学び舎なのね……あたしはどうだろう?」

「大丈夫よ」

 シェラはそう言って笑顔で背中を押してくれる。

 今は立ちどまってしまっているけれど、癒えない傷を抱えていても少女は立ち上がり進みだすだろう。

「あなたは一人になっても進んでいくでしょう」

「あたしはそんなに強くないよ」

「あら、弱気ね」

「だって……」

「昨日よりも痛みはひいたでしょう? 昨日よりも動けるようになったでしょう? ならできることからまた再開していきましょう」

「あたしに出来ること……」

 シェラは優しく少女に微笑み頷いてくれる。

 それは、自分にはない彼女の素晴らしい魅力だった。

 治療が終わり、部屋から出てきた少女は食事の席で皆に言う。

「明日から商いに出るわ」

 それを聞いたヴェスターもマーサも難色を示す。

 しかし、少女はそんな彼らを説き伏せる。

 まだ痛むところがあり、不自由なところもあったが、それでも少女は、自分に出来ることを始める。

 それが少女の選択だった。


 朝の空気はひんやりしていて清々しい。

 夜が明けるよりもさらに前に少女は館を出る。

「フィリア、重くない? 本当に大丈夫?」

 油を入れたつぼを乗せた台車を押す女の子に声をかける。

 ヴェスターは一人で商いに行くことだけは許してくれなかった。

 館の使用人の中でも年が近いフィリアが付き添うことになる。

「大丈夫ですよ、お嬢様。まかせてください!」

 フィリアは元気よく拳を握り締め明るく答える。

「こう見えても力仕事は得意なんですよ。家にいた頃から重いものも運んでいましたから。それよりもお嬢様こそ大丈夫なんですか?」

「だ、大丈夫よ」

 本当はまだ痛みがある。何気に振り向いたり姿勢を変える時に痛かった。それを見透かされないように元気に応える。

「そういえばフィリアはどこの地区の生まれなの?」

「わたしですか? わたしはフィーリスの生まれです」

「フィーリス?」

 聞いたことのない地区名だった。

「ああ、五番地なんですけど、うちの地区の人はそう呼んでいるんです」

「どうして?」

「わたし達の祖先が住んでいたオアシスの名だそうです。地区によっては流民の子孫も多いですから、味気ない番地で呼ぶよりも故郷の名をいう方が多いんですよ」

「地区ってそういう古くからの集まりなの?」

「そうですね。地区ごとにその頃からの伝統とかしきたりが残っています」

「じゃあ、他の地区との交流は少なかったりするの?」

「あまり多くはないかもしれません。地区によっては夜になれば門を閉じてしまうところもあるくらいですから」

「不思議だね。オアシスの中なのに」

「そうですか?」

「あたしにとって、オアシスはみな一緒だったもの。同じ外壁の中に住んでいるのだから」

「同じオアシスといっても旧区と下町をいっしょにしないでください」

「わかっているわよ、フィリア。ロンダサークに来るまではそうとしか思えなかっただけで、いまは旧区の連中とあなたたちをいっしょにすることはないわ」

「本当ですかぁ?」

「旧区の連中の横暴はあたしも知っているわよ。あの連中を見ているだけで虫唾がはしるから。本当に同じ人間かと思ってしまうわ」

「そうですよねぇ」

「でもさぁ、それだけ嫌っているのなら、下町は旧区の連中にたいしてもっとまとまっていてもいいと思うのに、何で地区ごとに違ってくるのかしら?」

「下町は旧区よりも広いですし、それにいろいろなオアシスからの移民の集まりですから考え方も違ってきます」

「そうだったわね。やっぱり地区同士でもめ事とかあったりするの?」

「水問題が一番多いですよ。あとは小さいころから大人たちに十番地のやつらとは仲良くしちゃダメだとか、十五番地は腐ったやつしかいなといか聞かされ続けましたから、なんかそう思いこんじゃっているところはありますね」

「あ~っ」

「な、なにか?」

「ううん、なんでもない」

 首を横に振りながらも、オアシスの人々のことを地根っ子と教えられ続け、そう思い込んでいた自分と重なってしまう。

「五番地だと旧区の近くよね、フィリアは農区の出身なのかな?」

「よくご存じですね。ええ、水の恵みも他の地区に比べればいいですし、古くからの住人だという誇りもあります」

「農区同士は仲が良いと聞くけれどそうなの?」

「農区は広いですけれど、壁はほとんどありませんから、隣接した地区同士のつながりはある方ですよ。収穫量とか競い合っているところはありますが、ロンダサークの食卓を支えているという自負があるので、お互いに結束しているんです。だから他の農区との関係は良好ですが、その外周の地区とは交流がなかったり、水問題でいがみ合ったりしています」

「農区は外周部より裕福だって聞いたけれど、そうなの?」

「裕福な家庭は少ないですよ。うちなんか耕地は狭いし兄弟も多いですから」

「兄弟が多いとダメなの?」

「耕地を継げるのは、長兄だけですから、わたしのような下の子は他の仕事を探すか、嫁ぎ先を探さないといけません」

「それでフィリアは館に? 館にはいつ来たの?」

「半年前です」

「あたしとそんなに違いはなかったのね。館にはどうして奉公に来たの?」

「ベラル師の紹介でした」

「本当に?」

「ええ、わたしはベラル師のところに読み書きを習いに行っていたんです。本当は家の手伝いや他の農家へ働きに行かなければならなかったのですが、両親に無理言って学ばせてもらっていたんです」

「読み書きが好きなの?」

「小さかったころに、農区に働きに来ていたお姉さんに読んでもらった本が面白くて、わたしも読めるようになりたいって両親にせがんじゃったんです。今思いうとかなりわがままでしたが」フィリアは苦笑いする。「奉公先を聞かされた時にはびっくりしました。てっきり旧区だとばかり思っていましたから」

「どうして旧区なの?」

「奉公先といったら旧区の屋敷くらいしかありませんから。たまに長老様のお側というのもありますが、弟子が多いとそういう働き口は滅多にありません。わたしもベラル師の屋敷で奉公ができればと思っていましたが、かないませんでした」

「じゃあ、館への奉公も珍しかったの?」

「聞いたことがありませんでした。ヴェスター様の館へ奉公しないかと言われた時にはショックでした。子供のころからトレーダーの怖い話は聞かされていましたので」

「どんな話よ!」

「えっ、あっ、その……すいません」

「おこらないから」

「ほ、本当に、本当ですか?」

「いいから、言ってみなさい」

 少女に促されフィリアは口を開く。

「……その昔、ロンダサークの外壁をトレーダーが壊した話とか、壁の中でウォーカーキャリアが暴れた話や、長老が暴力を受けた話も聞かされました」

 荒くれ者なトレーダー、簒奪者となりウォーカーキャリアを使いオアシスへの暴力的な行為をおこなうなど、そういった逸話や伝承が伝えられてきていた。

「あたしたちがそんなことするわけないじゃない!」

「すいません、でも、わたし達はそういう話をずっと聞かせられてきたんです」

「確かにあたしたちは恐れられているけれど」

「いまはそうじゃないってわたしにもわかりますけれど、言われたその時は、わたしは見捨てられたかと思いました」

「ベラル師がそんなことするわけがないでしょう」

「そうなんですが、友達にはトレーダーに売られて他のオアシスに連れて行かれてしまうんだって脅されるし、不安でした」

「それで、来てみてどうだったの?」

「ヴェスター様はお優しいし、マーサさんをはじめ館のみなさんはいい方ばかりで、来てよかったと思いました」

「あたりまえよ」

「同じように師弟になった子には、旧区へ奉公にいったものもいますが、いい話は聞きません。わたしは本当に運がよかったんだと思います」

「旧区の奉公ってそんなにひどいの? 奉公先って選べないの?」

「ヴィレッジ全体が、というわけではないでしょうけれど、自分たちをロンダサークの先住民、シチズンだと自慢し、下町をさげすみますから、ひどい扱いを受けていると言います。あと、奉公先は選べません。屋敷には長老様の紹介状がないといけないんです」

「それでも奉公に行くのね」

「この仕事が一番、お給金がいいのです」

「そんな理由で?」

「工房や農区で働いても得られるお金は限られています。家族が多いと暮らしていくだけでも大変なんです。そのために長老の弟子になろうとする子もいるくらいですから」

「フィリアもそうなの?」

「読み書き、算術はステータスですから、家族を養えればなおいいですけれど、わたしは読み書きを習いたかった。それだけです」

「そうか。そうだ、ベラル師のところで学んだのなら、月琴も弾けるよね?」

「それは……習いましたから」

「じゃあ、今度連弾しましょう。そういえば館にあたしが来たばかりの頃、月琴の音を聞いたような気がしたけど、あれはフィリアのだったの?」

「あの、その……はい」

 なぜかフィリアは恥ずかしげに俯き答えた。

「なぜ今は弾かないの?」

「それは、その……」

「なに?」

「お、お嬢様の月琴がお上手すぎるのです!」

「あたしが?」

「そうですよ、わたしなんかが弾くのが恥ずかしくなるくらい」

「そんなことないよ。あたしはまだまだ。だから」

「それでもダメです!」強い言葉で首を横に振る。「お嬢様がまだまだなのでしたら、わたしなんか全然ひけていません」

「どうしても?」

「それだけは勘弁してください」

「じゃあ、詩は? それならいいでしょう?」

「そ、それなら」

「農区の詩とかも教えてほしいな」

「わたしなんかがいいんですか?」

 ベラル師の一番弟子といわれる症状に自分なんかが良いのだろうかと思ってしまう。

「あたしが知りたいの。だからね♪」

 身近なところにも知識が転がっている。思わぬ発見がある。少女は瞳を輝かせ未知なるものを吸収しようとする。

「わかりました」

「よろしくね、フィリア」


 五日も店を閉めていると、店の中には隙間から侵入してきた砂ぼこりが薄らと積もっていた。

「ここがお嬢様のお店ですか? 小さいですね」

 少女の店の前に立ちフィリアは少し驚きながら呟いた。

 幅は三メートルもない。奥行きも持って来た油の壺を二つも置けば商品を並べるのがやっとなくらいで、三人座るのがやっとだろう。

「どんな店を想像していたのよ」

「そ、それは表通りの大きな店を……」

「あのねぇ」少女は苦笑するしかなかった。「その方が目立つかもしれないけれど、家賃だって高いのよ。あたしはあつかうのは油だけだし、ひとりで朝方くらいしか店を開かないのだから、大きな店はいらなかったの」

「えっ、でも明け方だけって、お帰りはそんなに早くなかったですよね?」

「そりゃあ、師匠のところに行ったり、シェラのところに行ったり、いろいろとやることがありますから」

「知りませんでした」

「それにね、この通りは日常品とか安い食品の店が多いの。けっこう奥様方が通るのよ。だから表通りよりは人通りは少ないけれど、売れるの」

「なるほど、なるほど、奥が深いんですね」

 フィリアは感心しながら何度も頷く。

「さあ、掃除をして店を開きましょう」

 そのためにいつもより早く館を出たのだ。

 真っ暗な通りに人はまばらで、まだ開いている店はない。

 鍵を開け店の中に入ると明かりを灯し、少女はクロスやカーテンをはずしていく。フィリアは床を掃き乾拭きする。

 砂は意外と多く袋がすぐにいっぱいになっていく。

 少女は店を借りた日を思い出す。

 しばらく使われていなかったと聞いていたが、会議所が管理していた店舗だっただけに外側は修繕などしなくても使えるように見えた。

 しかし、店内に入ると中は砂だらけだった。

 掃除を始めると狭い店内からは麻袋一つでは済まない量の砂が出てきた。

 何もない殺風景な店の中を見たシェラがマットやクロス、カーテンを作ってきてくれて、店を飾ってくれた。

 親方や港湾で知り合った人達は開店祝いにとお守りを持ってきてくれる。

 それでも店を始めた頃、通りを行きかう人たちはただ少女の前を素通りしていく。

 少女の呼び込みに、たまにのぞき込んでいく人はいても、買ってくれる人は少ない。

 商品に自信があっても、それだけでは売れなかった。

 不安だらけの中で、知り合いが来てくれるのは、それだけで嬉しかった。

 ほんの少し時間が空いただけなのに、あの頃と同じように不安な気持ちでいっぱいだった。

「また来てくれるかな」

 何も見えない夜空を見上げながら、少女は砂の入った麻袋を集積所に出して店に戻ってくる。

「お嬢様、大変です!」

「な、なに。どうしたの?」

「お嬢様が砂袋を出しに行っている間に、何人もの人が店を覗き込んで行くんですよ!」

「覗き込む?」

「そうなんですよ。わたしの顔を見てがっかりしたり、すごい顔で睨みつけられたりしました」

「それでその人たちはなにか言っていた?」

「店が変わったの、とか言われました。お嬢様のかわりにいますって、言うと、今日は店を開くのか、って訊かれました」

「なんて答えたの?」

「お嬢様がお戻りなられましたら、すぐに開きますと」

「それでいいわ。ありがとう」

 少女は笑顔で頷くと、ランプを店の前に掛ける。

 開店の合図だ。


「もう店じまいして、他の人の店になったと思ったわ」

「そんなことありませんよ。今日からフィリアが手伝いに来てくれているだけですし、あたしは店を辞める気はありませんから」

 店開きする前に来てくれたのだろう、そう言って婦人は油を買っていく。

「待っていたのよ、エアリィちゃん。あなたの油を使ってしまうと、他のが使えなくて」

「うれしいです」

「本当よ。事故の噂を聞いたでしょう。もう来てくれないかと思ったわ」

「続けますよ。だから心配しないでください」

「助かるけ、でも無理しちゃだめよ」

「モーリルさんの顔を見たら元気になりました」

「あらあら、嬉しいこと言ってくれちゃって」

 常連さんは笑顔で店をあとにする。

「お嬢様、量はあれくらいで大丈夫でしたか?」

「うん。フィリアも慣れてきたわね」

「それにしても、お嬢様はすごいですね」

「なにが?」

「あんなに早く暗算ができるなんて」

 フィリアは羨望のまなざしで少女を見つめる。

「あれくらい、トレーダーなら当然よ」

「ふぇぇぇぇぇ、トレーダーってすごいんですね」

 開店して一時間が経つが、息つく暇もなかった。

 話を聞きつけたのか、次から次へと客が油を求めてやってくる。

 二人がかりでも一時、小さな列ができた時があったほどだった。

 いつもの倍の油を持ってきたはずなのに、油はすぐになくなっていく。日の出前には完売してしまいそうな勢いだった。

「明日も来てくれるの?」

「ええ、明日も店を開けますから、よろしくお願いします」

 完売の看板を店の前に掛けながら、少女は来店した客に応える。

 フィリアは忙しさに目を回し、ぐったりしている。

 油を売っていると思い出したように痛みが走る時があるけれど、それでも動き回っていることで吹っ切れたものがあるような気がする。

 いろいろな人に元気をもらっていると少女は思うのだった。


「おやおや、もう売り切れてしまったのですか? 今日は早いですね」

 店の前に掛けられた『完売』の札を残念そうに見ながら、シュトライゼは店の中を覗き込み少女に声をかける。

「す、すいません。いつもより多く持ってきたのですが」

 少女は口にしていた朝食を慌てて飲み込み答える。

 普段なら商いの合間をぬってマーサが用意してくれた携帯食を食べることもできたのだが、今日は異常だった。

「あなたが謝ることはありませんよ。五日ぶりですからね。店が開くのを待っていた人が大勢いましたから」

「本当ですか?」

「ええ、そうですよ」シュトライゼは眼鏡の位置をなおしながら目を細め笑いかける。「あなたは知らなかったでしょうが、店の前で休業の張り紙を見て残念そうに帰っていく人をよく見かけましたよ。会議所にまで問い合わせに来る人もいたくらいです」

「会議所に行った人もいたのですか? それでなのかな、わざわざお見舞いの品を持って来てくれた人もいたくらいですから」

「トレーダー地区まで行った人がいるのですか?」

「ああ、門の入り口までですよ。館に直接来たのはベラル師だけです。館の使用人に、見舞いの品を預けた人が何人かいたのです」

 フィリアが少女の言葉に頷く。

「商区へ買い出しに行くときに声を掛けられて、ビックリしました」

 彼女は用意していたお茶をシュトライゼに差し出す。

「それだけでもすごい話ですよ。あなたは本当に人気者ですね」

「どういう意味でですか?」

 少女はよからぬ噂のほうが頭に浮かんでしまう。

「下町のものがトレーダーの地区に近づくようなことは滅多にありません。あなたは商いだけでなく人としても好かれているのですよ」

「そんなわけないじゃないですか。まあ、今日のお客さんの数には驚きましたが」

「きっと口コミで広がったのでしょうね」

 本当に不思議な少女だった。

 トレーダーだということにも興味がわいてくる。

「もう少し油の生産量を増やせればいいのでしょうけれど」

「それはクロッセ君次第なのでしょう?」

「そうですね。クロッセには頑張ってもらわないと」ウォーカーキャリアのことも含めて。

「期待していますよ。それはさておき、明日も店は開くのでしょうか?」

「当然開きますよ」

「それはよかった。私は所用があって朝早くここに来ることができません。これを預けていってもよろしいでしょうか?」

 シュトライゼは油入れの瓶を差し出した。

「ご予約ですか?」

「私もあなたのファンなのですよ」

「油のですか?」

 少女は瓶を受け取りながら微笑む。

「まあ、そういうことにしておきましょう」

「普段、取り置きはしていないのですが、シュトライゼさんの頼みですから、いいですよ。そのかわり、噂になると大変なので秘密ですよ」

「了解しました。よろしくお願いします。それと、今日このあとのご予定は?」

「今日の予定ですか? このあとはシェラが来たら、店を閉めて館に戻りますが」

「でしたら、途中で会議所に寄っていただけると助かります」

「なにかあるのですか?」

「実をいいますと」

 思いっきり意味深な顔つきになってシュトライゼは少女を見つめる。

 その迫力に少女はごくりとのどを鳴らす。

「あなた宛てにですね、見舞いの品が会議所にも届いているのですよ。取りに来ていただけると助かります」

「な、なぜ会議所にまで?」

「あなたが住んでいるところを知らない人や、トレーダー地区にまで行くことができなかった人達が、会議所ならと預けていったそうです。事務をしている者も驚いていましたよ」

 下町の垣根を越えて多くの人々が少女の容体を心配していたのである。

 それは少女だからできた人との接し方生まれたものなのだろうとシュトライゼは考えた。

「はあ……」

 少女はどう返答してよいのか判らない。

「よろしくお願いしますよ」

 シュトライゼはそう言うと手を振りながら、見回りに戻っていくのだった。



 4.



 ウォーカーキャリアのフレームは歪んでいた。

 流れるような流線形のフォルムは見る影もない。

 機首が一番ひどい有様だった。

 衝撃はコックピット近くにまで達している。

 あと少しで少女も押しつぶされていたかもしれない。

「……ごめんなさい……」

 冷たいフレーム触れながら少女は呟く。

 涙があふれ出しそうになるのをこらえる。

「エンジンや動力系の部分が無事だったのは幸いかな」

 ナノマシンによって動力系のパーツに異常はないとクロッセは言う。

 こんな状態でもウォーカーキャリアはまだ動くことができた。

 しかし、エンジンは元通りになったとしても、前と同じ動きというわけにはいかない。直接ダメージがなかったはずの脚部にも異常があり、油が切れたような軋む音がして、スムーズに動いてくれない。

 見えないところまで影響は出ている。

「ねぇ、ナノにゆがみは直せないの?」

「ナノは機械内のシステムを直すものであって、フレームを修理するためのものじゃないんだ」

「でも焼けただれ、溶けた機械の表面を直したじゃない」

「あれはナノがつながっていたからだろうね。外装が溶けたことによって、装置内部まで被害が及んだため、システム全体を修理する必要があると判断したからだと思う。それにあれを直接、直したのは爆甲虫だっただろう? 今回、爆甲虫が現れないということは、ナノ自身は外装を見ていないということになるだろうね」

「システムが直ったって、機体が動かなければ意味がないじゃない」

「ナノだって万能じゃないんだよ」

「じゃあ、シルバーウィスパーの帆を直した方法は?」

「歪みまで直してくれるだろうか? 試してもいいが、たとえ可能性があったとしても帆と違って時間がかかるだろうな」

「だったら……だったら、どうするの?」

「フレームは板金のプロ、鍛冶工に頼むのが一番なんだけど……こんな大きな機体を細部にわたって直せる人がいるかどうか……」

「じゃあ、この子はこのままなの!」

 少女は体の痛みに顔をしかめながらクロッセに詰め寄る。

「そんなことさせない。ようやくここまで来たんだ。こんなところで諦めたくない」

「あたしだってそうよ」

「だから、元通りにする方法を考えているんじゃないか」

「わかっているけど……」

 方法も浮かばず時間だけが過ぎていくのだった。

「元通りといえば」少女は思い出したように訊ねる。「この機体は最初からこんなフォルムじゃなかったのよね?」

「まあ、実験の過程で軽量化のためにはずしてしまったものも多いから、今はかなりシンプルになったかな」

「最初の姿ってどういう感じだったの?」

「今更、どうしてそんなことを訊くんだい?」

「今回の失敗は、そこにあるかもしれないと思ったからよ」

「そこって、形が何か関係しているのかい?」

「たとえば、シルバーウィスパーには船上だけじゃなくて船体にもいろいろなものがついているじゃない? それらは見た目が変だったり、普段は使わない邪魔なもののように見えて、嵐のときとか、いざという時に必要になったりして、すべてが砂漠を走るためのものだったりするでしょう」

「確かに、改良がすすめられたものには、そこに至るまでの理由があるものだけど……」

「そうだとしたらよ、クロッセ。歩くためには不要だったものも、浮かぶためには必要なものだったと思うの」

「なるほど、それは面白い考えだ」

「歩かせるためにクロッセがここにいたったのはわかるけれど、それだけではこの子はうまくとべないと思う」

「エアリィの言うとおり、この機体は付属していたものがあった。それがなにを意味するのか判らなかったし、歩行に影響する感じではなかったので不要なものはすべてはずしてしまった」

「あたしはその最初の姿が知りたいの」

「付属していたパーツとかはすべて保管してある。記録もとっているし、なによりこのウォーカーキャリアのものだと思われる図面を僕は持っている」

「なんですって! それを先に言いなさいよ!」

 クロッセの足を蹴りつける。

「そんなものに誰も興味を示さなかったからだよ」

「それに気付かなかったあたしもバカだけど、あなたももっと考えなさいよ!」

 少女はクロッセの背中を押しながら、彼の家へと向かう。


「不思議な形をしたウォーカーキャリアだろう?」

 一枚の大きな紙を机の上に広げながらクロッセは言う。

 図面と絵と違う。

 色も陰影もない、ただ線で結ばれた平面的なもので、真上や横、正面からの形状を書いていただけの物だった。それにかなり昔のものなのだろう、紙が変色したりしていて書いてある線や数字、単位はかすれていた。それに線画を見ただけでは少女には実際の形を想像するのは難しかった。

「この図面をもとに立体模型を作ろうよ」

「形を理解するには、必要だよなぁ……」

 この図面はクロッセがヴィレッジにいた頃に放置された資料室の中から見つけたものだった。その変った形状に魅了されこっそり自分の物にしたのである。

 下町に引っ越して来た時にそれらも持ってきたのだが、整理しないまま持ち込んだために部屋の奥のがらくたの山に紛れてしまっていた。

 探し始めると通気性の悪い部屋は砂ぼこりが充満し、一度外に避難したほどたった。

 とても人が住む環境だとは思えない。

 シェラがいてもこのありさまである。

 彼女がいなければ絶対に暮らしていけないと少女は改めて思った。

「見たことのないフォルムだった。最初、これは本当にウォーカーキャリアなのか悩んだほどだったよ」

 発掘作業から数時間後、ようやく見つかった図面を前にクロッセは他のウォーカーキャリアにはない部分を示す。

「歩行のための脚部とアーム以外にも胴体についているものがあるわ」

「胴体の両横にせり出した大きな三角形と後部のメインノズルの上に突き出た小さな三角形のパーツは他のウォーカーキャリアにはないものだった。なぜこんなものがついているのか判らなかったけれど、のちにあのフレームを見つけた時、本当に実在したんだと驚いたものだったよ」

「設計段階で必要としていたものを、どうしてはずしてしまったのよ?」

「歩行には不要なものだったから、軽量化のためにはずしてしまったんだ。実際、エアリィも見ていたから判るだろうけれどエンジンのパワーが足りなかったからそれを補うためにね」

「こうは考えられないかしら」

 少女は立ち上がると片足で立ちバランスを取り始める。

「屋根の上とか手がかりのないところを歩こうとして、こう両手を広げたりしてバランスをとろうとするでしょう? ウォーカーキャリアも浮かんだときに空中で機体を安定させるためのものが必要になると思うの」

「なるほど、この両脇に広がる三角形の部分が、僕らでいうところの手の部分に当たるわけか。歩行には不要でも浮かんだときに使うことになるのか。面白いな」

 クロッセは線をなぞりながら、何度も頷く。

「可動のためのギミックはそのためにあったのか」

「なによ、それ、初耳だわ」

「そりゃあエアリィは知らないよ。ずっと前にはずしてしまったものだからね。実際、機体の横に広がったこの三角形の部分は機体内部に収納できたし、ノズルの横の部分は広がっているときに上下に可動したんだよ。エアリィの話からすると、歩行する時と浮かぶ時で使い分けるためにそうなっていたのかもしれない」

「それは元通りにできるの?」

「……」クロッセは明後日の方向を向いてしまう。「……まあ、よくあることなんだけど、機械を分解することは簡単なんだけど、それを元に戻すのは難しいんだよね……」

 乾いた笑いが部屋に響き渡る。

「それはわかるけど……なんとかするしかないじゃない」

「まあ、パーツはすべて残っているから、不可能じゃないけれど……」

「その前に機体のゆがみやつぶれたところを直さないとね」

「となると、やっぱり……」

「鍛冶工?」

「僕らではどうしようもないからね」

「でも、あてはないのでしょう? 工房に直接頼みに行ったとして直せる人がいるかどうかもわからないのよね。行き当たりばったりでなんとかなるものではないのよね」

「ああ……」

 二人は顔を見合わせ深いため息をつくのだった。


「どうしたの、二人とも暗い顔をして?」

 隣に住むシェラがクロッセの家を覗くと、二人はただ黙って机の上の紙を見つめているだけだった。

「行きづまっちゃって……」

 少女は力なく笑う。

「直りそうなの?」

 シェラは二人の前に持ってきたお茶と菓子を置く。

「難しいかな。歪んでしまったフレームを元通りにするにはどうしても熟練の鍛冶工なり板金工の助けが必要なんだけど……、あてがなくてね」

「どこかに腕のたつ鍛冶工はいないかしら?」

 少女は工房のある区画にはまだ足を踏み入れたことはなかった。

「そうねぇ」シェラは考え込む。「一番確実なのはハルトさんの工房かしら?」

「ロンダサークでも屈指の工房じゃないか!」

「知っているの?」

「マサ・ハルト氏を知らない人は下町にはいないよ」

「あたしは知らない」

「外との交流は持たない人だからな……」クロッセは渋い顔をする。「確かにあの人なら可能だろうけど」

「マサ・ハルトさんは、ロンダサーク屈指の名工と言われている人よ。五十を過ぎているけれど、その腕はいまなお健在なはず」

 シェラが教えてくれる。

 彼のハンマーさばきは円熟の域に達し、金属板から鍋や皿、フライパンだけでなく砂上船まで造り上げてしまうという。

「なによ、腕がいいなら頼むべきじゃない」

「そうはいうがなぁ……」

 クロッセは頭を抱える。

「なにか理由があるの?」

「……以前、僕はハルトさんに仕事を頼みに行ったことがあるけれど、門前払いを食った」

「その人に迷惑をかけたことがあるからとか?」

 少女はからかい半分に言ってみたが、クロッセは真顔で首を横に振る。

「それだったら、どれだけ楽だったことか……土下座してでも許しを請い頼み込んだだろう……そうだなぁ、簡単に言ってしまうと、ぼくが旧区の生まれだったからだね」

「旧区の生まれだったとしても、いまは下町の住人でしょう! クロッセはクロッセじゃない、どうしてダメなのよ?」

「あの人にとってはそうじゃないんだよ」

「ヴィレッジとは違うじゃない。クロッセのことを知らないだけじゃない」

「突き詰めればそうなるかもしれないけれど、どうしても人は噂や先入観だけで人を見てしまうところがあるわ」

 シェラは呟く。

「そんなところだろうと思う。旧区の人間は信用できない、そう言われて追い返された」

「そんな理由で? クロッセがダメならあたしが頼むわ」

「無理だろうな。そんな簡単なものだったら、もっと早くエアリィに話しているよ」

「まだ頼んでもいないのに、どうしてわかるのよ?」

「判るんだよ」クロッセは深いため息をつく。「あの人はトレーダーも大嫌いなんだ」

「……トレーダーが、きらい?」

「ハルトさんもハルトさんの工房も旧区やトレーダーの仕事は受けたことがない。だから、トレーダーはハルトさんの名すら知ることはなかった」

「でも、腕のたつ職人なのでしょう?」

「ええ、マサ・ハルトさん以上の鍛冶工はいない。ハルトさんならウォーカーキャリアを直すことも可能だと私は思うわ」

 シェラは少女に頷くのだった。


 ロンダサーク商工会議所は古くからある石造りの建物でドアを開け中に入ると狭いフロアに五つの窓口があり、商売に関する相談や申告などを受け付けている。

 少女がロンダサーク商工会議所を訪れたのはお昼も過ぎた一番熱い時間帯であった。

 人はほとんどいない。受付に座る者も手持無沙汰のように見えた。

 少女は用件をいうと、しばらく待たされたあとで中に通される。

 ちりひとつないような清潔で涼しげな廊下を通りシュトライゼの執務室へと向かう。

 今回は紹介状があったわけでも、呼ばれたわけでもない。

 シュトライゼは忙しいはずなのに少女を快く迎え入れてくれた。

「さて、今日はどのようなご用件でしょう?」

 ペンを置き、静かな口調で話しかける。

「お訊ねしたいことと、それからお願いがあってきました」

「私に出来ることでしょうか?」

「はい。シュトライゼさんは、鍛冶工のマサ・ハルトさんをご存知でしょうか?」

「ええ、存じていますよ。彼とは長い付き合いでもありますね。彼が何か?」

「マサ・ハルトさんはロンダサークきっての鍛冶工とうかがいました」

「そうですね。彼はロンダサークの歴史の中でも五指に入る名工ではないかといわれていますよ」

「そんなにすごい方なのですか?」

「そうですね」

 シュトライゼは立ち上がると執務室にある収納棚の扉を開け、厚さは十センチほどだが五十センチ四方の正方形の箱を取り出し、少女の前に置く。

「口で説明するよりも、彼の品を見ていただくのが一番かもしれません」

 その箱にはシュトライゼが顔役となって十年の祝いに贈られたものが入っているのだという。

 蓋を開け覆っていた布をとると中から金属製の大皿を取り出し少女に手渡す。

 それは一枚の金属板からハンマーひとつでたたき出したものだった。

 鏡のような光沢の皿は素手で触れるのもはばかられるようなもので、縁にはよく見ると彫金が施され、その繊細な図案に魅入られてしまう。

「すごい、きれい……」

「彼は余興だと言っていましたが、私にはすぎた品です」

 皿の底にはマサ・ハルトの署名とシュトライゼへの賛辞が込められている。

「マサ・ハルトさんはどのような人物なのでしょうか?」

「彼をひと言で言い表すのなら、頑固、でしょうかね。自分にも他人にも」

「……頑固、ですか……」

「自分の意思と信念を曲げない。そして自分の技に誇りを持っています」

「そうですか、あたしは、ハルトさんに仕事を頼みたいと思っています」

「ほお」

 シュトライゼは少女をまじまじと見つめる。

 そして、少女の瞳から何かを感じとったのだろう。小さくうなずき微笑む。

「名工の技が必要な仕事でしょうか?」

「はい。でも、ハルトさんはよそ者に対して排他的であるとうかがいました」

「気難しい人ですからね。ですが、言い換えれば、信頼に足る者であれば、彼は誰よりも信頼のできる頼もしい人物であると言えましょう」

「あたしはそうなれるでしょうか?」

「なりたいのでしょう?」

 シュトライゼの問い掛けに少女は強く頷いた。

 彼は目を細め少女を見つめ言う。

「ハルト氏があなたと会ってあなたをどう思うか、それは、本当にあなた次第でしょう。彼の噂を知ってなお仕事を依頼したいと考えている。私がどう言おうともあなたはハルト氏と会いたいのでしょう?」

「会う前からあたしはあきらめたくない。ただハルトさんの工房に頼みに行ったとして、話も聞かずに追い返されるのだけはさけたい」

「なるほど、彼ならあなたの素性を知れば、話すらできなくなるでしょうね」

「それでは困るので、シュトライゼさんにお願いがあるのです」

「よろしいですよ。この前の油のお礼もあります。紹介状を書きましょう」

「ああ、そこまでしていただかなくてもいいです」

 慌てて少女はペンと紙を取り出すシュトライゼを止める。

「それではなにを?」

「あたしはきっかけが欲しいのです。ハルトさんに話を聞いてもらうきっかけが。ですから、シュトライゼさんの紹介ということで話をしてみたいと思い、その了解をいただきたかったのです」

「それだけでいいのですか?」

 彼は念を押すように訊ねる。

「ええ、シュトライゼさんの話でも、ハルトさんは信頼にたる人だとわかりましたから」

 少女はそう言ってシュトライゼに微笑みかける。

「あなたに考えあってのことなのでしょうね」

「特に考えがあってというわけではありません。ただ、それでも実際に会って話がしてみたいと思いしまた」

「そうですか。では、良い結果を期待していますよ」

 シュトライゼは手を差し、少女もその手を握り返す。

「忙しいところありがとうございます」

「いえいえ、あなたとの話は楽しい」

 少女を部屋の外まで見送りながら、シュトライゼは笑いかける。

 彼は執務へと戻ったが、しばらくしてペンを置くと「どのような結果になるにせよ、ひと波乱ありそうですね」シュトライゼは楽しげに呟くと、窓から外を見るのだった。



 5.



 少女はマサ・ハルトと会う前に鍛冶工たちの地区へと一度、足を運んだ。

 鍛冶工たちの区画は少女とクロッセがテストをおこなっていた廃棄地区から北へ二ブロックほどいった外周部にある。

 遠くからでも鍛冶工の地区は判る。工房の煙突からは常に煙が立ち上り続けているからだ。

 外周部に地区があるのは、その黒煙のせいもある。

 門を抜けると表道と呼ばれる通りには鍛冶工たちの工房が軒を並べている。

 建物のほとんどが煙のせいもあるのだろう煤けた色に染まっていた。

 全体的に薄暗い街のように感じられる。

 地区の門をくぐりぬけ、通りを進んでいくにつれ、あたりからは鋼を叩く音や切る音が響いてくる。

 工房の軒先には、大小様々な形や大きさの鍋や包丁など彼らが作った日用品が並べられ売られている。

 買い付けに来ている仲買人らしき人もいて、工房の主と取引をしたり話し込んだりしている。それらを覗き見ながら通りを歩いていく。

 少女は歩く道すがらたびたび視線を感じる。

 地区の住人だろう彼らはよそ者を見るような目で少女を見つめていた。

 マサ・ハルトの工房はすぐに判った。

 少女の耳に聞こえてくる金属を叩く音が他とは違って聞こえてきたからだ。

 ただの騒音が少女にはリズミカルで心地よい旋律に感じられたのである。

 工房の前に並ぶナイフやフォーク、そして鍋やカップはどれも素晴らしい出来だった。

 商区の通りでも滅多にお目にかかれない品ばかりである。

「どうして商区で扱わないのかしら?」

 少女は工房の前に並ぶ品すべてを買っていきたいと思ったほどだった。

 悩んだ末に、油こしに使う目の細かい網とマグカップを選ぶ。

 怪訝そうな顔をした店番の徒弟に笑いかけながら少女は買い物を済ませると、工房をあとにする。


「マサ・ハルトさんはいらっしゃいますか?」

 シュトライゼと会った後、少女は改めて工房を訪れる。

「やあ、君は昨日も来たよね? うちの師匠になにか用なのかな?」

「はい。シュトライゼさんにマサ・ハルトさんのことを紹介されて、お仕事を依頼したいと思い、工房にやって来ました」

「シュトライゼさんって、商工会議所の?」

「そうです。ハルトさんの工房を紹介していただきました」

 少女ははきはきと笑顔で答える。

 シュトライゼの名前を聞き門弟は、慌てて客人を招く部屋に少女を通し、奥へと走っていく。

 工房の奥から響いていたリズミカルな金属音が止まる。

 しばらくしてがっしりとした体躯の男が姿を現す。

「おれが、マサだが」

 齢はすでに五十を超えていると聞くが、その顔つきはまだまだ若々しい。

 工の頭は怪訝そうな顔で少女を見る。

「シュトライゼの紹介だって? どういう風の吹きまわしだ」

「はい。どうしても成しとげたいことがあって、行き詰っていた時、工の頭の名を教えられました」

「あいつがおれの名をあげるだなんて珍しいな」

「ハルトさんでなければできない仕事だからです」

「ほお、おれにしかできない仕事だと? で、依頼人は?」

「あたしです」

「お前が? おれに何を頼みたいんだ?」

 シュトライゼの名のおかげだろうか、門前払いはさせられなかった。

 少女は内心ホッとしながら、ショルダーバックからクロッセから借りてきた図面を取り出し、テーブルの上に広げる。

「このフレームを造っていただきたいのです」

「なんだ、これは?」

 初めて見る形に工の頭は目を見張った。

「これはですね、こういうことをするためのものです」

 少女は周りに人がいないことを確認すると、バックから折ってきた紙飛行機を取り出す。

「なんだそれは?」

「見ていてください」

 少女はマサの目の前で紙飛行機を飛ばしてみせる。

 ふわりと浮きあがり、旋回しながら床に落ちていく様子を工の頭は目で追い続ける。

「見せてみろ」

 少女が拾い上げた紙飛行機を受け取ると、その形を様々な角度から覗き込み図面と見比べる。

 どうやら興味を持ってくれたようだった。

 彼は指で線を追い、自ら紙飛行機を飛ばしてみる。

 少女は黙ってその様子を見つめる。

「これは紙でできているが、おれに紙でこの図面に書かれているものを造れっていうわけじゃないだろう?」

「はい。鋼でこの形を造ってもらいたいのです」

「かなり大きいな……この図面通りにフレームを造れっていうのか?」

 読み取れる数値や単位を理解しながら工の頭は問う。

「できますか?」

「面白いことを訊くな、嬢ちゃん」

 その瞳はクロッセと同じように輝いているように見えた。

 少女の読みは当たった。工の頭もまた物を造り上げるのが楽しくて仕方がないのだ。

「このフレームを造ることによって、紙飛行機と同じことができるようになるっていうのか?」

「はい。これにエンジンを乗せることによって可能になります」

「エンジンだと? そんなものを乗せて何をやろうっていうんだ?」

 少女は腹をくくり、まっすぐな瞳でマサを見つめる。

「あたしは、飛びたい。そのために力を貸してほしいのです」

「とぶだと?」

「はい。ぜひマサ・ハルトさんの腕が必要なのです」

「おれの腕か……そもそもシュトライゼの紹介できたっていうが、嬢ちゃんは何者なんだ?」

 射るような鋭い眼光が少女を圧倒する。

 怯みそうになる心を押さえつけ、なんとか踏みとどまる。

「あたしはトレーダーです。ウォーカーキャリアを動かすためにマサ・ハルトさんの腕を見こんでお願いに来ました」

 少女は深々と頭を下げてお願いする。

「ウォーカーキャリアだと? トレーダーだとぉ!」

「はい」

 顔を上げ、工の頭から視線をはずすことなく少女は答えた。

 その想いをこめて、彼にもう一度、願いを告げる。

「帰れ! おれはトレーダーに用はねぇ!」

「お願いします」

 しかし、少女の想いは届かなかった。マサは荒々しく扉を閉めると無言で工房の奥へと消えていった。



 <第九話 了  第十話へ続く>


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