第8話 風の神と濡れた服(7)
霞が天井の三人を見ながらオロオロとしている。隣ではシーナがポカンと後ろ手を組み眺めていた。せっぱ詰まった表情など見せていない。むしろ、面白そうに事の成り行きを見ている。
「シーナ、お願い。三人を助けて」
「えっ、どうして?」
「どうしてって、シーナがあそこに連れていったから」
「だから?わたし、言わなかったかなあ。本当なら人のこない山奥に捨ててくるつもりだったんだよ。まあ、そしたら今頃は物の怪にでも襲われて生きてないかもしれないけど」
シーナは楽しそうに天井を見上げている。
「シーナ、酷いよ。神様でしょ。助けて」
「ひどい?酷いのはどっち?霞はあの子達に理不尽な仕打ちを受けてたんだよ。わたしは霞を助けただけなのに。酷いって言うんだ。しかも、わたしは霞に力を与えようとしてたのよ。自分でいらないって言ったのに。わたしが悪いのかなあ」
シーナはチラリと霞に目をやると、霞は震えていまにも泣きそうな顔をしてシーナを見つめていた。
(あー、お兄ちゃんが『人には関わるな』って言ってたけど。なにかなあ、この霞って人は。一度は鼓動がピタリと合ったのにズレてしまった。神霊同体になったときの感覚は間違いないはずなのになあ。あんな感覚は初めてだった。わたし、苦しむのも消えるのもイヤ!だけどもう一度、確かめたいよ。この霞という人を)
シーナはフッと辺りのよどんだ空気を祓った。体育館の中が涼やかになっていく。
「好きだって言ってくれたこと嬉しいよ。だから霞、あなたには言っておくね。わたしという神のこと。わたしには、これだけは守りたいということが一つあるの。まあ、わたしに対する禁忌ね。それは【美しいもの、可愛いものを傷つけること】もし、わたしの前でそんなことをする奴がいれば、わたしは絶対に許さない。人でも物の怪でも、いや、たとえそれが神であったとしても」
シーナの瞳が深い緑色に光る。フワットした髪が逆立っていく。その姿に霞は目をそらすことができず、引きつけられていた。恐ろしいながらも、無邪気で強力なオーラを放ち、それでいて可愛いと表現できる姿。霞はシーナの姿にただ心を奪われていた。
霞の心を見たシーナは言葉を続けた。
「だから私は五人の娘を消し飛ばしてもかまわないと思ってるよ。いや、むしろいますぐにでも。なぜって?それは霞という人を傷つけたからよ」
天井を見上げるシーナを見て、霞はハッと表情を変える。いまのシーナならやると悟ったのだ。
「お願い。シーナ、助けてあげて」
霞が手をつきお願いをする。いまの霞にはそれ以外何もできなかった。高い天井にいる三人を助ける手段が思い浮かばなかった。もし、自分が天井にいるのならジッと縮こまっていれば済む。だけど、そうじゃない。いまの自分には何もできない。無力なのだ。
「もう、限界かもね」
シーナが面白そうに笑みを浮かべている。霞がシーナの足下に跪き頭を下げた。
「お願いします。シーナ、助けてください」
床に頭をつける霞を見ながらシーナはため息をついた。
「私がイヤだって言ったらどうするよ?」
(どうする・・・・・・)
シーナの言葉に霞の心は思考停止になった。
「霞、もう一つあなたの知らないことを教えてあげるよ。神に祈りをすれば、願いを聞いてくれると思っていたら大間違いだよ。蟻は霞も知ってるよね。その蟻が足下にいたとして、思いやりを持って避けて歩く人もいれば、知らずに踏みつぶす人もいる。なかには、面白がって踏みつぶす人もいる。蟻だって、ただ生きていたいだけなのに。神も同じだよ。人に寄り添い守ろうとする神も確かにいるよ。でも、人になど興味がない神もいる。そして、人など消してもいいと思っている神もいるんだよ。それもウジャウジャね」
霞は頭を上げシーナを見上げた。シーナの瞳は深い緑の光を放っている。神の眼の光だ。
「シーナは・・・・・・シーナはどっちなの」
霞はシーナを見つめている。シーナは霞を見下ろしたまま瞳をそらさずにいた。
「わたし?さあ、どっちでしょう?ねえ、さっきの蟻の話だけど、確か群をなして襲う蟻もいるんだよね~。軍隊蟻、移動しながら強力な顎と毒針で出会った相手を次々と攻撃する蟻。かっこいいよね~。ねえ、そんな蟻をわざわざ踏みつぶそうとする人いるのかなあ。痛い目みるの分かっているのに」
シーナはクスリと笑って、神の眼で霞を見下ろす。
「ねえ、いくらお願いしても聞いてくれないものは叶わないよ。霞は、三人が落っこちるのをただ見るだけ。どうする?わたしに恨み言をぶつける?まあ、それで気が済むのだったら所詮、霞にとってもそれだけの人じゃない。霞には、何もできないよ。思うだけじゃ、何も叶わないよ。力がなければ誰も助けられないよ。神は、自ら動く者を助ける」
(思うだけでは・・・・・・力がなければ。私に力があれば)
霞は呪文のようにブツブツと呟いている。
「霞、三人を助ける最後のチャンスを与えてあげるよ。あなたができることは三つある。一つは、今すぐ誰かに助けを求めること。二つは、あなた自身が三人を助けに行くこと。三つは、わたしの巫女になること。さあ、あの三人はもう限界だよ。どうするのかなあ」
天井から香奈のかすれた声がする。
「早瀬、お願い、助けて」
霞の目は汗と涙で赤くなっていた。助けを求める香奈をただ見上げるだけの自分に、絶望と怒りが交互に押し寄せる。
(思うだけではだめ、力がなければだめ。力があれば、力があれば、力があれば、力があれば、力があれば!・・・・・・助けられる)
霞の心は決まった。もう、迷いはなかった。
「シーナ。私、巫女になるよ。シーナの巫女になる」
霞の目から涙が消えていた。
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