深淵

赤井朝顔

第1話

「深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」と言ったのはニーチェだっただろうか。ニーチェはドイツ人だったから、深淵は日本人がそう訳しただけだけれど、ニーチェは深淵に何を見ていたのだろう。深い淵と書いて深淵。淵は川の深いところを表しているらしいが、彼は川を見ていたのだろうか。その水面にはやはり、鏡写しになった顔がこちらをのぞいていたのだろうか。

 あの女もやはり深淵だった。いや、あの女の身体、肉体、肢体が深淵だったというべきか。底が見えないほど深く、全てを飲み込むほど暗く、また吐息すら許さぬほど静寂だった。しかし彼女の深淵は決して自然物などではなく、人為的なものだった。きっと私のような人々がいなければあの深淵は生まれてこなかっただろう。まぎれもなく私たちが生みだし、育み、取り返しがつかないくらい、その淵は掘られ続けたのだろう。

 これは私が実際に体験したことで、経験したことで、のぞいてしまったことでもある。深淵はきっとそこかしこにあって、誰もが目にしているけれど誰もがそれに気づかない。これは深淵に気づいてしまった愚かな私の話でとても現実的な話ではない。それでもよければお付き合いいただきたい。


  *


 祖母が死んだ。

 久々に母から送られてきた連絡であったことと、もう長い間、祖母に会っていなかったことを思い出し、二つの意味で驚いた。仕事のため上京していた私に、そんな知らせが届いたため、急いで田舎へ帰ることになった。私は途中まで進めていた仕事を同僚に任せ、その日の内に駅へと向かった。同僚はこの機会に休んでくるよう言ってくれたが、正直実家にはあまり帰りたくはなかった。有能な兄にしか興味がない親戚たちは凡庸な次男である私には見向きもしなかった。祖母だけは私を可愛がってくれていたので、葬式にでることに決めたのである。

 列車に乗りこむと、最初の内は座ることができない程、車内は混雑していたが、故郷に近づくにつれて人は少しずつ減っていった。車両も同様に少なくなっていき、気づけば二両編成の列車に乗っていた。勤め先の近所ではほとんど見ることがない手動ドアの列車である。四人掛けの窓側の席に私は座り、ひとり外を眺めた。窓の外は建物よりも畑や田んぼの方が多くなり、山もチラチラと見えるようになっていた。東京ではほとんど見ることがない麦わら帽子を被り、腰の曲げた人々が田んぼで何か作業をしている。この時期はおそらく米の収穫時期なのだろうと察せられた。子どもの頃には何度も見ていた光景のはずで、自分から手伝いを申し出ていたはずなのに、作業風景を見ても、映画のワンシーンのように凄まじい速度で後ろに流れていく。小学生の時、遠足で訪れた山が見えたころ、車内には私一人しかいなくなり、とうとう私がかつて暮らしていた場所に近づいていることが分かった。


 ある駅に着いた時、一人の女が乗ってきた。私は窓越しにチラリと眺めたが、着物を着ているようで少し不思議に思った。喪服の類ではないようなので私とは目的地が違うであろうとなんとなく思った。アナウンスが流れ、列車が動き出し、駅から離れていくと私はまた窓の外を見始めた。同じような風景が続き、うとうとと眠くなってきたとき、いつの間にか女が私のすぐそばに立っていた。

「ご一緒してもよろしいでしょうか」

 女がそんなことをいきなり聞いてきたので、私は困惑しながらも「どうぞ」と女を席へ促してしまった。女はゆっくりとした動作で私の対面の席に座った。美しい所作だった。動いている列車の中なのに、とても上品に足を動かしている。女の格好も相まって、幼い頃に武道館で見た何かの演武を思い出した。私はすこし嬉しくなっていた。他にも席はたくさん空いているはずなのに、わざわざ私の前に座ってきたのだから。勝手に何か期待してしまう。

 そして、女は美しかった。

 その肌は雲のように白く、誰かが触れれば、たちまち黒く濁ってしまいそうである。艶のある黒髪が首元で揺れ、ほんの少しだけ見えたうなじには、産毛が光を反射していて、なんだか艶めかしい。薄い紺色を基調とした着物も女の落ち着いた声のためのようで、ミステリアスな雰囲気を醸し出していた。一つ気になったのは手袋をしていたことだ。それほど寒くはないはずだが、洒落た革の手袋を両手にはめていた。

 女は席に座り、手袋をはめた手を上品に組み、窓の外を見ていた。女が何処を見ているのかは分からなかったが、私は女を盗み見ながら、できるだけ平静を保っているようにして、外の景色を眺めた。

 どれくらい、そうしていただろうか。私は自分から女に話しかけることもせず、二人そろって黙ったまま、外を眺めているという不思議な時間が流れた。もちろん私は何度も世間話くらいはしようと思ったのだが、始めの一言がどうしても出てこない。横目でこっそり見ても、女は相変わらず外ばかり見ている。

 するとその時、奇妙な感覚に襲われた。いや、襲われたというより気づいたというべきだろうか。私は全身にねっとりとした不快感を覚えた。生温かい泥水の中に浸っているようで、重苦しくて、ドロドロしたものが体にまとわりついているような気持ち悪さである。背中にじわりと嫌な汗をかき、極小の針が体の内側から飛び出すような感覚に襲われ、体温が上昇するのを感じた。

 私はなんだか怖くなって、自分の体を見てみたが変わったところは何もない。列車も変わらない速度で走り続けている。

車内を見渡してみたが、乗っているのは私と女の二人だけで、特に変わった様子はなかった。

「どうされましたか」

 女は私の様子に気づき、声をかけてきた。声をかけるために女がこちらに顔を向けてきたとき、私は初めて女の目を正面からしっかりと見ることができた。女の目は黒かった。それはもう、目を合わせ続けていれば吸い込まれてしまうのではないかと疑うほどに、黒かった。その黒さゆえに、顔は私に向けているけれど、その目はどこを見ているのか分からなかった。私のはるか後方を見ているようでいて、それとも私の前の空間を凝視しているようでもあり、とにかく不思議な瞳だった。表情は喜怒哀楽どれともとれず、何に対しても興味がなさそうだった。自動ドアが人を感知して開くように、私が動いたから話しかけてきたようで、感情ではなく反応で動いているように感じた。

 おどおどしながら私は「なんだか落ち着かなくて」と少し恥ずかしくなりながら答えた。正面に座っている人間がいきなり周りをキョロキョロと見始めたのなら、不審に思うのは当然のこと。列車は正常に動いているし、周りに誰もいないことなどは、わかっているのだから。しかし、女の反応は私の考えていたものとは違った。

「あなたも見ているのですね」

 女はそんなことを言った。私はそう言われた瞬間に、この気味の悪い感覚は視線によるものだと理解した。大勢の人間に見られているという不快感。緊張感を生み出し、喉の渇きを誘い、重圧を与えてくる。東京で大衆の一部と化し、大群に埋もれていたはずの私は、何故か久々に、この場で視線を感じていたのだった。不快感の正体を見破った時、女は革の手袋に手をかけていた。女はゆっくりと、そして相変わらず美しい所作で手袋を外していった。女の手が手首、手の甲、指とあらわになった時、私は目を見開いていた。

 その手は透き通るような白さで、ほっそりと伸びた指は、女の上品さをそのまま表したようだった。しかし明らかに普通の手とは異なる点がある。

 それは目である。

 女の手には目がくっついていた。それも一つではなく、女の手を埋めるかのように、いくつもついているのである。しかも着物の袖からチラリと見えた腕にも、同じように目がついているのが見えた。まるで生まれた時からそこにあるのが当然かのように、その眼球たちはそこに鎮座している。

それらの目は紛れもなく私の方を見ていた。左右どちらの手にも生気を宿した目があり、じっくりと私を眺めている。行儀よく、泳ぐことなく、散ることなく、冷静に、当然のように、私のことを注視していた。私は驚きながらもその目たちと視線を交わし続けた。驚愕も恐怖もあったが、私は逃げることも声をあげることもせず、女の手を見続けていた。女の手に見られ続けていた。

 そんな時、ふとあることに気づいた。それらの目は一つずつ形や色が違うのである。ある目は大きく、ある目は二重で、ある目はまつ毛が長い。全てが女の体に付随しているはずなのに、目には別人のような違いがあった。共通しているのは私のことを見ているということだけである。女はというと、相変わらずどこを見ているのか分からない視線を、私の方に向けているだけだった。

 次の瞬間、私は女の体を暴きたいという衝動に襲われた。手だけではなく、女の全身をこの目で見たいと強く思った。そんな感情が湧き上がってきたとき、私は女の着物に手をかけていた。襟の辺りを両手で力強くつかみ、強引に脱がしにかかった。一瞬にして肩が露出したが、女は何もしなかった。抵抗もせず、声も出さず、ただだらんと力を抜いていて、されるがままになっていた。着物の脱がし方など知らない私は、ただただ力任せに手を動かすことしかできなかった。そこに人間の理性は全くなく、自分の欲望に従っている様は、まさしく獣。獣になっている自分を、真上から眺めているような感覚に襲われたが、それでも醜い獣が手を止めることはなかった。私の口からは生温かい蒸気があふれ、体中の毛穴から欲望が分泌し、自らそれを消費し続けた。


 獣が人間に戻ったのは、女の上半身がすべて晒された時だった。雲を連想させる白い肌、掴めばほどけてしまいそうな細い腕、ふくよかに発達した肉体は言うまでもなく、欲望を掻き立てられる。老若男女誰しもが夢中になるだろう至極の身体。

そんなものが目の前にあるはずなのに、人間へと戻ったのは、やはり女の体全体には目がくまなく、ついていたからだ。手と同じように一つ一つ別人のような目が私のことを見ている。私もまた、それらの目を見ていた。

 罰するような目はない。恨めしそうな目はない。憤るような目や、怯えるような目もない。それらは好奇を見つめる目であった。興味深いものを、関心が高いものを、心が惹かれたものを、意識が引き寄せられるものを、自らの欲のために注視する目であった。そして私もまた同じ目をしているであろうことが感じられた。

私は丁寧に丁寧に、一つずつ一つずつ、瞳たちに視線を合わせて、じっくりと見つめていた。視線を気持ち悪いと感じていたはずなのに、その正体がわかってしまえば、なんだか穏やかな気持ちになった。

 全ての目と視線を交わし合った頃、女は服を着始めた。相変わらず上品に、乱れた着物を直していき、最後に手袋をはめ、列車に乗り込んできたときと同じ容姿に戻った。それにともなって、体中にある目も姿を隠した。今、光を浴びている目は女の顔にある二つきりの目だけである。その目はずっと変わらずに、何を見ようとしているのか分からない。

 列車の速度が遅くなりはじめ、駅に停車した。女は何も言わずに私に背を向け、列車から降りて行った。手動ドアを開く様子は相変わらず上品な所作だった。動揺している感じは無く、高揚しているのは私だけのようだった。改札を通り抜け、女の姿が見えなくなった時、私が感じていた視線は無くなり、ほんの少し寂しさを覚えた。

その時、私は初めて、女は私のことをただの一度も見ていなかったことに気づいた。


 *


これが深淵の顛末である。私が体験したことである。

女の身体は深淵だった。大勢の人間に見られていたから、女の身体もまた、その視線に応えていただけなのだ。「目には目を」。それと同じ。好奇には好奇で返す。ただそれだけのこと。

女のことを調べてみたが、何も出てはこなかった。誰も彼女のことを知らなかった。

 確実なのは一つだけ。女は私のことなんて、それどころか今まで浴びてきた幾千幾万の視線にさえ、全く興味がないということだ。

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深淵 赤井朝顔 @Rubi-Asagao0724

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