浦島太郎

 ある日、浦島太郎という青年は子供たちが亀を虐めている現場に居合わせた。見かねた浦島は亀を助けて海へ逃がすと、後日、助けてくれたお礼にと竜宮城に案内された──



 とんでもないことになってしまった。そもそも竜宮城へ帰る亀を見送っていた時からどこか違和感があったが、今ここで、それがようやくはっきりした。


 顔をおおっていた手を下ろす。見れば、そこには何もなかった。んだ。雑草がぼうぼうと茂るばかりで。長らく空けていたとはいえ自分の家。道を間違えるはずはない。


 ……元よりあばら家だった。立派に拵える余裕もなかった。だが──


「たった、三年だぞ」


 それに住人は俺だけではない。最近腰を痛めた母と、酒好きが祟って日に日に弱っていった父も暮らしていたのだ。二人はいったい……。


「誰だよお前、見ない顔だな」


 背中から声がかかる。うるさいな、今はそれどころじゃ、いや──逡巡して、振り向いた。。気のせいかと思った。何かの間違いではないかとも思った。


 果たしてそこには、


「鶴太、なのか……?」


「はあ? お前、どうして俺がガキの頃の名前を知ってるんだ?」

「鶴太!」

「だから違う!」


 再開の抱擁でも交わそうと駆け寄ったが、腕を振り払われたので叶わない。鶴太──俺が竜宮城へ行く以前、よく面倒を見ていた近所の少年だった。生意気なところがあったが年相応なもので、それはそれで可愛げが──


「──いや、いや……」


 何をボケているんだ。

 俺の知る限り、彼は確か七歳だった。

 見ない間に大きくなったな、どころではない。その顔立ちと声に微かな面影こそ残っているものの、彼はもう立派な大人、それも、もう十年もすれば初老と呼んで良いほどに老け込んでいた──



 竜宮城にていたく歓迎を受けた浦島だったが、望郷の念は日に日に募るばかり。飲めど歌えど父母の顔が思い浮かぶ日を幾日いくにちか過ごすと、浦島は地上に戻る決心をした。



 鶴太(今は良太と名乗っているらしい)と別れた俺は、初めに亀と出会った浜辺を訪れていた。

 ……状況はよく理解しているつもりだ。改めて見れば村の雰囲気が少し違う。通りを歩く面々にも見知った顔は一人もいなかった。

 竜宮城は現世うつしよと隔絶した空間。ここと同じ時が流れている道理はない。鶴太にそれとなく訊ねてみたが──どうやら俺は、あそこで四、五十年も過ごしていたらしい。

 全くもって、三年どころではなかった。


『近所の村から追い出されでもしたのか? 何でもいいが、とにかくどっか行けよ。余所者に配る余裕なんざ俺たちにゃないんだ』


 今更ながら、去り際に放った鶴太の言葉が氷の刃のように深々と胸を貫くようだった。しかし無理もない。昔から税の徴収は年を追うごとに苛烈の一途を極めていた。『身内』を守るためなら、それが最も賢明だ……。


 ああ、クソ。こんなことになるなら、いっそのこと親父に山盛りの酒でもあおらせてやればよかった。ガキの頃、医者が諦めるほど風邪をこじらせた俺を必死に看病してくれたお袋への孝行も、まだ一欠片も済んではいなかった。


 頭を抱え本気で思い悩もうと、関係なしに腹は鳴る。今日の飯はどうしよう、寝床だって決まっていない。これからどうしていけばいいんだ。こんなことになると分かっていれば、ここに上がることなんてなかったんだ。亀でも乙姫でも何でも、それくらい言ってくれよ。無愛想な連中め、くそ、くそ、くそ──


 知らぬ間に秘めていた銭でも落ちてこないかと意味もなく懐を漁っていると、握りこぶしほどの黒い箱が足元に落ちる。


 ……。

 あるいは、これに賭けるしか……。



 長い永い時を経て変わってしまった村の様子に困り果てた浦島は、竜宮城を後にした際の一幕を思い出す。あの時彼は、「決してこの箱を開けてはいけない」という言葉と共に、乙姫から玉手箱なる小箱をもらっていたのだ。



 あの時は故郷へ帰りたいが一心で話半分に聞いていたが、よくよく思い返せば、開けてはいけない箱を渡すのは少し奇妙な話だ。中にマズイものでも入っているなら、そんなもの、海底のどこかで捨て置くべきではなかったのか? そもそも乙姫は、俺に心から恩義を感じていたと思しき女性だ。俺が不利益をこうむるようなことをしでかす訳がない──


 そんな風に考えてみたところで、開けていけない箱を強いて開けようとする理由にはならなかった。しかしこの際、どうでもいい。やっと逢えると思った両親は既に亡く、可愛がっていた近所の子どもからも拒絶された今、この瞬間より状況が悪くなりえるはずがない。


「どうとでもなれ……!」


 二、三度深呼吸を繰り返し、心中で乙姫に詫びを入れる。そうして覚悟を決めた俺は、いよいよふたに手をかけた。



 玉手箱の中に入っていたのは、「人間の寿命」だった。白い煙がもくもくと浦島を包み込み、それが晴れた頃には、二十四、五の青年はしわだらけの老人へと成り果ててしまった。



「────────」


 ……どこだろう、ここは。

 眩しい、夕日だ。水面が橙色にきらきらと光っている。しかし眩しい。少し前まで暗室で何年も過ごしていたような感覚に陥りそうだ。


 暗室……海底……。

 はて、何だったか。何か──海とは不思議な縁があったような気がする。


 そうだ、竜宮城──


「浦島!」


 そこまで連想できたところで、背後から声がかかった。直近で似たような体験をした気がする。が、少し違うような気もしている。

 見れば、こちらに駆け寄ってくる老人が。


「亀丸──なのか?」


 その姿には心当たりがあった。──この浦島が、無二の親友を忘れるはずがない。

 たとえ彼が何十年、歳を重ねていようとも。


「ああ、そうとも……!」


 亀丸は破顔した。くしゃっとした笑顔は今もなお健在だった。「五十二年……探したんだぞ、浦島。神隠しに遭ったもんだと、ずっと……今までどこにいたんだ?」


 亀丸の問いにはすぐ答えようとしたが、ぱくぱくとなるだけで言葉らしい言葉は何も発せなかった。「いや、いいや、今はそんなことどうでもいいか……おうい皆! 浦島が帰ってきたぞ!」と、年不相応に俊敏な身のこなしでどこかへ駆けていってしまった。


 ……何だったのだろう。さっきおれは、何か答えようとしていたはず……頭を抱えようと手を上げて、はっと気付く。

 皺だらけの手のひらを見て。


「……おれも、もう歳か」

 

 暗室、海底。どこか暗く、それでいて賑やかで、やたら飯と酒が美味い場所で、水に浮かぶように漂っていた──そんな気がする。曖昧だ。こんな感覚も、いつの間にか忘れてしまうだろう。

 仕方のないことだ。


「浦島、今から飯にしよう! 良太も、ウメも、忠助も! お前の帰りを喜ぶ連中がたくさんいるんだ──宴でもどうだ!」


 遠くから、亀丸の呼ぶ声がした。


「ああ──今、行くよ」


 飯と酒が美味い場所、か。

 それも、目の前のこれには及ぶまい。

 海の底で炊いた飯が、地上の飯より温かいはずないのだから。



 玉手箱を開けた浦島はまもなくして衰弱した。まともに歩くことさえ困難になった彼だが、しかし多くの村人たちに支えられ、穏やかな六年を過ごした後に天寿を全うした。


 笑顔でこそなかったものの、その口元は微笑んだように小さくつり上がっており、静かで、それでいて優しげな、灯火のような死に顔だったと、亀丸は後にそう語ったという。


 この瞬間より状況が悪くなりえるはずがない、という浦島の憶測はこれ以上なく見事に的中していた。

 彼は確かに、大往生を果たしたのだった。

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三文小説 @Ren0751

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