第2話 スマホの向こう
二月の小春日和のある土曜日、私はいつものカフェのテラス席で趣味の小説の執筆に
午前の空気は冴えてはいるが、風は無く、葉を落とした
私は入力用の携帯端末の横に置いたコーヒーのマグカップを取り上げて口にした。蜂蜜入りのコーヒーは私の脳に糖分と想像力を供給してくれる。その甘さとほろ苦さを堪能しては、ヒロインと彼氏が交わす恋心のやりとりを妄想する。私は頭に浮かんだ会話の入力に集中していて、いつのまにか近くのテーブルで二人の客が話し始めたのに気が付いていなかった。
「遠くに離れたからと言って、それでお別れというわけじゃないでしょ」
端末に打ち込もうとしていたのと同じような台詞が耳に入り、私は驚いて頭を上げた。それは、十歳ぐらいの少女に、母親と思しい女性が諭そうとしたものだった。
「そんなこと言っても、会えなくなったら終わりじゃん!」
少女が鋭く言葉を返した。幼く薄い唇がとがっている。
首が振られるたびに揺れ動く長い髪は、うさぎの折れ耳のように高い位置で二つ結びにされて垂れ下がっている。可愛いキャラクターが胸に大きくプリントされたトレーナー。その上に羽織った大きめの赤いスタジアムジャンパーの肩が力無く落ちている。
「スマホ、貸して」
少女は母親がテーブルの上に置いていたスマホを取り上げると、何か操作して退屈そうに眺めはじめた。流行りの動画でも見ているのだろうか、忙しない音楽が洩れ聞こえてくる。母親は少し困ったように薄い笑みを浮かべて娘のその様子を見ながら、宥めるように言った。
「でもクラスのみんなも、『また会おうね』って言ってくれたんでしょ」
「口先だけだよ。昨日のクラス会も『お別れ会』だったし」
「そんなことばっかり言って」
「別にいいもん」
少女はキュロットスカートの裾から伸びるレギンスの脚を椅子からぶら下げ、交互にふらふらと振りながら言う。母親はため息交じりに応じた。
「お父さんは、『お母さんと
「ううん。やだ。お父さんとお母さん、みんな一緒がいい。お父さんだけひとりぼっちなんて、可哀そうだし」
「そうよね。でも、ごめんね。急に引っ越すことになっちゃって」
「いいよ、もう。仕方ないし」
『
「友達なんか、新しく作ればいいもん。転校先でいくらでも作れるし」
「本当にそれでいいの?
「あの二人は別だし。お手紙くれるって言ってたし」
「あの二人だけ?」
「……」
「他にもいるんでしょ? 忘れられたくないお友達が」
「……」
結衣ちゃんは黙り込んでしまった。
動画は面白くなかったのか、スマホをテーブルの上に置くとココアのカップを取り、両手で包み持ってちびちびと
娘のその様子を母親が困り顔で見守っていると、テーブルから軽快なメロディーが流れ出した。
「ちょっとごめんね」
母親は結衣ちゃんにそう言い、スマホを取り上げてタップすると耳に当てた。
「もしもし? ……はい、そうです。……ええ、大丈夫です。……あら、まあ。……そう。実はうちもなんです。……そう、拗ねてしまって。はい? ええ、今、ここにいます。わかりました、少しお待ち下さいね」
母親はスマホをタップしてミュートすると、結衣ちゃんの肩をつついた。
「結衣、柏木君のお母さんなんだけど。柏木君が結衣とどうしてもお話ししたいことがあるんだって。どうする?」
「出る! お母さん、貸して!」
結衣ちゃんは大きな声で返事をすると、飛びつくようにして母親の手からスマホを奪い取った。だが、すぐには出ようとせず、胸を上下させて深呼吸している。冬だというのに少し日焼けした頬が、赤みを帯びている。
その娘の様子を見て、母親は思わず口元に浮かんだ微笑みを手で隠しながら娘に告げた。
「お母さん、車の中で食べる用にサンドイッチを買ってくるから待っててね。その間は柏木君とお話ししていていいから」
「うん」
「きちんとお話しするのよ」
「わかったから、早く行ってよ」
「はいはい」
母親は優しい笑顔のままで立ち上がった。扉を押そうとして私に気付くと軽く会釈を寄越してから店内に消えた。その意味は、娘をそっとしておいて、自由に話をさせてやって欲しいということだろう。私はそう了解して顔を逸らし、端末に目を落とした。だが、結衣ちゃんがスマホに向かって話し出した声は、母親との会話より一段高く、大きい。夢中で喋る言葉の一つ一つが嫌でも耳に入って来る。
「
『…………』
「ううん。ちょっとびっくりしちゃったけど」
『……?』
「うん。お母さんも買い物してるから。平気よ」
『……』
「お話ししたいことって、何?」
『…………』
「うん、ごめんね。家の都合で急な転校になっちゃって」
『…………』
「そうだね。わたし、女子とばっかり喋ってたから」
『………………』
「うん。でも仕方ないよ。わたしの都合だから。みんなで楽しんでね。言いたいことってそれ?」
『…………』
「……」
颯太君の言葉が途切れたらしく、結衣ちゃんが無言になった。私はつい顔を上げてしまった。だが、結衣ちゃんの顔が一段と赤くなりスマホを持つ手に力が入るのが目に入り、また急いで視線を端末の画面に戻した。幸い、結衣ちゃんはこちらの様子に気付かず、スマホの向こうの颯太君との会話を続けた。
「あの、お別れ会で、最後のわたしの挨拶で言葉が詰まっちゃった時、颯太君が大きな声で『頑張れ』って励ましてくれたこと、ありがとう」
『……………………』
「ううん、そんなことない。嬉しかった」
『……?』
「うん。とっても」
『……』
「でも、あのあと、
『…………』
「うん、わたしも。何言われても平気だから」
『……』
「えっ! 何?」
「……」
「声、小さくてよく聞こえなかったの。もう一回、言ってくれる? お願い。お願いだから」
『……………………』
「……」
結衣ちゃんが無言になり、つい目をやってしまうと、柔らかそうな頬が見る見るうちに真っ赤になった。スマホを握る手も、唇も細かく震えている。目は大きく見開かれ、丸い瞳が輝いている。
『……?』
「あっ、うん、聞こえてる。嬉しい。すごく。でも、あの、えっと、わたしのどこが好き? わたしなんか、お転婆だし、美桜ちゃんみたいに可愛くないし。陽菜ちゃんみたいに勉強もできないし」
結衣ちゃんの声が自信無さげに小さくなる。しかし颯太君の返事は大きく力強かった。
『そんなことない!』
きっぱりと打ち消す言葉がスマホから漏れ出し、こちらにまで聞こえてきた。結衣ちゃんの眼が潤み始める。私は慌ててまた顔を下げて横目で様子を窺った。そんな不躾な大人に気付かず、少女と少年は大切な、とても大切な通話を続けている。
『……………………』
「ありがとう。そんな風に言ってもらえたの、初めてだから。本当に」
『…………?』
「ううん、大丈夫だから。電波が少し悪くなったんだと思う」
『……?』
「うん、平気。ちょっと待ってくれる?」
結衣ちゃんはスマホを胸に押し付け、急いで涙を何度も袖で拭い、
「ごめん、お話し、続けて」
『…………………………』
「嬉しい。もしかしたら、そうかなって思ってたの」
『……?』
「体育のドッジボールの時、颯太君、わたしに当てないようにしてくれていたでしょ?」
『……』
「陽菜ちゃんがわたしにそう言ってきて。『前から思ってたけど、颯太君、結衣ちゃんには優しい球を投げるよね』って。わたしも、もしかしたら、って思ってたの。でも『颯太君、女子には優しいから』って言ったんだけど、美桜ちゃんも、『でも
『…………』
「ふふ。あの二人、ドッジボール強いもんね。でも、陽菜ちゃん、『颯太君、結衣ちゃんには特別にそっと投げてるよ。絶対よ』って。そうだったの?」
『……』
「やっぱり。それで、もしかしたら、わたしの事、嫌いじゃないのかな、もしも、えっと、もしも好きでいてくれたら嬉しいなって思ってたの」
『……』
「うん、あの、えっと、わたしも……」
『……』
「恥ずかしいけど、わたしも正直に言っちゃうね。わたしも、颯太君の事、いいなって思ってたの」
『……?』
「うん。だから転校したくなくて。お別れ会の後、颯太君が『頑張れ』って言ってくれた後、わたし、教室出てから泣いちゃった。すごく嬉しくて、でも、これでお別れだと思ったら、とっても悲しくて」
『……』
「うん。わたしも」
『…………』
「うん、絶対ね。あのね、わたし、お勉強を頑張って成績が良くなったら、中学生に上がった時に自分用のスマホを買ってくれるってお母さんが約束してくれたの」
『…………』
「颯太君も? わたし、お勉強頑張るから」
『…………』
「うん、うん、そうしたら、番号とかMINEとか、教えてね。それまで、頑張って我慢する」
『…………』
「嬉しい。わたしもお返事書くから。頑張って。あ、でもわたし、字、下手だから。笑わないでね」
『………………』
「うん、そうだったね。書初めの『初日の出』、難しかったものね」
『……………………』
「憶えてくれていたんだ。野田君、酷いよね。『日の出じゃなくて日ボツ』とか『恥の掻き初め』とか。わたし、本当に腹が立っちゃって」
『…………』
「颯太君も、顔、真っ赤だった。二人して怒ったから、後から陽菜ちゃん達に揶揄われちゃった。『仲良しだね』って。ふふ」
会話が弾んだ後に、結衣ちゃんが笑い声になった。顔も笑みでいっぱいになっている。
その時、扉の内側でタイミングを見計らっていたのだろう、結衣ちゃんの母親が包みを持って店から出て来て結衣ちゃんに「結衣、そろそろいいかしら」と声を掛けた。
結衣ちゃんは残念そうな顔をしたが、「うん」と短く返事をするとスマホの向こうの颯太君に別れを告げた。
「ごめんね、お母さん来ちゃったから。じゃあ、お手紙、約束だよ。絶対ね。うん、絶対。じゃあ、きっと。またね」
通話終了の赤い丸を名残惜しそうにタップした後、結衣ちゃんは「ほぅっ」と息を深く吐き出し、左手でスマホを持ち、もう片手で小さな胸を押えながら肩を大きく上下させていた。
その様子を見た母親が「結衣、大丈夫? 目が赤いわよ」と心配すると、がばっと顔を上げて捲し立てた。
「お母さん、あの約束! 憶えてるよね? わたし、転校したら、一生懸命勉強する。中学校でも。だから、あの約束、スマホを買ってくれるって約束、絶対だよ!」
「あらまあ。ええ、いいわよ。その代わり、本当にしっかりお勉強するのよ。スマホを買ったらお勉強はそれでおしまいでMINEばっかりじゃあだめよ」
「わかってるわ。大丈夫。だから、指切りして! 絶対だから」
「はいはい」
「早く、早く」
結衣ちゃんは母親のスマホを左手に持ったまま右手を母親に突き出し、小指を絡め合った。顔はまだ赤いままだ。ひときわ大きな声で宣言する。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーます。指切った!」
力一杯に手を振り切ると、満足そうにコクコクと頷きを繰り返した。
母親はその様子を微笑んで見守る。「じゃあ、そろそろ行きましょうか」と促すと、結衣ちゃんは大きく頷いた。
「うん、早くお父さんの所へ行こう。お父さんにも、絶対約束してもらうんだから。あ、それから、途中で文房具屋さんにも! 綺麗な便箋と封筒を買いたいの」
「あら、昨日、買ってあげたばかりじゃないの。あれは?」
「あれは、陽菜ちゃんと美桜ちゃん用の可愛いのなの。そうじゃなくて、もっと大人っぽい、綺麗なのが欲しいの。自分のお小遣いで買うから、いいでしょ?」
「あらまあ。ええ、いいわよ」
「じゃ、行こう!」
結衣ちゃんはマグのココアを一気に飲み干した。勢い良く立ち上がるとまた「早く早く」と母親を促し、ツインテールの髪が元気に弾む。「あらあら」と笑ってトレイを持った母親の背に赤いままの顔を隠すようにして、テラスから店内へと入った。母親がトレイを店員に渡し、そして二人がカフェから去って見えなくなるまでの間、少女はスマホを母親に返さず、両手で握り締め、胸にしっかりと抱えたままだった。私にはその姿が、祭壇の前に額ずいて神に祈りを捧げる聖なる乙女のように見えた。
私も祈らずにはいられなかった。
人の心は移ろいやすい。子供であればなおのことだろう。それは仕方がないことだ。それでも、結衣ちゃんの颯太君との小さな恋が長く続くように、もしもいつの日か別れることがあっても、胸躍らせ心熱くしてスマホ越しに交わした言葉の一つ一つが、二人にとって幼い日の大切な思い出となるようにと祈らずにはいられなかった。
そして、情報技術がさらに進んで、互いを想い合う者達がどんなに遠くに離れ離れになっても、心を近づけあう助けになって欲しいと思った。今より、もっと。
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