第162話 鶴と烏(7)

 れんの目には久しく見ることがなかった光景が広がっていた。草華くさばな、水、空気までが美しく輝き、安らぎを与える世界がそこにはあった。


 幻覚ではない。全てが本物であることは、山の神のしもべである漣が持つ鋭い感覚からも分かった。


 ゆっくりと歩みを進める漣の瞳に、白い着物と白い帯姿の少女が映った。宇津田姫うつたひめと似ているよそおいであるが、美しく伸びた黒髪は夕帰魅ゆきみを思わせた。だが、少女の姿はそれだけでは言い表すことができなかった。一目で神であると認めさせるほどの美しさとオーラを持ちながら、はかなく散る繊細せんさいな人の光を見せる少女。いままで漣が知る神の姿とは全く違う姿であった。いや、これと似た姿を漣は目にしていた。神でありながらも人の哀れを抱いた優しさを持つ、みなもだ。


 雪神のオーラに取り込まれそうになっていた漣は、思わず懐にある短冊を強く抱きしめた。緊張する漣の心を短冊の光が緩めていくと、落ち着いて雪神を見ることができた。

 

「漣ですね」


 雪神の声に漣は、前に進み右膝をついて頭を下げた。


「はい。山の神の僕、烏天狗からすてんぐの漣です。水面みなもの神のめいを受け、雪神様のもとに参りました」


 漣は頭を下げたまま落ち着かぬ心を鎮めるため、目の前にある華を見ていた。

頭を下げた瞬間、雪神の凄まじいまでの力を感じて身が固まったのだ。それは神の僕である者の直感といってよかった。見た目の柔らかな雰囲気とかけ離れた強い神のオーラに漣の身体は震えていた。


(雪神を恐れることはない。雪神はどの神にも勝る優しさを持ち、どの神よりも人に近い神じゃ。けしてお主を傷つけはせぬ。お主の思うままでよい。それが儂の思いじゃ)


 頭の中にみなもの声が柔らかく揺らめいていく。漣の震えが治まっていた。


「漣、神命しんめいとはいかなるものでしょう」


 雪神の声に漣の意識は引き戻された。


「はい。水面の神様より、この短冊たんざくを雪神様へ渡すようにと」


 漣は頭を上げるとふところから丁寧ていねいに短冊を取ると、雪神へ差し出した。


 漣から短冊を受け取ると、水色に輝く光を見つめていた。短冊を見つめる雪神は、まさに女の子が憧れの人から届いた手紙を読む姿であった。嬉しさをたたえた笑みを微かに浮かべる雪神を漣はポ~っと眺めていた。


 しばし短冊を眺めた雪神は、大切に懐へと仕舞い込んだ。


「漣、確かに短冊を受け取りました」

「はい」


 雪神の言葉に漣は神命を一つ果たせたことに、少しだが肩の荷が降り、身体の力が緩んだ。気持ちがホ~っと和らいだことで、一つの思いを口にした。


「雪神様、一つ申し上げたいことがあります」


 漣が雪神の顔を見上げた。雪神は漣の想いを受け止めるべく、黒い瞳を向け見つめている。その瞳を見つめると、漣はいまから伝えたいことを言葉にすることを戸惑った。なぜなら、めいを与えた者の意に背く言動は罪であるからだ。漣もそのことは十分に分かっていた。余計なことであることは承知であった。みなもの神命にはない言葉を雪神に伝えることは、ともすれば大事を起こしかねないことである。雪神の動き次第では、漣の願いである村の神々を救うことができなくなってしまうかもしれないのだ。それだけではない。村の為に尽くしているかすみたちが窮地きゅうちおちいることにもなりかねないのだ。


 雪神は漣の言葉を待っていた。ゆったりと漣を見下ろす瞳は、神ではもちえない人の温かみと悲しさを感じさせた。


 雪神の瞳に惹かれ、漣は迷いながら喉元で控えている言葉を口に出した。


「恐れながら申し上げます。夕帰魅ゆきみを助けていただき、ありがとうございます」


 雪神は、顔色を変えず漣を見据えている。


「漣、その言葉は水面の神の言葉ですか。それともあなたの言葉でしょうか」

「私の言葉です」


 頭を下げ、漣が答えた。


 一瞬にして空気が変わったのが漣には分かった。辺りが静けさを帯びると、野にある華が風に揺れていた。

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