ダブル・ルーム

雪待ハル

ダブル・ルーム




気が付いたら、ここにいた。


「・・・え?」


おかしいな、僕はこれからピアノのお稽古に行こうとしていたはずなのに。

どうして浜辺に立っているんだろう?

ここ、何処の海?

ざざあん、ざざあんと藍色の波が次から次へと打ち寄せる。

それが自分の白いシューズを濡らす直前に慌てて後ずさった。

お母さんがこの間買ってくれた大事な靴だ、こんな事で汚せない。

しばらく周りを見渡していたが、すぐ僕は楽譜を入れたリュックサックを背負ったまま海に背を向けて歩き出した。とりあえず、ここを離れよう。

周りはただ、暗い。空にはチェシャ猫の口みたいな三日月が浮かんでいる。

階段を上って道路に出れば、街灯がぽつぽつと闇を照らしている。

だが、辺りを見渡しても、いつもの見慣れた街並みの光景はなかった。

どうやら本当に迷子になってしまったみたいだ、僕。

でも、いつの間に、見知った街からこんな知らない場所まで来たんだろう?

夢でも見ているのか?と頬をつねってみたら、痛かった。夢じゃない。


「お母さん・・・」


帰りたい。切実にそう思った。

きっと、いきなり僕が消えてしまって、心配している。

早く、帰らないと。

・・・でも、


(何処へ行けばいいんだろう?)


暗闇は怖くない。

一人きりなのも怖くない。

けれど、帰れないのは、すごく怖いよ。

その場で立ち尽くしてしまって、うつむいた。

すると、不思議なことが起きた。

うつむいた先、街灯に照らされたコンクリートの道路の上に、突然白い文字が浮かび上がったのだ。



“おめでとう!

君が二人目の選ばれし者だ。

ここは『部屋』。

見事ドッペルゲンガーと出会うことなく出口へたどり着けたなら、君は元いた場所へ帰ることができるだろう。

出口はここからも見える、あの高い塔だ“



「・・『部屋』?ここが・・?」


突然文字が浮かび上がったことに慄きながらも、僕は割と冷静にその言葉の意味を読み取ることができた。

何故冷静でいられるかって?それは、さっきまでの帰り道の手がかりがゼロだった時の方がずっと怖いことだったからだ。

それに比べたら、今更不思議なことが一つ二つ増えたところで、どうってことない。

だって、


「―――あの、高い塔に行けばいいのね?」


帰り道が分かったのだから。

僕は遠く、住宅や店が立ち並ぶ街のずっと向こう側にある、一目でそれと分かる、白く高い塔を見すえた。

けれど、白い文字はまだ続きの文言を浮かべる。一瞬文字が輝きを放ち、それに気付いた僕は塔から視線を文字へ移した。



“ただし、ドッペルゲンガーと出会ってしまったら、君は死ぬことになるだろう。くれぐれも気を付けて進みたまえ”



僕はその文字から目を離せなかった。

最後まで読み終えたのに、また最初から読み返す。何度も。何度も。


「し・・・ぬ・・?」


僕が?信じられなくて顔が知らず歪む。

死んでしまったら、家に帰れない。

帰れなかったら、お母さんに会えない。

お母さんに会えないのは、


(すごく、怖いよ)


足に力が入らなくなって、その場にぺたんと座り込んでしまった。

すると、また白い文字が新しく文字列を作る。



“ほら、ほら、そんな所で座り込んでいると、ドッペルゲンガーに見つかってしまうよ!”



「ひっ・・!」


僕はそれを読んで、無理矢理足に力を入れて何とか立ち上がる。

足がふらふらする。頭がくらくらする。

知らず、目から透明な涙がこぼれた。

それをぬぐうことなく、僕は無我夢中で駆け出した。塔の方角へ向かう長い坂道を、ただただ上へ上へと。

履いている白いシューズで地を蹴れば、たちまち体が前へ進んでゆく。

かけっこは得意だ。

鬼ごっこも。

けれど、かくれんぼはちょっと苦手。

そんな僕が、その“どっぺるげんがー”とやらから隠れながら出口を目指すことができるのだろうか?

分からない。

分からない分からない分からない。

何も。何一つ。

どうしてこんな場所に連れてこられたのかも、どうしてこんな恐ろしいゲームを強いられているのかも。

分からないまま、頭がごちゃごちゃのまま、ただ駆ける。

そうすることが、自分に今できるただ一つのことだと信じて。
















一体どれだけの時間を走り続けただろう。

坂道を上りきり、そこからは商店街らしき光景が広がっていた。

ただし、人はいない。

がらんとした店内に見向きもせずに、僕はひたすらに走り続ける。

スタミナには自信がある。まだ走れる。

ただ塔へ、塔へ、塔へ。

一刻も早く!!

その時、


「・・・!」


僕は曲がり角の向こうに人の気配を感じて、とっさに真横の八百屋に飛び込んだ。

真っ赤なりんごがたくさん入った箱が並んだ台の影に隠れて息をひそめる。

こつ、こつ。

僕知ってる、これは大人の男のひとの足音だ。

お母さんと一緒に電車に乗るとよく見る、大きな革靴。きちんと磨かれて光が反射してた。

その、靴音。

音は曲がり角を曲がってこちらへ歩いて来る。

こつ、こつ。

ゆったりと、落ち着いた音だ。

その音が、

こつ・・・。

止まった。

僕が隠れている八百屋の前で。


「・・・そこにいるのは、誰だ?」


想像した通りの大人の男のひとの声が、僕に問いかけた。

心臓が口から飛び出しそうで、両手で口を覆う。

ばくばく、ばくばく。

心音が激しく鳴る。この音が聞こえてないかしら。


(―――あれが)


あのひとが、どっぺるげんがー?

だとしたら、あのひとと“出会って”しまったら、僕は死ぬ―――!!


(いやだ)


死ぬのは、いやだ。


「・・・・」


男のひとの声が沈黙した。

そうと思いきや、

こつ、こつ、こつん。

きれいな靴音を立てながら、こちらへ近付いて来たではないか。


「こっ・・来ないで!!」


僕は悲鳴のように叫んで、四つん這いで物陰から物陰へと急いで逃げようとした。


「む」


男のひとの声がそう言ったかと思うと、バナナが山盛りにされている台の横で立ち止まる。


「その声・・・子どもか?」


「・・・」


僕はしまったと思い、さあっと青ざめた。

こちらが大人に対して無力な子どもだと知らせてどうするのか。ああ、僕のバカっ!!

しかし、男のひとは続けてこう言った。


「安心しろ。わたしはドッペルゲンガーだが、“君の”ドッペルゲンガーではない。だから、わたしたちが出会っても、何も起こらない。君は死なない」


「・・え?」


今、このひと、何て?

自分はどっぺるげんがーだけど、僕のどっぺるげんがーじゃないから、大丈夫・・・?どういうこと?

僕の頭の中が疑問符でいっぱいになっていると、両手をついた店内の床にあの白い文字が浮かび上がった。



“その通り!君は知らなかったようだが、ドッペルゲンガーとは『自分と瓜二つのもう一人の自分』という意味の怪物の名だ。つまり、”



「・・つまり、僕は僕と瓜二つのもう一人の僕と出会ってはいけない、ってこと?」


文字に向かってそう問いかけると、



“その通り!!”



白い文字は勢いよく文字列をはしらせた。

・・・この文字の主、楽しんでないか?と眉をひそめたが、何故か文字の主の言うことは正しいのだという確信があった。

本当に何故だろう。こんなに怪しいのに。

自分をいぶかしみながら、納得がいった僕はその場でゆっくりと立ち上がった。

そうして見えたのはサラリーマンみたいに黒いスーツをびしっと着た大人の男のひとがこちらを静かな眼差しで見つめている姿だった。


「・・君か。二番目のプレイヤーは」


「にばんめ?」


深い声で、落ち着いた声音。

聴いていて心地いい話し方をするひとだなあと思いながら、僕は首を傾げて聞き返した。

すると、男のひとは答えてくれた。


「天使に聞いてないか?君は二人目に選ばれた者だと」


「てんし?」


予想外の言葉が次々出てきて、僕は疑問を浮かべることしかできない。

何だか自分がバカみたいで、恥ずかしくなってきた。

だが、男のひとはそんな僕をバカにはしなかった。


「地面に白い文字を浮かべている奴のことだ。そいつが君達をこの『部屋』へ招いた」


「ああ・・あれ天使だったんですか・・・」


悪魔じゃなくて?と言いそうになって、慌てて口をつぐんだ。あぶないあぶない。

きっとあいつは、こうして僕らが会話してるのも全部聞いてる。

機嫌を損ねて永遠にここから出られなくされたら困る。

気を取り直して、目の前の男のひとと対峙する。


「それじゃあ、僕以外にもここへ連れてこられた人がいるってことですか?」


「ああ。全部で7人いる。―――この、わたしの『本物』もその中の一人だ」


「『本物』・・・」


僕と男のひととの間にピリッとした空気が流れた。

そう。

このひとは言った。自分はどっぺるげんがー、本物のこのひとと瓜二つの怪物だと。

つまり、人間じゃない。普通じゃない。

そうと頭で理解しながらも、僕は不思議とこのひとのことが怖くなかった。


「・・あなたは『本物』のそのひとのどっぺるげんがーだと言ってましたね。どっぺるげんがーは怪物だと、天使は言いました。どうして、僕に親切に色々説明してくれるんですか?」


怖くない―――が、でも、聞くべきことは聞いておかなければならない。


「・・・」


男のひとは、姿勢よく立ったまま僕を見つめている。

その眼差しには優しさがある気がした。


「・・怪物、か。確かにそうだ。わたしは人間じゃない。―――けれど」


「けれど?」


「わたしは、わたしも、間違いなく渡辺武志なんだ。これまで渡辺武志が生きてきた記憶も、ある。だから、わたしはわたしがそうするべきだと思ったことをしているに過ぎない」


「・・・」


僕は、呆気にとられた。

彼は、どっぺるげんがー、怪物なのに、それでも『本物』の渡辺さんと同じ渡辺さんでもあるのだと言う。

それは、まるで、


「怪物じゃなくて、ごく普通の人間と同じってこと、ですか?」


「怪物だよ。でも、ごく普通の人間でもあるってことさ」


僕の質問に対して一切の躊躇いもなく「怪物だよ」と即答した彼に、僕は少しだけひるんだ。

でも、やっぱり、このひとのことを僕は怖いとは感じないんだ。


「あなた・・・渡辺さんがそうするべきだと思ったことって、何ですか?」


勇気を出して、聞いてみる。


「子どもは守られるべきものだ。だから、わたしは君に危害を加えない。ということさ」


「じゃあ、渡辺さんは誰に危害を加えるんですか?」


「『本物』のわたし自身に」


返答は淀みない。いっそ清廉なほど。

僕はゴクリとつばを飲み込んだ。


「・・・・『本物』の渡辺さんとあなたが出会ったら・・・」


「『本物』のわたしは、死ぬ」


「・・・そうしたら、あなたは?」


あなたは、どうするの?

僕の問いかける声が、やけに幼く響く。


「わたしが、元の世界に帰って、渡辺武志として生きる」


その場に静寂が満ちた。

今なら、針が落ちる音さえ、はっきりと聞こえるだろう。

僕は今渡辺さんが言った言葉を頭の中で反芻していた。

どっぺるげんがーは、『本物』のそのひとと瓜二つの存在。

そして渡辺さんが言うには、『本物』のそのひとが今まで生きてきた記憶もあるのだという。

・・・そして、僕が今、向き合っているこのひとは、とても真摯で、怪物なんかにはとても見えない。

ならば、このひとが『本物』の渡辺さんと入れ代わっても、たぶん、周りの人たちはそのことに気付かないんじゃないかしら。

そう、何も問題はない。元の世界の人たちからしたら。

でも。だけど。


「―――『本物』のあなたは、とても悲しいだろうね」


突然こんな所へ連れてこられて。

こんな理不尽なゲームに無理矢理参加させられて。

それで、死んでしまっても、元の世界の大切な人たちは何も気付かない。誰も気付かない。

『本物』の渡辺さんがいなくなったことを。

それは――――とても悲しくて辛いことだと、僕は思う。

どっぺるげんがー・・・ドッペルゲンガーの渡辺さんは逆に僕へ問う。


「ならばどうする。わたしを倒してわたしが『本物』と入れ代わるのを止めるか?」


「それは、子どもの僕には無理でしょうね」


気負うことなく、僕はさらりと返す。

うん。『本物』の渡辺さんには申し訳ないけれど・・・僕にそれだけの力はない。

僕にできるのは、


「この足で駆けて、あの塔へたどり着くこと。無事に、生きてお母さんの元へ帰ること。僕がするべきなのはそれだけ」


というか、それしかできない。

僕がもっと歳を取った大人だったなら、何か他に選択肢があったのだろうけれど。

この世界のどこかにいる『本物』の渡辺さん、ごめんね。


「あなたは、僕に危害を加えない。それなら僕も、あなたに危害を加えることはありません。このまま別れるだけです」


「なるほど・・」


渡辺さんは一つ頷くと、


「分かった。君がもしわたしの存在を受け入れてくれたなら、わたしは君と共に行き、いざという時は君を守ろうと思っていたのだが・・・それは、しなくてもいいんだね?」


と最後の問いかけをした。

僕は迷わなかった。


「はい。僕は一人で行きます」


そうして、僕らは八百屋の前でお別れをしたのだった。






















それから、僕は塔へ向かう道のりで色んな人やドッペルゲンガーと出会った。(もちろん、相手が自分のドッペルゲンガーではないと確認した上でだ。)




「本当に一緒に行かなくて大丈夫?心配だな・・」


「てめえら人間がのさばる世界に行って、目にもの見せてやるよ!怪物でも生きていけるってな!!」


「儂は、生きたい。この命で生まれたからには」


「何で、こんなことに・・・ッ!!いやっ、いやよ!!私は死にたくない!!」


「私は絶対にあいつと入れ代わる。―――ねえ、協力してくれないボウヤ?」


「ドッペルゲンガーが俺の代わりに母さんに殴られてくれるなら・・・俺、ここで死んでもいいかな」




・・・本当に、色んな人がいた。

彼らと話していて分かったことがある。それは、プレイヤーによって出口が異なる場所に定められているらしいということだ。

つまり、あの白い塔を目指しているのは僕一人ということだ。

だから、出会った人の中には渡辺さんのように僕と一緒に来ようとしてくれた人もいたが、そしてその人はきっと『本物』の人間だと分かっていたが、断った。

それぞれ命を懸けて出口を真っ先に目指さなければならないのに、僕のせいで遠回りをさせて、その上そのせいでその人が自分のドッペルゲンガーに出会ってしまったりしたら、後悔してもしきれない。

僕は子どもだ。だけど、それに甘えて他の人の命を危険にはさらせない。さらしたくない。

それくらいの矜持は持っているつもりだ。

・・・どうか。

何を願えばいいのか分からないけれど、どうか、みんな・・・。





















駆けて、駆けて、駆けて。

ついに、白い塔の入口付近までたどり着いた。

そして予想通り、入口の前には幼い少年の影が見えた。

僕は手前の建物の影に隠れて様子をうかがう。


(・・やっぱり、ドッペルゲンガーの僕も、僕の出口が何処かは知ってるんだな・・・)


そうだよな。

あれは僕自身だ。

僕があいつでもそうする。

出口の前で待ち伏せるのが、いちばん確実だって。


(・・・さてと)


この場合、圧倒的に不利なのは僕だ。

あいつと顔さえ合わせれば、僕は死ぬんだから。

普通に考えて無理ゲーじゃないこれ?


(でも、僕はこのゲームに勝たなくちゃ)


勝てなきゃお母さんに会えない。

だから、絶対に勝つのだ。

その為には――――













目覚めたら、ここにいた。

天使は言った、お前は怪物だと。

自身と瓜二つの『本物』に会いに行け、そうすればお前は晴れて人間界へ行けると。

そうすれば―――お母さんに会えると。


(お母さんに会いたい)


思うのはその一つだけ。

その為になら、僕はもう一人の僕を殺せる。

『本物』の僕が目指す出口、この塔の入口で待っていれば、必ず僕はここに来る。

向かい合って、目と目を合わせれば、すぐに――――


「・・え?」


突如、その場をつんざくような電子的な高音が響き渡った。


「これは・・防犯ブザーの・・・!」


僕―――杉下慧の記憶にある。

お母さんが、学校やピアノのお稽古の行き帰りに、最近は物騒だからと持たせてくれたものだ。

危険を感じた時、本体からピンを抜けば大きな音を出して周囲に異常事態を知らせてくれるもの。


「近くにいるのか・・・!!」


とっさに音が聞こえる方へ足を踏み出したが、すぐに立ち止まった。


(・・いや、この音が囮だとしたら・・・)


どっちみち『本物』が目指すのはここなのだ、ならば自分はここを動かない方がいい。

そう考え、僕は塔の入口の前で仁王立ちした。

その誘いには乗らないぞ、という意思表示である。

ブザー音はしばらく鳴り続けていたが、やがて途絶えた。

相手も囮作戦が失敗に終わったと分かったらしい。

僕はほう、と息を吐いた。あのブザー音は正直あまり聞いていたい音ではない。

その瞬間だった。

塔から少し離れた建物の影から小さな子どもの影が飛び出した。

来たか!と僕は身構えて―――目を見張った。

あいつは、『本物』は、ピアノの楽譜の本を眼前に掲げたままこちらへ駆けて来たのである。

僕は舌打ちした。


(向き合って、お互いの目と目を合わせなければ“出会った”ことにはならない!くそ・・っ!)


僕は迎え撃つように駆け出した。あいつに向かって。

あいつの持つ楽譜の本を弾き飛ばせば、僕の目を見せることができる。

だが、あいつも僕がそう来ることは承知していたようで、こちらの足音と気配だけで僕がどの位置にいるか察知して、ステップを踏んで眼前に迫った僕の横をすり抜けた。


「・・・!!」


僕を追い抜いたあいつはもう必要がなくなった目隠しの楽譜を投げ捨て、塔の入口へ向かって全力疾走を始めた。

僕は知ってる。杉下慧はかけっこが得意だ。鬼ごっこも。

『本物』と同じだけのスペックを持つ僕もそれは同じだが、走るスピードが同じ以上、スタートダッシュに差をつけられたら追いつけない。


「・・・くそっ!!」


そうと知りながらも白いシューズで地を蹴った。


(諦めきれるか!!)


あいつは塔の入口へ到達し、そこから始まる螺旋階段を昇り始めた。

数秒後に僕も後に続く。

見上げれば遠い彼方にこの『部屋』の出口である扉がある。

ああ、あいつの絶望が見えるようだ。

あんなに我が家が遠い。

それでもあいつは諦めたりはしないのだ。そういう奴だと、僕がいちばんよく知っている。

何段も何段も、果てしない階段をひたすらに昇り続ける。

この螺旋階段だけを内包した、ただそれだけの為の白い塔。

この世界の作り手である天使がそう在れと望んだのか、壁のところどころに穴が開いて、青い空が見える。

でも僕は知ってる、この空は作り物の偽物だ。

この街も、海も、何もかもすべて、天使が作り出した箱庭に過ぎない。

ただの、だだっ広い、『部屋』。

己に瓜二つの怪物から逃げられなければ出られない部屋。

ふざけてる。狂ってる。

だけど、この命として生み出されたからには、帰りたい。

あの優しい声で、お母さんに「お帰りなさい」と言ってもらえたなら。

共に生き、大人になったら、今度は僕がお母さんを支えるのだ。

そんなささやかな夢を、どうして諦めきれるだろう。


「はあっ・・・はあっ・・・!」


「はあっ・・・はあっ・・・!」


もうどれくらい昇っただろう、僕たちは既に息切れしていた。

駆け昇る速さも徐々に落ちている、けれどどちらも立ち止まったりはしない。

一歩、一歩、確実に出口への距離は縮まっている。

このままじゃ―――

僕の心が少しずつ絶望に塗りつぶされていく。

その時だった。

数段先を行っていた『本物』の体がぐらりと傾いだ。


「え――」


それはどちらの声だっただろう。

僕は信じられないような思いでそれを見ていた。

あいつは、足を滑らせたのだ。

こちらへ落ちてくる――――


「ッ!!」


とっさに両腕を伸ばし、自分と寸分違わぬ体を抱きとめようとした。

温かな血潮が流れる音がする。

あいつは、落ちていく自分を抱きとめようとする僕の目を、見た。






























あいつの体を抱きとめて、その勢いに押され、そのまま僕たちはゴロゴロと昇って来た階段を転がり落ちた。

このまま入口まで落ちていくのかと思いきや、階段がカーブを描いた場所で壁にぶつかり、そこで落下は止まった。


「いっつ・・・」


頭をしたたかに打ったが、大丈夫、まだ生きてる。

僕は。


「・・・おい」


抱きしめた相手の顔を見れば、泣いていた。

その涙も、顔も、体も、色と線が薄くなり、少しずつ透明になっていく。


「おかあ、さん・・・」


ごめんなさい――――

そう言い残して、『本物』は僕の腕の中で消えていった。


「・・・・」


勝った、のか?

僕が?

頭が真っ白になって、ものを上手く考えられない。

喜んでいいはずなのに、あれだけ勝ちたかったはずなのに、実感がわかない。

どうして。

その時、目の前の空間に赤い文字が浮かび上がった。



“おめでとう!

君はゲームに勝利した。

報酬として、この『部屋』から出て、人間界へ帰る権利をあげよう。“



「あ・・」


待って、と言う間もなかった。

次の瞬間、螺旋階段はかき消えて、僕は月明りの中、静かな住宅街に立っていた。

背中にはピアノの楽譜が入ったリュックサックを背負い、目の前にはアパートが建っている。

知っている。

ここが僕の家だ。

帰ってきたのだ。


「お母さん・・・!」


どの部屋が自分の家かも知っている。

階段を昇って、つきあたりの角の部屋。

ドアノブを回しながら扉を押せば、見慣れた玄関。


「た・・ただいま・・・っ!」


声が少しかすれた。

すると、奥からぱたぱたとせわしないスリッパの足音が聞こえてきた。


「慧!!あなた急にいなくなって、ピアノの先生に電話してもレッスンに来てないって言うし、今まで一体何処、に・・・」


慌てたような叱り声が、急にしぼんだ。

見上げれば、あれだけ会いたかったお母さんが目の前にいて、嬉しいはずなのに、胸が一気に冷たくなった気がした。

だって、いつもの優しい笑顔のお母さんじゃない。

僕を見る目には驚きと恐れが入り混じっている。

たまらなくなって、


「お母さん・・・?どうしたの?」


と恐る恐る尋ねれば、




「あなた、は、慧じゃない」




と怯えた声音で告げられた。


「!!」


僕は息を呑んだ。

嘘だ。僕はあいつと瓜二つ、記憶もある、完璧な杉下慧のはず―――!!

どうして。

うろたえている僕を怯えた瞳で見つめ、お母さんはその場によろよろと座り込んでしまった。


「嘘・・・どうして・・・ねえ、本物の慧は何処?」


そう言って彼女は大粒の涙をこぼす。

嗚呼。僕は思い知った。

人の中には、ドッペルゲンガーと本物を見分ける勘が鋭い人もいる。

それがたまたま僕のお母さんだっただけ。

そう、たったそれだけの話。

それだけの話なのに、


「お母さん、お母さん、お母さん・・・!!」


どうしてすがってしまうのだろう。

僕の、僕だけのお母さん。

ずっとずっと会いたかった。

それなのに。

彼女は僕を抱きしめてはくれない。

あの、夢見た、記憶に鮮明な、温かな笑顔も見せてはくれない。

「お帰りなさい」と言ってくれたならそれだけで、


「お母さん・・・!!」


僕は現実を受け入れられなくて、何度も何度も呼びかけた。

まるで彼方に向かって叫ぶように。

それでも彼女の涙は止められない。

僕ではその涙を止められない。

どうして。どうして。どうして。

親子であって親子ではない二人は、互いに同じことをいつまでも思い続けて、夜が明けてもその場を動けずにいた。




やっとたどり着いた愛しい我が家、そこには記憶と同じ温かなものはなく。

これならどうして僕が生き残ったのだろうと、心優しい怪物はぼろぼろ泣いた。

泣いて、泣いて、それでも涙は尽きることなく。

このまま彼のように綺麗に消えてしまえたならどんなにいいだろうと、思った。





おわり

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