ちょっと転んだだけなのに
凪司工房
1
庭の小さな桜もほとんど散り、葉桜に変わり始めていた頃だったと思う。思い返せばその時すでに事態は大きく動き出していたのかも知れない。
父が右の足を引きずって、痛そうに歩いていた。またどこかにぶつけたのだろう。寝室は和室で布団を敷いて寝ているのだが、周囲に物が多いし、石油ファンヒーターはしょっちゅうぶつけられて今では一部凹んでしまっている。だから母も父自身も、そのうちに治るだろう。そう考えていた。
それが四月の中旬くらいになる。
けれど一日、二日、一週間くらいして少し良くなったかと思うが、まだ痛むらしい。それでも父は沢山歩き回るような仕事ではなかったので、顕在化はしなかった。
それが五月に入り、急に悪化した。家の中で歩くのに杖を使っていたが、それでも立てなくなった。
そんな状態でもじきに良くなる――両親はそう考えていたようで、特に医者に診てもらうようなこともせず、安静にしていた。
だがそんな状態になったものが少し休んでいたくらいで良くなる訳がない。そもそもずっと悪かったのだ。いい加減に医者に診せた方がいいと説得し、車に乗せると、病院へと向かった。
私の暮らす町はいわゆる田舎だ。公立の大きな病院があるが、車で急いでも三十分程度掛かる。普段診てもらっているのは内科医で、主に糖尿病と数年前に脳梗塞になっていて血液関係の薬の処方をしてもらっているくらいで、外科に改めて足を診てもらうよりはもう公立の病院にかかった方が良い、と判断した。
病院の玄関で車椅子に乗せ、受付を済ませる。コロナ禍ということでアルコール消毒やマスクなど厳重にしていたが、肝心の父の様子は楽観的なものに見えた。
私は一旦帰宅したが、母から連絡があり、すぐに入院・手術ということになった。右足の付け根が折れていたのだ。
――もっと早くに診てもらっておけばよかったのに。
とは思ったが、うまく手術の都合がついて診てもらったその日に
術後の予定は割とすぐからリハビリを始めて、およそ二週間ほどで退院になるそうだ。色々とうるさい父が大丈夫だろうかと心配していると案の定、毎日のように病院から電話が掛かってきた。寝るのに寒いとか、食事がどうとか、体調とはあまり関係ない生活の部分について、これも後で聞いた話だが看護師さんたちを困らせていたらしい。いわゆる“迷惑なタイプの入院患者”だっただろうと思う。
それに輪をかけてコロナ禍というので一切の面会はなかった。洗濯物、受け渡しの荷物も一階のロビーで担当のスタッフか看護師に預け、こちらが引き取るものがあればその時に貰ってくる、といった具合だ。これはおそらくどの病院でも似たようなシステムになってしまっていることだろう。見慣れた人と会えない。家族の顔がない、という状態は想像以上に入院中はストレスを掛けたことと思う。
電話ではリハビリを頑張り、一日も早く退院して帰宅したいと言っていると聞いていた。普段は運動するのを嫌がって、散歩もなかなか習慣づかないでいるが、流石にこの時ばかりは頑張らざるを得なかったのだろう。リハビリ専門の病院ではないので理学療法士が入ってのリハビリの時間が短く、自分でやらないとそもそもの運動の時間が少ないのだと、ずっと後になって知った(これは本当に病院によって全然違うので、もしあなたが入院することになったら調べておいて欲しい。基本的に大腿骨の手術をした後は適度な運動量のリハビリをしている方が回復も復帰も早い)。
カレンダーが五月から六月へと変わり、入院してから二週間が近づこうとしていた。まもなく退院だろう。そう思っていた矢先、それも夜の十二時前のことだ。病院から一本の電話が入った。
電話を受けた母はまた何か迷惑でも掛けたのだろうかと思ったそうだが、内容は全く予想外のものだった。
『胸が痛いと言っていて検査をするから今から病院に来れますか?』
母から伝え聞いたそのフレーズの意味が、頭の中で上手く繋がらなかった。
検査すればいいだけだろうに何故病院に向かう必要があるのだろう。書類を書いたりしないといけないからか。
確か考えたのはそんなことだ。
二人とも状況をよく理解しないまま、私と母は暗い中、車で家を出て病院に向かった。
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