桜と面影

紀乃

1

 六時間目の授業がおわると、瑞希はいつも学校の図書室に向かい、お気に入りの漫画を読んだり、パソコンでネットサーフィンをしたり、たまに宿題をしてすごし、空が茜色になるころに下校する。


 家に帰りづらいから図書室で時間を潰しているわけではない。家を出てから顔を見ていない兄はともかく、車の販売店でディーラーをしている父と、専業主婦のかたわらにスーパーのパートをしている母は、瑞希にとっていい両親だ。


 子どもを放置せず、かといって甘やかしすぎず育ててくれたが、女子と間違えられがちな名前を自分に付けたことについては、将来子どもが苦労しそうだということを命名の段階で考えられなかったのかと、聞きたいことがいままで何度かあった。


 子どものころから名前をからかわれることが多かった。いまでは笑って受け流せるようになったが、同時に人付き合いが億劫な少年に成長した。


 と言っても、それは深刻な悩みではなかった。範囲の狭い人付き合いは、むしろ瑞希にとって心地いいものだった。


「気が合う人とだけ付き合ってればいい」


 と言う瑞希に周りはいつも、


「寂しい青春だな」


 と言って苦笑した。しかし瑞希はいまの自分の青春に満足していた。




 窓から見える景色が茜色に染まりつつあるのを見て、瑞希は読んでいた分厚い漫画を書架に戻し、スクールバッグを肩にかけて図書室を出た。学校に残っている生徒のほとんどは部活棟で各々の活動をしているので、校舎は閑散としていた。


 ゴムのスリッパから白いスニーカーに履き替えて昇降口を出たとき、目の前には校舎の影が黒くのっぺりと広がっていた。


 その中に、小さな白い斑点がいくつも散らばっている。校内の至る所に植えられた桜の木々が、穏やかな風に揺れている。


 仲間同士で騒ぎながら下校するいくつもの足に踏まれたのだろう。桜の花弁はぺちゃりとタイル舗装の地面に貼り付いている。


 できる限り花弁を避けながら歩いていると、校内のどこかから、いくつかの金管楽器の音色が聞こえて来た。吹奏楽部の練習だろう。パートで音を合わせているらしい。


 時々音が途切れたり外れたりするメロディに、瑞希は聞き覚えがあった。


「何の曲だったっけ?」


 ど忘れしたようで、曲の題名が出て来ない。喉に引っかかった魚の小骨を中々取り出せないような感覚が心地悪く、何とか思い出せないかと、瑞希は記憶を探りながら校門を出た。

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