闇に叫べ! 15 タイ殺人事件🇹🇭

鷹山トシキ

第1話

 7人死亡


 2013年10月31日

 亡くなった海東は「タイヤ」と言い残して死んだ。桜たちは覆面パトカーのタイヤを調べるが、細工された形跡はなかった。吹田警察署の海東は関西人だから「タイや」だと竜崎は気づいた。

「鯛に何か手がかりがあるんですか?」と、呂宋。

 

 タイの国土は、インドシナ半島中央部とマレー半島北半を占める。南はマレーシア、東はカンボジア、北はラオス、西はミャンマー(旧国名ビルマ)と国境を接する。東南側はタイランド湾に面する。マレー半島中部では西にアンダマン海及びマラッカ海峡があり、それらを挟んでインドネシアやインド領アンダマン・ニコバル諸島に向かい合う。


 2014年にプラユット将軍率いる国軍が軍事クーデターを起こし、従来の憲法(2007年憲法)と議会を廃止して実権を掌握して以降、軍事独裁政権が継続している。


🔖 野崎豊 豊川悦司似 星咲病院副院長

🔖 正岡徹平 内藤剛志似 星咲病院ドクター

🔖朝倉英吾 手塚とおる似 どんな病でも作る


 タイ人は名字を使うことは近代にはいるまでなかった。一方で名であるが、伝統的に仏教と同時にアニミズムを信仰していたタイ人は、生まれたときに動物の名前(たとえば牛など)を付けることで災厄を逃れることが出来ると考えていた。サンスクリット=パーリ語が未だ浸透していない時には純タイ語(外来語ではない単語)を使う道しかなかったため、名の多くは単音節で付けられた。

 

 大学1年生になって2週目の月曜日。メーオ『タイ語で猫』はリン『タイ語で猿』と出会う。リンは大学の授業中に子供のような理想論を発表するために周りから敬遠されていた。誰かの意見に反する意見をできるだけ口にしない事を信条としていたメーオはリンを受け入れてしまう。リンは痛く青臭く自分の理想を追求していた。そんなリンが満足するサークルはなかなか見つからない。そんな時メーオは不用意に自分でサークルを作ればと発言してしまい、リンとサークル『サット』を設立する。

『サット』はタイ語で動物って意味だ。

『サット』は目立つことが嫌だというメーオの意見を取り入れ、こっそりと納得のいくやり方で秘密結社のようなものとして設立された。前途のようにタイでは動物は神聖視されていた。

 大学4年生の時点でリンとの交流はなくなり、メーオは『サット』から脱退していた。

 猫が動物でなくなるなんて矛盾を感じたもんだ。

 2人の秘密結社のような存在として設立された『サット』だが徐々に規模が大きくなり100人の大所帯のサークルまで成長していた。ボスのリン、まさにボス猿はあまりに多いメンバーを把握できなくなっていた。


『サット』は、小さなボランティアや災害支援の活動をする程度だったが、『サット』は変わり、犯罪防止をメインにするサークルに変貌していた。メーオはあの時リンが残していたものの先に今があるのだから、結局、リンは嘘をついたなと思う。そしてリンの嘘を本当にするために今の『サット』を壊すことを決意する。『メーオ』はバイト友達の『チャーン(象)』とともに『サット』のスキャンダルを探り『サット』を潰すために『サット』に近づく。その後『サット』のスキャンダルをつかみそれをネットに流し、『サット』は大学から処分されることとなった。『サット』の部員説明会の日、サブリーダーのムー『タイ語で豚』と出会う。

「カオサンロードで若い女が急性アルコール中毒で死んだが、ラオス人の仕業だ。ラオス人をタイから閉め出さないといけない」と訴えるムーに対し、メーオは「ラオス人全てが迷惑をかけてるわけじゃない」と否定する。そして、リンに「お前と出会わない方が幸せだった」という言葉を投げつけ、その場をあとにする。その言葉はリンを強く傷つけ、説明会で秋好は突然、『サット』の解散を宣言する。そして「理想を信じてきたけれど、私は傷つけてきてしまった人のことを無視することはできません」と続ける。その時にメーオは突然強い吐気に襲われる。今までの怒りが後悔と恥に変わっていくことを感じていく。それまで自分が傷つけられたとしか感じていなかった。相手を傷つけたことなど考えていなかった。リンを記憶にあった形の決まった存在、傷つかない存在だと思っていたことに気づく。そしてリンを傷つけることなんてしたくなかったことに気づき激しく後悔した。


 ムーはその後、ラオスに向かい1人の女性の舌を抜いて殺してしまった。ブンミーという闇社会の人間の娘、ノイだ。ラオスの繁華街で友人に無理やり酒を飲ませていたのをムーは目撃した。

 カオサンで死んだ若い女はムーの妹だったのだ。

 ムーはノイの舌を抜いて粛清した。


 タイ王国で初めて警察公務を行ったのは、アユタヤ王朝トライロークナート王であるといわれている。内務大臣、宮内大臣、大蔵大臣、農務大臣の四大臣による城市の統治制度を整えた際に、内務局に警察組織を創設し、ジャクリートシーオンラックを長官に据えた。


 さらに、タンマーティボーディーシーラタナモンティエンバーンが長官になると、警察組織を首都警察、地方警察、王宮警護警察の三つに分割した。当時の警察官に選ばれる人物は、王が安心できるように良い家系の出自をもち、宗教、王室に忠誠を尽くす人物が選ばれ、国王が直轄した。警察長官の俸給となるサクディナー(賜田地)には、文官の基準が適用された。この時期、警察組織は王室の為に警護任務を遂行することに主眼があり、まだ王国全土の治安維持に拡大していくことはなかった。しかし、外国との交流が増え、国家の状況が変化していく中で、徐々に西欧諸国の様式の警察組織に変革されていくことになる。

 

 1860年から1932年までの間、西欧列強諸国がアジアに進出してきていた当時の国際政治状況の中で、タイは王国全土で西欧諸国に習った大規模な地方行政改革を行った。それに伴い警察組織も、地方の反乱を抑え、国内の治安維持を行う全国組織として急速に整備が行われた。


 1862年、イギリス人サミュエル・ジョセフ・バード・エームズがルワンラッタヤーピバーンバンチャーの官位を得、西欧諸国のような都市の治安維持を目的とした近代警察隊の創設を初めて提案した。


 1876年には、A.J.ジャーディンを顧問に迎え、首都警備以外にも警察の職務が拡大し、地方警察を警察軍に格上げした。それにより、地方の治安維持に当たりつつ、軍事行動も可能な組織に改組した。続いて、1877年にデンマーク人G・ショウの提言により、警察軍を都市警護隊局に改称した。


 1892年には、都市警護隊局に代わり、地方警察局を創設。ダムロンラーチャーヌパープ親王が大臣を務める内務省に置き、プラヤーワーステープ警察少将(G・ショウ)を地方警察局の局長に据えた。さらに首都省の下に首都警を置いた。


 1901年、地方警察の幹部を養成するため地方警察士官学校をナコーンラーチャシーマー県に設立。1904年、ナコーンパトム県フワイヂョーラケーに移転し、その後、現在のタイ王国警察士官学校となった。


 1905年、地方警察の警察官に関して、軍の「徴兵法」に基づいて、徴兵で人員を確保することが決まった。


 地方警察はさらに、イギリス人エリック・セイント・J・ローソンを顧問に迎え、警察公務の拡大・改革を行った。警察機構は当時、首都省警護局と内務省地方警察局の2つの省に分かれて運営が行われていた。


 1915年10月13日、この2つの組織を一つの局に統合し、地方警察局および警護局(กรมตำรวจภูธรและกรมพลตระเวน)として一人の局長に統轄させた。現在、この日を記念して、『警察の日』として祝われている。同年終わりには局名を地方警察・首都警察局に改称。


 1922年、内務省が首都省を吸収統合。内務省となる。


 1926年、地方警察・首都警察局は再び地方警察局と首都警察局の二局に改組。地方警察局は犯罪者の逮捕、取り締まり、事件捜査、尋問を行い、県刑事裁判所において検事に起訴を行わせた。他方、首都警察局は同様の公務を行うが、起訴は首都圏裁判所で行った。


 11月2日

 呂宋と残間、さらに鈴木ヒロミツに似た中井刑事はタイに向かうことになった。

 竜崎は吹田で手がかりを探すことにした。

バンコクは熱帯に位置し、年間を通じて最高気温は33℃前後、最低気温は20度から25度を保つ。バンコクの季節は三つに分かれる。一つ目が、6月から10月にかけて蒸し暑く雨の降る雨季である。1日に何度もスコールがある。二つ目は、11月から2月のやや涼しく過ごしやすい乾季である。とりわけ12月から2月は雨がほぼ降らず、気候も安定している。三つ目は、3月から5月にかけての雨が少なく非常に高温となる暑季である。朝から気温が上昇し、夜間も気温が下がらない。


 最高気温極値は40.0℃。最低気温極値は10.5℃。

 

 日本からは成田国際空港発着便を中心に東京、大阪、名古屋、福岡、仙台、広島などの主要都市からタイ国際航空(成田、羽田、関西、中部、福岡、新千歳、仙台)や日本航空(成田、羽田、関西、中部)、全日空(成田、羽田)、デルタ航空となどがそれぞれ1日に1便-数便運航している他、台北市や香港、澳門経由で行くこともできる。

 呂宋たちは関西空港から来た。所要時間は6時間。

「あ〜あち〜!」

 呂宋は顔が真っ赤だ。

 寺院や歴史的建造物が多数存在する他、物価も比較的安いことから、カオサン通りなどバックパッカーが集まる一帯もある。他にも、中心部にある「パッポン通り」や「ソイ・カウボーイ」などはバーやクラブが立ち並ぶなどナイトライフが活気を見せている。これらの地域はベトナム戦争当時、レスト・アンド・レクリエーション(戦時休暇)のためにバンコクを訪れたアメリカ軍兵士が多く来たことから急速に発展し、現在も世界各国の多くの観光客をひきつけている。

 3人はパッポン通りを歩いていた。

 首都バンコクの歓楽街である。

 ベトナム戦争の際に、アメリカ軍兵士がR&R (軍事)を楽しむために集まるようになり歓楽街として発展した。


 現在でも外国人観光客や外国人駐在員を主な対象とした、半裸の女性が踊っているゴーゴーバーが密集することでも名高い。夜には路面一面に衣服や装飾品を販売する屋台が並び、海外から多数の観光客が集まっている。隣接するタニヤ通りには日本人駐在員が多く利用する邦人向け高級クラブが立ち並び、ほとんどの店で日本語がある程度は通じる。


 場所は、バンコク・スカイトレインのサーラーデーン駅及びバンコク・メトロのシーロム駅からすぐ。パッポン通りは、実際には平行して通る2本の通りである。

 ノイを殺したのはタイ人らしい。死んだ海東が迷刑事でなければいいが。

 3人はバンコク・スカイトレインに乗ることにした。高架鉄道システムのことである。

 1970年代、西ドイツの助力を得て交通調査が実施され、1976年の最終報告書において都市鉄道整備案が提示された。後に開通した地下鉄(MRTブルーライン)、高架鉄道(現在のシーロム線など)はこの整備案の影響がみられるが、実態は複雑である。


 1972年にタイ政府が設立したETA(高速道路・大量輸送手段公団)管轄による整備が1979年に決定したが財政事情により直ちに着手することはできず、路線変更など紆余曲折の末に1990年、カナダの建設会社であるラヴァリン社の提案が採用された。これはバンクーバー・スカイトレインで導入された同国のUTDC社開発のICTS方式を導入し建設する予定だったためラヴァリン・スカイトレイン、スカイトレイン計画とも呼ばれた。


 ラヴァリン社に対し1992年2月に免許が交付されたが、同年5月に発生した政変の余波を受け同年6月に失効、計画自体も白紙となった。


 本計画では3路線が予定されていたが、予算制限により最終的にプラカノーン線、サートーン線の2路線に絞られた。ただし、高架鉄道として完成した現在のスクムウィット線、シーロム線とは経路が異なる点に留意が必要である。


 路線は、鉄輪式のスクムウィット(スクムヴィット)線とシーロム線、ゴムタイヤ式のゴールドラインとに分かれる。スクムウィット線とシーロム線とはサイアム駅(CEN)にて相互に乗り換えが可能である。


 車両基地は、鉄輪式ではスクムウィット線のケーハ駅より1 kmほど先の線路末端部から分岐した南側、モーチット駅の東側、クーコット駅の南東側の、計3か所に設けられている。シーロム線内には車両基地がないためサイアム駅に連絡線が設けられており、シーロム線の車両の入出庫はこの連絡線を介して行われている。なお、通常のダイヤでは両線が互いに乗り入れることはないが、輸送障害が発生した際には突発的にこの連絡線を介して乗り入れることがある。

 3人はスクムウィット線に乗ることにした。

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