第3話 理事長2

理事長室を満たす紅茶の匂い。

鼻腔の奥を吹き抜ける

爽やかな香りが食欲をそそり、

テーブルに置かれたお菓子に

思わず手が出そうになる。

…のは一般人だけだ。

ただ紅茶の香りを楽しみ、

ただお菓子に舌鼓を打つのは

一般人同士のお茶会だ。

一流のスパイともなると、

匂いを嗅いだ時、

即座に危険を感じ取る。

睡眠薬の甘い香りか、

麻痺毒の刺激がする香りか、

殺傷力のある毒の香りか。

紅茶の色は通常か、

変に濁ったりしていないか、

トロミはついていないか。

差し出された紅茶一つでも、

隠された危険は複数ある。

だから、入念に確かめてから、

飲む必要があるのだ。


「頂きます」


香り、見た目共に異常なし。

しかし、それで安心していては

相手の思うツボだ。

夏八はゆっくりとカップを近づけ、

ホンの少しだけ口に含む。

舌の上でしばらく転がし、

静かに飲み込んだ。


「…美味しいです」


夏八が言うのなら、

おそらく大丈夫だ。

夜六も紅茶に口をつけ、

自分でも確認する。

仄かに鼻から抜ける紅茶の風味。

どうやら、紅茶に細工はされていないようだ。


「飲みやすいですね」


二人の前の椅子に座り、

理事長は笑みを浮かべる。

テーブルに置いた市販のクッキーを

一つ口に放り投げて、

自慢げに話し出す。


「そうだろう?

この紅茶はね、

古くからフランスの貴族が飲んでいた

高級な茶葉に改良を重ねて、

平民達でも飲めるような

まろやかで安価な茶葉にしたんだ。

紅茶が苦手でも、

この紅茶なら飲めるっていう人が

たくさんいるんだ」


理事長の話を二人は相槌を打ちながら

永遠と聞いていた。

紅茶の話だけでなく、

彼が倒産寸前だった企業を

持ち直した時の話や、

学生の頃からそれなりに

女性からモテていたとか。


キーンコーンカーンコーン……。


気がつけば、

8時25分を知らせる予鈴が鳴る。

理事長はハッとなり、

自分の額をパシッと叩く。


「ごめん、二人とも。

僕は好きなことになると

急にお喋りになってしまう人でね。

ついつい話し過ぎてしまったよ。

君達の話を聞かせてもらうはずが、

こんなことになって、

本当に申し訳ない」


理事長はただ謝り、

スクッと椅子から立つと、

慣れたようにスーツを正す。


「いえ、こちらこそ、

理事長のお話は大変興味深かったです。

また機会があれば、

その時は是非お話の

続きを聞かせて下さい」


夏八と夜六も立ち上がり、

丁寧に頭を下げた。

荷物を持ち、出口に向かう。

しかし、二人の前に理事長は出る。


「今日からは君達は生徒だけど、

今のこの時間だけは僕のお客様だ。

職員室まで、僕が案内しよう」


そう言って理事長は

二人よりも先に部屋を出て、

二人を手招きする。

部屋に入る時と同様にして、

夜六が先に出る。

その後、夏八も出る。

理事長がドアを閉めて、

行こうかと言ってから二人の前を歩く。

入ってきた玄関を通り過ぎて、

少し先の右手にある階段を上る。

1階ではあまり聞こえなかった声が

徐々に聞こえ始め、

2階の廊下に出ると、

一気に騒がしさが増してくる。


「あっ、理事長!

おはようございます!」


「おはよう」


「おはようございます!理事長!」


「おはよう」


廊下にいた生徒も先生も、

理事長を見るなり

元気な挨拶をする。

理事長もそれに笑顔で応え、

時折生徒達には手を振っている。

この様子を見る限り、

理事長は生徒先生男女問わず

かなり信頼されているようだ。


「吉原先生はおられますか?

転校生を連れて来たのですが」


理事長が近くにいたおじさん先生に

軽く声をかけると、

おじさん先生は少しお待ち下さい、と

言ってから職員室に入っていく。

それから本当に少しだけ待つと、

職員室からおじさん先生と

若い男の人がやってきた。


「理事長、30分になったら

私の方から行くと言ったじゃないですか」


スポーツウェアに身を包み、

身長は低いが

よく鍛えられた筋肉質なその男は、

わざとらしいため息をして、

理事長に愚痴を零す。

首から下げている名札には、

吉原よしはら広志ひろし』とある。


「いやーどうにも待ち切れなくてね」


二人の年齢は同じくらいで、

この親しげな雰囲気。

学生時代からの友達とか、

幼なじみとかそんなところか。

どちらにしても、付き合いの長さを感じる。


「それじゃあ、吉原先生。

この子達を頼みます」


吉原に押し付けるように

理事長は夜六達の背中を押し、

吉原の肩をポンっと叩く。

それから、周囲に笑顔を振り撒きながら

階段の方に消えていった。


「水都夏八です。

よろしくお願い致します」


「霧峰夜六です」


「私は君達の担任の吉原です。

うちのクラスは少々騒がしいですが、

良い子達なので

仲良くしてやって下さい」


夜六と夏八が挨拶すると、

吉原は丁寧な言葉で

二人を歓迎してくれた。

先程の理事長への態度とは違い、

ここだけ切り取れば

とても良い先生のように見える。


「そろそろチャイムが鳴るので、

教室に行きましょうか」


生徒名簿を肩に担ぎ、

吉原は二人の前を歩き出す。

吉原についていくように

二人も揃って歩き出し、

他の生徒や先生の視線を集めながら

教室へと向かっていった。

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