第115話 覚悟と想い(11)
流れるプールをひとしきり楽しんだ頃には、日は高くなっていた。
人も徐々に増え、屋外プールには元気な声が響いている。
ク~~~
「秋人、少し休まない?」
実菜穂がプールの外を指さして笑う。秋人もその意味を察した。
「そうだな、人も増えたし。何か飲もうか」
「うんうん。お腹も空いたしね。私、やってみたいことあるんだあ」
実菜穂がプールから上がっていく。このとき周りの人は気がついていないが、秋人はしっかりと見ていた。周りの女性がプールから上がるときは、水着から滴が垂れて足元は濡れ、足跡をつけていく。これは自然なことだ。だが、実菜穂が上がるとスカートから垂れる滴は霧となり、日の光を受け虹になり消えた。足跡を残さずにプールサイドを歩いていくのだ。美しくも不思議な光景である。
二人はテーブルで向かい話を弾ませている。
「これが食べたかったんだあ」
テーブルに置かれているのは、カップラーメンだ。実菜穂が醤油で秋人はシーフードを選んでいた。
「なあ、他にもっとマシなものあるだろう。買ってこようか?それとも、外に食べに行くかい」
「いいのいいの。私は、これに憧れていたんだ」
蓋の上に
「田舎にいたころは、プールといっても学校のプールしかなくて、売店なんてお目にかかれなかったよ。この街に引越しても友達いなかったから、誰かと遊ぶなんて経験なかったからなあ。だから、プールや海でカップラーメンを食べるのに憧れていたんだよね~。これが初体験だあ」
実菜穂が待ってましたとばかりに、蓋を開けるとフワッと湯気が上がり、食欲をそそる香を楽しんだ。
「いただきまあす」
軽く箸でかき混ぜ、
「美味しい。不思議だなあ。同じ味のはずなのに、どうしてプールで食べるカップラーメンはこんなに美味しいのだろう」
実菜穂が感心しているのを目にしながら、秋人も箸を進めた。
「本当だ。おいしい!実菜穂の言うとおり、どうして美味しいんだろう」
秋人が驚いて実菜穂を見ると、嬉しそうに笑っている。
(不思議だ。一人で食べても同じ味なはずなのに、どうしていまはこんなに美味しいのだろう。一人と違うこと、それはきっとそういうことなのだろう)
秋人は目の前にある答えを見つけていた。そう、幸せな笑顔で食べる実菜穂の姿こそがそれなのだ。
(そうだ。初めてこの姿を見たのは、校舎の陰で陽向とクッキーを頬張っていたときだ)
秋人も笑顔になり、麺を啜った。
「ねえ、秋人の美味しそう。私の食べても良いから、秋人のも食べたいな」
「えっ、あっ」
実菜穂が手を合わせている姿に、秋人は戸惑った。理由はある。小さな頃から食べ物のシェアは好まない性格だった。なぜかは分からないことだが、想像するのに、自分の食べているものは、自分独自の一つの世界、いわば聖域のように思えたからではないだろうか。シェアをするということは、その聖域に侵入されることであり、それを苦手としていたのかもしれない。
だが、相手が実菜穂であるということが、不思議なことに自分の世界に溶け込む感覚を覚えるのだ。自分の食べていたものを、実菜穂が食べるということ。それが神秘的な儀式、そう、杯を交わすような神聖な儀式のように思えた。
実菜穂が自分のを差し出してきた。秋人も自然に自分のを差し出す。実菜穂が真剣な顔をして、秋人の器から遠慮気味に麵をとっていく。
「もっと取ればいいのに」
「いいのいいの。少し味わえれば満足だから。うーん、これも美味しい。この味を知って、良かったな。秋人はセンスいいね。私のも食べてみて」
幸せな顔で実菜穂が差し出す容器に、秋人は引き込まれていく。箸を出そうにもなぜか緊張して箸の先が震えていた。
(何を照れているんだ。お子様じゃないだろう。いや、お子様じゃないから照れるのか。なんだろう?すごくドキドキする。まるで神様の聖域に入るような気持ち)
緊張する自分を何とか制し、実菜穂の容器から少しの麺を持ち上げた。
「こら、
実菜穂の言葉に、秋人はクッと麺をつまんで食べた。コクのある醤油味が口に広がった。
「うん、美味しい。王道の醤油味だ。これにハズレはないな。それに、実菜穂の笑顔のスパイスが効いている」
「はあ~?」
自分でも何を言っているのか分からないが、本音があちこちに散りばめられた言葉であった。実菜穂は面食らった顔をするが、すぐに笑顔になり麺を啜った。実菜穂の食べる姿に、秋人は引き込まれていく。
(そういえば、神話のなかにヨモツヘグヒの話がある。死の淵に落ちた神が、
実菜穂の笑顔を見ながら、秋人は極上の味のカップラーメンを頬張った。
(どうして実菜穂と食べると、こんなに美味しいのだろう)
一息ついた後、二人はウォータースライダーの列に並んでいた。とうぜん、実菜穂がリクエストしたのだが、秋人もノリノリになっていた。
適度な落差と
実菜穂の順番がきた。にこやかに足を入れ、ゆっくりと座り、係員の合図を待っている。
係員が下の状況を確認すると、合図を実菜穂に送った。実菜穂は秋人の方に振り向くと透明で消えそうな笑顔を見せた。
「じゃあ、先に行くね。ありがとう」
実菜穂がスライダーのなかに消えていった。その姿を見送る秋人は、
(なに?なんだよ。まるで置いて行かれたような、この不安な気持ちは)
実菜穂の笑顔が秋人の心を揺さぶった。気がつくと、秋人は係員に止められていた。どうやら、実菜穂を追いかけてスライダーに入ろうとしたようだ。
順番を待つ間、とてつもない時を過ごしているように思えた。やっと係員が合図を出す。秋人は一気に滑り込んでいった。
(実菜穂の言葉。まるで、この世界からいなくなるみたいじゃないか。先に行くって、どこに。僕は、もう嫌んだ。お父さんが亡くなって、暗闇のなかにいたのを実菜穂が救ってくれた。だから、もう、置いて行かれるのは嫌なんだ)
右に左に揺られ、トンネルを抜け、光を受けると、水しぶきとともに水中に潜り込む。ゴボゴボと音が耳に届く。顔を上げ、実菜穂の姿を探した。
「実菜穂!」
秋人が迷子の子供のように辺りを不安な顔で見渡す。
「ここだよー。お帰りなさい」
実菜穂が手を広げて秋人を迎えている。夢中で手を伸ばすと、実菜穂のもとに駆け寄った。
(もう二度とこの手は離すものか。絶対、一人だけで行かせはしない)
水しぶきと賑やかな声のなか、秋人は実菜穂の手を握りしめていた。
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