恋愛切片
花時雨
第1話 メダルの女神
10月初めの土曜日、私は行きつけのカフェにいた。店の横に設置されているテラス席には他に誰もいない。少し風があるせいかもしれない。太陽は雲に隠れており、空気には冷涼感がある。
いつも注文する蜂蜜入りのコーヒーを一口だけ飲んで、端末でニュースをチェックする。世間はノーベル賞の噂で
ブラウザを閉じてエディタを開き、いつものように趣味の小説の創作を始めようとした時に、テラスと店内との間のガラス扉が音を立てた。何の気なしに見ると、車椅子に乗った艶やかな銀髪の婦人がこちらに出てこようとしている。車椅子の後ろにいるのは、婦人と同じくらいの高齢の白髪交じりの男性だ。男性は片手で車椅子を押しながらもう片手で扉を開けようと苦心している。私は急いで立ち上がり、扉を開いた。
婦人は銀縁の丸眼鏡を光らせながら「有難うございます」とはっきりした声でこちらににこやかに礼を言う。男性はこちらを見ることなく、車椅子を扉にぶつけないように慎重に押して外に出て来た。
婦人は
私が席に戻ると、男性は首を振って左右を見た。テラス席にいるのは私一人だが、それほど席数が多くはない。奥のベンチは車椅子では使いにくそうだ。
男性が考えているうちに、婦人が私に声を掛けてきた。
「お隣、よろしいですか?」
私が使っている席の手前のテーブルは扉にも近い。
「はい、もちろんです」
私が答えると、婦人が連れ合いを振り返った。
「じゃあ、ここにしましょうよ」
「ああ」
男性は私に向かって素っ気なく頭を下げてから私の席の隣側の椅子を除け、車椅子をテーブルに付けた。そして婦人のロングスカートの上に掛けられていた
「ありがとう」
「私の言った通りだろう。まだ10月だと言っても、風に当たると良くない。体を冷やさないようにしなさい」
男性は婦人に大声で応じた。ぶっきらぼうな口ぶりだったが、介助の手付きはそれに似合わぬ細やかで丁寧なものだった。
「飲み物を買ってくる。何が良い?」
男性が少しずれた野球帽を直しながら尋ねると、女性は「そうねえ」と言いながら小首を傾げた。
「カフェラテがいいわ。お砂糖を一つだけ。それから、小腹が空かない?」
「私はそうでもない」
「でも、運転していると疲れるでしょ。甘いものをお腹に入れた方が良いわよ」
婦人はそう言ってから私に尋ねてきた。
「ごめんなさい、このお店で美味しいものってありますか?」
「そうですね、ドーナツが手造りで美味しいですよ」
私が答えると、婦人はまた男性を振り返る。
「じゃあ、それを半分ずつにしましょうよ」
「わかった」
提案に男性が短く答えて店内に消えると、婦人は私に向かって礼を言った。
「有難う。お邪魔をしてごめんなさいね」
「いえ、お気になさらないでください。御夫婦ですか?」
「ええ、もう何十年も連れ添った、骨董品ですけど。愛嬌の無い人でごめんなさいね」
「いえいえ。奥様にはとても優しい御主人ですね」
「そうなの。あれでもう少し人当たりが良ければ申し分ないんですけどね」
婦人はそう言ってくすりと笑った。本当はそうは思っていない笑い方だ。
「お二人でお出かけですか?」
私は二人に少し興味が出て尋ねてみることにした。物書きの悪癖みたいなものだ。幸い、婦人はこちらの詮索を気にする様子は無く、愛想よく答えてくれた。
「ええ、自動車で旅の途中なの」
「御旅行でしたか」
「ええ、温泉巡りを。私がこんな体なもので、電車ではどうしても動きづらいので」
「失礼ですが、足がお悪いのですか?」
「ええ、歩けなくはないんだけど。ここがね」
婦人はそう言って右肢の付け根を押えた。
「以前に道の段差につまづいて転んで、太腿の付け根を骨折しちゃったの。手術をして歩けるようにはなったんだけど、それ以来、長く歩けなくなっちゃって」
「そうでしたか。それはお気の毒に」
「お医者様は少しでも運動するように言うんだけど、億劫でねえ。そうしたらあの人が、『車椅子でもいいからとにかく外に出よう、僕が押すから』って」
「じゃあ、今回の御旅行も、御主人が?」
「ええ。『僕が元気で安全に運転できるうちに、旅行しよう』って言い出して。『温泉なら、君の足にも良いはずだ、手配は僕がするから』って」
「良い御主人なんですね」
「ふふふ」
婦人が嬉しそうに笑った時、ガラス扉が開いて男性が戻って来た。婦人が私に目配せしてから笑顔を自分に向けるのを見ると、こちらをぎろりと見てから、「どうせ私の悪口を言っていたんだろう」と不服そうに言う。
「ええ、いろいろと」
楽しそうに婦人が応えると、「まあ、いつものことだな」と言ってトレイをテーブルの上に置き、婦人と向かい合って座った。トレイからカフェラテのマグを婦人の前に、自分の前には紅茶のカップを置く。ドーナツは紙ナプキンに包んでソーサーから取り上げると二つに割り、大きい方を戻してフォークを添えて婦人のマグの横に置いた。自分自身はもう半分を手に持ったまま、無造作に食べだした。
「甘いな」
呟くように、しかしそれにしては大きな声で婦人に向かって言う。
「だが、悪くない。お前も食べなさい」
「はいはい。ありがとうね。いただきます」
婦人は手を合わせてからフォークを取り、ドーナツを小さく切って口に運んだ。
「本当だわ。あっさりした甘さで、美味しいわね」
「うむ」
「やっぱり、日本のものは上品よね」
「そうだな」
「教えて下さって有難う」
婦人は私に感謝の言葉を述べた。私が「いえ」と返すと、マグを手に取って飲みながら、男性と話を始めた。
「ニューヨークで食べたドーナツは甘過ぎて、閉口したわね」
「またその話か」
「いいじゃないの。ねえ、聞いて下さる?」
婦人は男性が気乗りのしない様子を見せても構わずに、私に尋ねた。
「よしなさい、御迷惑だろう」
男性が窘めたが、乗り掛かった舟である。
「ええ、ぜひお聞かせください」
私が答えると、婦人は嬉しそうに思い出話を始めた。男性は苦笑いしながらも、もうそれ以上は止めなかった。
「もう二十年ぐらい前かしら。私達の子供が独立した後に、この人と二人で、ニューヨークに行ったの。私は初めてのアメリカで、とても興奮したわ」
「奥様は、ですか?」
「ええ。この人、実は、若い時にニューヨークの大学の研究所に留学経験があるのよ」
「そうなんですか」
「ほんのちょっとの間だけどな」
男性が口を挟んで肩を竦める。
「半年はいたんだから、そんなに短くもないでしょ。話の邪魔をしないでよ」
婦人は反論し、男性が口をへの字に歪めて黙ると満足そうに話を続けた。
「その時にお世話になった教授へのお礼の御挨拶も兼ねて、二人で観光旅行に行ったの。自由の女神には登れなかったけれど、ブロードウェイでミュージカルを見たり、MOMAに通ったり、楽しかったわ。それで、セントラルパークを散歩した後、近くのカフェでお茶をしてドーナツを一つずつ頼んだんだけど、それがもう、私の顔ぐらい大きくて」
「そんなにですか」
「ええ、こんなに」
婦人は自分の顔の前で両手で輪を作って見せる。指と指を合わせず、婦人の小さな顔がすっぽり入るぐらいの大きさだ。
「大げさだな。そこまでじゃあなかったろう」
男性が口を挟んだが、婦人はきっぱりと否定した。
「いいえ、このぐらいだったわ。その上にお砂糖たっぷりで、それはもう甘くて。私は半分も食べられなかったの」
「確かにあれは甘くて閉口した。油もきつかった」
「この人が私の残りの分も全部食べてくれたんだけど、それはもう、四苦八苦だったわね」
「苦しんだのは主に私だがな。もう普通には食べきれなくて、最後は紅茶を二杯もおかわりして無理やり流し込んだな」
「周囲のお客さんがクスクス笑っていて、ちょっと恥ずかしかったけど、今となっては楽しい思い出ね」
「私にとっては苦しい思い出だ。その日は胸焼けして、もう夜まで何も食べる気がしなかった」
男性が色褪せた野球帽を取って頭を掻いた。
「あの、ひょっとして、お二人のそのお帽子は、その時の記念のものですか?」
私が尋ねてみると、二人は照れ臭そうに互いを見た後に、婦人が答えた。
「ええ。実はね、私の名前のイニシャルがこのチームのマークと同じなの。この人が、良い思い出になるからと言って私に買ってくれようとして。それだったらお揃いにしましょうよって、この人の分も買ったの」
「それで、ずっと被っていらっしゃるんですか?」
「ええ、二人で出かける時にはね」
「素敵ですね」
「でもね、これを被ったまま、この人がお世話になった教授のところへ御挨拶に行ったら、叱られちゃって」
「どうしてですか?」
「教授、ニューヨークのもう一チームの熱烈なファンだったの」
婦人がそう言ってくすくすと笑うと、男性が「うーむ」と情無さそうに唸り声をあげてから答える。
「あの時は、そのことを忘れていたんだ」
婦人はくすくす笑いのまま話を続けた。
「おうちに伺った時、玄関に出ていらして私達を見るなり、『サブウェイシリーズの真っ最中にその帽子を被ってくるとはいい度胸だ』って」
「まあ」
「もちろん、笑いながらの冗談よ。その日はホームパーティを開いて下さったんだけど、野球の話で、随分、盛り上がったの」
「当時は、どっちのチームも日本人選手が活躍していましたものね。こちらでも、随分話題になりましたよね」
「そうしたら教授がこの人に、『お前もメジャーに移籍したらどうだ』って、おっしゃって。私が『ぜひ、そうなさいよ。私が交渉代理人になったげる』って言ったら、教授の奥様が『手数料はたっぷりとね』って。それでみんなで大笑いしたの」
「そうだったか?」
「ええ。そうよ。楽しかったから、はっきり憶えているわ」
婦人が自信たっぷりに言うと、男性は首をひねりながら紅茶のカップを手にして、黙り込んでしまった。婦人の方は対照的にとても楽しそうだ。
私は尋ねてみた。
「あの、御留学されたのはまだ御結婚される前なのですか?」
「いや」
「実は私達、学生の時からの付き合いなの。大学の同じサークルで、付き合い始めたのはこの人が二年生、私が四年生の時だったかしら。それから交際して、私が卒業して就職したしばらく後に結婚したの。その時はまだこの人は大学院生だったわね。この人は私に養われるのは嫌だって言ったんだけど、私が『結婚してくれないなら別れる』って無理を言ったの」
「違う、プロポーズしたのは私だ」
男性が不服そうにそう口を挟んだが、婦人は認めない。
「あら、私がそう仕向けたからでしょ? その当時は、『親が心配している』とか『見合いしろと迫られている』とか言って男性にプレッシャーを掛ける手が、まだ通じたのよ。今だと、信じられないでしょ」
「違うと言っているだろう。私の方から結婚してくれと頼んだんだ」
男性が重ねて反論した。そこにはこだわりがあるようだ。だが婦人は意に介さなかった。
「まあ、どっちでもいいじゃない。それで私のお給料とこの人の奨学金とで生活していたんだけど、この人が学位を取った後に、アメリカの有名な教授のところにポストドクトラルフェローとして留学するチャンスが来たの。私は仕事を辞めて一緒に行くって言ったんだけど、この人が、『僕のために君のキャリアを断絶させてほしくない』って言って留学を諦めようとしたの」
「御主人、奥様のことを大事にされていたんですね」
私が感心して言うと、男性は顔を赤らめて声に力を込めた。
「普通の男なら誰だって、そうするでしょうが。男の都合で女性が犠牲になるべきじゃない」
「ふふふ。でも、そうしたら、逆にこの人が私のために自分を犠牲にすることになるでしょ? 私もそれが嫌だったから、『絶対に行って。ね、お願い』って可愛くお願いしたの」
そう言って婦人は口の前で両手を組み、愛らし気に小首を傾げて見せた。すると、男性は呆れ声になった。
「嘘を吐け。私の両襟をつかみ上げて、『なんでこんなチャンスを無駄にするの! 行かないなら、離婚するから!』って脅したんじゃないか」
「あら、そうだったかしら? 齢のせいか、良く覚えてないわね」
婦人は白々しくとぼけて見せて「うふふ」と笑った。
こちらもつられてつい「ふふ」と笑ってしまう。
「それで、結局この人一人で行くことになったの。何年間か離れて暮らすだけだからって」
「でも、随分と遠距離の単身赴任でしたね」
「そうね。今と違って、電子メールとか普及して無かったし、国際電話もまだ高くておいそれとはできなかったし。この人、筆不精で、エアメールも殆ど返事してくれなかったしね」
「それは、お前が、『返事は要らない、研究に集中しろ』って書いて来たからじゃないか」
「そうは書いても、気の利いた男の人なら、女性の気持ちを察するわよ」
「身勝手なことを」
二人の言い合いに、私としては口を出さずに曖昧に微笑むしかない。その困った様子に気が付いたのか、婦人が男性を無視してこちらへの語りを再開した。
「とにかく、この人、研究に集中して、物凄く頑張って、すぐに良い成果を出せそうになったの。遺伝子を狙い通りに変異させる研究だったかしら?」
「……ああ、そのようなものだ」
婦人は男性の方を向き、その頷きを確認すると満足そうに話を続けた。
「その当時は最先端で、うまくいけばそれこそノーベル賞ものだったのよ」
「それはすごいですね。それで、どうなったんですか?」
「それがね、この人、自分でだめにしちゃったの。私のために」
「奥様のために? どういうことですか」
「その話はいいだろう」
男性が慌てて身を乗り出してきた。だが、婦人は話を止めようとしなかった。
「実はね、私、その時、妊娠していたの」
「まあ」
「この人が留学する時はまだそうと気付いていなくて。行っちゃってから、わかったの。知らせようかとも思ったんだけど、そうしたらこの人、心配してすぐに帰ってきちゃうかもしれないでしょ? だから、そのことは黙っていたの。でも、半年ぐらいして、切迫流産になっちゃって」
「え、大変じゃないですか」
「ええ、でも、何とか大丈夫だったから、この人には知らせないでおこうと思ったの。でも、私の父親が、『こんな時に絶対安静の妻を一人で放ったらかしにしておくとはどういうことだ』って怒り狂って、この人を国際電話で怒鳴りつけちゃったの。そうしたら、この人、やりかけの実験を放り出して帰国してきちゃって」
「それは誰でもそうするだろう。自分の妻と子供が一大事と知ってしまったら、実験なんかしていられない。そうでしょう?」
男性が私に同意を求める。私が「ええ、そうですね」と頷くと、「ほらみろ、そういうものだ。私は当然のことをしただけだ」と嘯いた。『当然のこと』にしては、胸を張って得意そうだが。婦人は取り合わずに「はいはい」と返事した後に私に話し続けた。
「でも、まあ、嬉しかったわね。やっぱり不安だったし、心細かったから。私、帰って来たこの人の顔を見た途端に大泣きしちゃったの」
「わかる気がします」
「それで、容体が落ち着いた後も、子供が生まれた後も、この人、もうアメリカに戻らずに日本で就職しちゃって。向こうの教授にも、留学先を紹介してくれた日本の先生にも随分と御迷惑を掛けちゃったわね」
「教授は、『そういう事情だったら当然だ』って理解してくれた。お前が気にする必要は無い」
男性はぶすっとした顔でそう言うと、急に立ち上がった。
「用を足してくる。齢を取ると近くなっていかん」
荒っぽくそう言い捨てて、すたすたと店内に消えた。
「あらまあ。都合が悪くなると、すぐ年齢を出しにしてトイレに行くのよ」
「照れ隠しですね」
「見え見えなのにね。それこそ、良い齢なのにね」
婦人は楽しそうにそう言い、「ふふふ」と笑ったその後に、しかし急に真剣な顔つきになった。
「実はね、そのパーティーの後に教授が、『これは真面目な話だが、今からでも、もう一度こちらに来て研究をする気は無いか? 君にならリサーチフェローの席を準備できる、何年か頑張って成果を出せば、終身職に移れる可能性もある』って言ってくださったの。あの人は『もう、研究を離れて長いから無理だ』ってお断りしちゃったんだけど。でも、それも、私がアメリカでは就職するのが難しかったからだと思うの」
婦人は溜息を吐いてから続けた。
「私は本当はね、あの人に研究で成功してほしかったの。あの人は研究が大好きで一所懸命だったし。自分の研究を私に話すときは目をキラキラさせて、本当に嬉しそうで。私、あの人のそこに魅かれたのよ。だから、あの人がアメリカから戻って来た時は嬉しかったけど、とても残念でもあったの。私の体が問題なければ、ちゃんと研究が出来ていれば、ひょっとしたらノーベル賞も貰えたかもしれないのに。私のせいであの人の人生を駄目にしたんじゃないかって、今でも、つい思っちゃうのよ。あの人が燕尾服を着て、胸を張って金メダルを授与されるところを、世界中の人に見てもらえたかもしれないのに。私のせいで」
婦人の声が震え出し、私は急いで慰めの言葉を探した。
「ですが、御主人は奥様の側にいられることを、とても幸せに思っておられるように見えます」
「そうだと良いのだけれど。私には過ぎた人なの。私なんかにはもったいなくて」
「御主人も同じように思っておられると思います。見るからに奥様を大切にしておられます」
「ええ、有難くって。私も、あの人が大切で。あと何年、一緒にいられるか」
婦人の声の震えは止まらず、目が光り、急いでハンカチを取り出すと、眼頭を押えた。私は掛ける声を失い、見守ることしかできなかった。
暫くして、婦人は気を取り直して微笑みを取り戻した。
「齢を取ると、涙もろくなっていけないのよね。ごめんなさいね、詰まらない惚気話をした上に、困らせちゃって」
「いえ、恋話は女子の大好物ですから。お話のニューヨークのドーナツのように、甘さたっぷりの大きなスイーツ、御馳走様です」
「まあ。どういたしまして」
「うふふ」と二人で笑い合っていると、男性が扉を開けて戻って来た。
私達の様子を見ると、椅子に戻りながらまた素っ気なく言った。
「なんだ、また私の悪口か?」
「あら、聞こえちゃった?」
婦人が笑いながら応える。男性は面白くなさそうに顔を歪めた。
「いえ、御主人の自慢話をお聞かせいただいていました。とても良いお話でした」
私はそう口を挟んでみた。だが、男性は意に介さなかった。
「良いも悪いも、こいつの言葉を真に受けんでください。ほら吹きなんだから。では、そろそろ行くか。あまり長く休むと、動くのが億劫になるからな」
男性はそう言い、テーブルの上のものをトレイに乗せると店内に片付けに行った。
婦人は私に向かって申し訳なさそうに言った。
「本当に無愛想な人でごめんなさいね。それに色々騒がしくてお邪魔しちゃって」
「いえ、こちらこそ、お二人の邪魔をしたみたいで」
「いいえ、楽しかったわ。あなたは、お連れ様は?」
「いえ」
私が短く答えると、婦人は何かを察したのだろう、「そう」と言ったきり、それ以上何も尋ねてこなかった。
やがて戻ってきた男性が「いいかな?」と婦人に声を掛け、車椅子をテーブルから離す。私は立って扉を開いた。
「お元気で。良い御旅行を」
そう言うと二人は揃ってこちらに頭を下げた。
「あなたもお元気で。さようなら」
婦人のその言葉を残して、二人は静かに去った。
テラス席から駐車場を覗いていると、二人が現れ、男性が婦人の手を支えて車椅子から立たせ、車の助手席に座らせるのが見えた。労る手付きは相変わらず優しい。座席に着いた婦人に男性が膝掛けを掛けると、婦人が笑顔で男性の首に手を回して抱き寄せた。互いに互いの顔を近づけ、何かを囁きながら頬と頬を触れ合わせようとする。見てはいけない。そう思ったが、私は動けなかった。
しばらくして、車は動き始めた。その音を聞きながら私は思った。
ノーベル化学賞のメダルには、自然の女神ナツーラと科学の女神スキエンチアが刻まれているそうだ。男性はこの二柱の女神からは自ら遠ざかってしまったのかもしれない。
だが、男性の首に両腕を回した婦人の姿は、まるで彼にメダルを授けようとするように見えた。男性は愛の女神アフロディテの祝福は間違いなく勝ち得たのだ。それは彼にとっては、得られなかった栄光を補って余りある、掛け替えの無い大切な宝物なのだろう。私は、愛する人に自分の人生を捧げた男性への賞賛の場に立ち合いたかったのだ。観衆が私ただ一人であっても、万雷の拍手を送りたかったのだ。
二人が乗った車が静かに走り去り見えなくなった後も、私は二人の道中の無事と良い旅行を、そして平穏で楽しい暮らしが、一年でも、一日でも、より長く続くようにと祈り続けた。
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