しあわせな「当たり前」を手渡して

雪待ハル

しあわせな「当たり前」を手渡して

とある本を読んだ。


その本には、親から体罰を受けなかった子どもは子どもに体罰をしない事が当たり前の親になる、とあった。

ああ、本当にその通りだと思った。

なんてうらやましい。そう思った。

何故なら私は既に親から体罰を受けてしまったから。

その事を当たり前だとはまったく思わない。

けれど、体に、心に、記憶にしみついて離れないその現実は、いつか私がご縁に恵まれて子どもができた時に追いかけてくるのではないか。

私は「親から体罰を受けなかった子ども」ではないのだ。

その事実が、私はとてもおそろしい。




私が中学生の時の話だ。


入部したバドミントン部では、先輩が私たち後輩に理不尽なルールを課していた。

私たちはそれに耐えて、やがて自分たちが先輩と呼ばれる立場になった。

その年に部活の顧問になった先生が言った。


「その理不尽なルールは、今年からやめましょう」


私たちは憤った。

どうして。

私たちはずっと我慢して耐えてきたのに、後輩がそれをしなくていいなんてずるい、と。

口々に先生に抗議したが、先生はこう言った。


「あなた達は辛かったでしょう。その辛かったことをこれからも後輩にさせ続けるの?」


「気持ちはわかります。でも、今年から理不尽な事を後輩たちにさせない為に、あなたたちには犠牲になってもらいます」


私たちは先生の言うことを理解した。


「犠牲」


この言葉で、先生が私たちの辛さや、これがどんなに理不尽なことかを充分わかってくれているのだと知ったから。




…そう。

「親から体罰を受けた子ども」が

「子どもに体罰をしない親」になろうともがく事と、この話が少し似ている気がするのだ。


これは先輩後輩や親子関係だけでなく、様々な物事に言えることだと思う。


「それ」が当たり前でない世界にいた者が、

「それ」が当たり前だと言って、次の世代へ手渡すこと。


そうしたいと思うなら、前者は「ぎせい」にならなければならない。

みにくい考えかもしれない。けれど「ぎせい」になろうともがく事は、とても高いハードルを何度も何度も越えていく事に似ている気がするのだ。


かつて自分は「それ」を得られなかった。

けれど、それでも。

「それ」はごく普通のことだと、次の世代へ伝えていけるだろうか。

それを思うと、私はたまらなく不安になる。

とてもこわい。


…けれど、かつての自分は「それ」が欲しいと願っていたはずで。

それなら次の世代にも「それ」は必要で。

ならば、「ぎせい」に(あえてこの言葉を使わせてもらう)なる事を選びたい。

次の世代が笑顔なら、きっとそれを見た私たちも笑顔になれる。


自分より歳下の誰かが辛いと口にした時に、辛さマウンティングをするのではなく、「それは辛かったね」と言ってあげられるように。


自分のために、好きな人のために、そういう自分である事を選びたい。

その本を読んで、そんな事を思った。

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