第2話 アイナ

啓史とアイナはその場で凍り付いたように動けないでいた。10秒ほど、何も言えずに立ちすくんでいた。

啓史は目の前に映っている世界一美しい2次元の「嫁」を見つめていた。

今や3次元の世界は彼女によって輝きを手にした。この世界が甚だ素晴らしいものに思える。

彼女のこの上ない美貌と、一生涯を賭けた愛が現実のものとなったというある種の達成感により、彼の頭の中は真っ白になっていた。

(何だこれは。こんなことが現実に起こり得るってのか?それともこれは夢か?こんな鮮明なものが、夢だってのか?)

啓史の顔は、今まで感じたことのないほどの幸福と驚嘆の色で満ち満ちていた。

〽神様 ありがとう 運命のいたずらでも めぐり逢えたことが しあわせなの

啓史は大好きな曲、『恋愛サーキュレーション』の歌詞の一節をふと思い出していた。彼の今の心情を映したかのような歌詞が思い浮かんでくる。実はこれは目の前にアイナがいるんだということを信じさせて、後からその御目出度さに天罰を下すという神様の甘い罠ではなかろうか?

しばらくした後、啓史は冷静さを少し取り戻し、やっとの思いで言葉を絞り出した。

「アイ……ナ」

「――え?」

最初にアイナから聞こえてきたのは、甘く短い声で発されたそんな感嘆詞だった。啓史は彼女が彼の「嫁」と同じ声だったことに心底喜んだ。

「勇者様……何故私の名を?」

アイナの質問は、啓史を現実に引き戻した。

啓史は目の前の女の子の真実に気づいてしまい、呆然とした。啓史は今まで幾度となく「嫁」であるアイナとゲームの中で会話を重ねてきた。ゲームではもうアイナは彼の恋人になっているはずだ。しかし、アイナは「何故私の名前を知っているのか」という質問を彼に投げかけた。そうして、目の前にいる女の子は彼の「嫁」ではないということをはっきりと悟ってしまった。いくら名前が同じでも、可愛い顔や甘い声が同じでも、この二人の女性は別人なのだと悟ってしまったのだ。

(彼女は俺のアイナじゃない。あのゲームのアイナが俺の名前を知らないなんて、そんなことあるわけがないだろう。

――彼女は、俺のアイナじゃない)

「勇者様、そんな浮かない顔をされて、どうかなさいましたか?」

真実に気づいてしまった後、啓史は束の間の失望に苛まれた。しかし、啓史はいつまでも落ち込んでいるような男ではない。彼は、こんなもの本当は夢なのだとただ信じ込むことにした。

(アイナが目の前に現れるなんて、あり得るわけがないだろ。俺は何を考えてたんだ)

そうして啓史は、夢なのであれば何をしてもよいとも考えた。後先のことは考えず無理やり彼女の唇を奪っても構わないだろうとも思ったが、彼女を怖がらせるかもしれないと思い自制した。

「あはは、何でもないよ」

啓史はぎこちなく笑って見せた。同時に、ただの夢にもかかわらず何故こんなにもぎこちなく振舞っているのかと違和感も覚えた。

しかしながら、依然として啓史はまだ彼のその考えが全くの見当外れであるということに気づいてはいなかった。

本当は、すべて現実に起こっていることである。決して、夢などではない。

そして、アイナも現実である。

「う~ん……」

アイナは少し首を傾げ、可愛らしい仕草で指を口に当てた。何故啓史が自分の名前を知っていたのか考えを巡らせていた。

「もしかすると、あなたの夢にお邪魔したときにぽろと言ってしまったのかもしれませんね」

アイナは頭をゆらゆらと揺らしながら、啓史にいつどうやって名前を伝えたか思い出そうと奮闘していた。

「まあそんなことはどうでもいいのです!勇者様、私はアイナと申します!」

アイナは啓史にはつらつとした声で挨拶した。啓史はその声を聞いて少し和んだ。目の前にいる女の子がアイナではないにしても、その性格や声、可愛らしさは大事な記憶の中のアイナと同じだ。そう思い直し、彼はもう一度神様にこのような夢を見せてくれたことを感謝した。

「彼女は……アイナだ!」――啓史は、ある種の決意のように自分に言い聞かせた。

また、啓史はあることに気づいた。今話している女の子は……実は夢の中で自分に語りかけていた白い翼の女の子ではないか?啓史はかかっていた靄が晴れたような気がした。

「アイナ、君は夢で俺に助けを求めていたあの女の子……なのか?」

啓史はさっきよりも強く決意を固めていた。この女の子は彼の「嫁」ではないが、アイナであることに変わりはない。そして彼はアイナを愛している。アイナを助けるためなら必要なことは何でもやる。今や迷いなくそう思っていた。

「その通りです、勇者様。実はお願いがございます。お名前も知らず、また、初めてお会いするにもかかわらずお願いを申し上げるのは無礼だとは存じ上げておりますが……」

アイナはきまりが悪そうに、指を少しもじもじさせている。啓史にはその動きがあまりに愛おしく思え、今にも抱きしめたい気持ちに駆られたが、やはり彼女を怖がらせるのは避けたかったため今回も何とか自制した。

「その……今更で恐縮ですが……、お名前は何とおっしゃいますか?」

啓史は落ちついて微笑み、間髪入れずに答えた。もうすでに決意は固まっていた。

「俺は宮村啓史。君を助けるためなら何でもするよ。たとえ命がけでもね!」

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