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「そういえば
思い悩んでいてもしかたありません。つんとあごを上げて、彼に問いかけました。
「今日は、出先から直帰やからな」
「チョッキ?」
混乱しているわたくしの顔を覗きこんで、武史さんはくすりと笑います。
「じゃんけんでもないし、服のチョッキでもあらへんで」
「わ、わかってますよ」
嘘です。
「ちょっき」の漢字すら、頭に思い描けません。
国語の辞書をひらいたら、意味は分かるかもしれないのに。にやにやと笑みを浮かべる武史さんの前で、負けを認めることになるじゃありませんか。
そうだわ。着替えをするためにお部屋にもどれば「ちょっき」の意味も調べられるはず。
「では、わたくしは着替えてまいります」
「敵前逃亡はあかんなぁ」
だから、どうして着物の袂を離してくださらないの?
「ちゃんと『参りました。わかりません』って負けを認めんと、フェルトサンドケーキはおあずけやなぁ」
「まぁ、ひどいわ。すぐに子どもあつかいをなさるんですから」
わたくしは、むうっとほおを膨らませました。
「ほら、そういうとこが子どもやねんて」
「子どもじゃありません」
ひらりと髪のリボンをゆらしながら、わたくしはテーブルに置かれたカップを手にとりました。
飲んだことのない珈琲です。しかも牛乳も入っていませんし、彼はいつも砂糖すらいれません。
濃くて苦くて、おとなの飲み物。
でも別にお酒ではないんですもの。
わたくしは高々とカップをかかげました。
「ごらんになって。珈琲だって飲めるんです」
「ええけど。けっこう苦いで」
もはや引くには引けません。
大丈夫、濃茶だって飲めるんですから。
くいっと、わたくしはカップの中身を飲み干しました。
「ほら、へいき……ううっ」
「せやから、無理せんときってゆうたのに」
うう、にがい、にがいです。口のなかいっぱいに、珈琲の味がひろがって。のどの奥でも、苦みが自己主張をしているかのよう。
どうして豆をわざわざ焦がしに焦がして、お湯を注いだ珍妙な飲み物を、このひとは好むのでしょう。
それに濃茶は、練り切りや
「水を持ってきてもらおか」
「いいんです。だいじょうぶ」
「もぉ、なんでそないに無理するんかな」
「だって、わたくしはもう大人ですもの。同級生だって、何人かはすでに祝言をあげて退學しています。わたくしだってその気になれば」
殿方と腕を組むこともできますし、接吻だってできるはず。ほおになら。
ええ、それくらいには大人なんです。
「その気になれば、子どもかて産めるってこと?」
「ち、ちがいますっ。煙草だって喫えると思っただけです」
わたくしはとっさに思いついた言い訳を口にしました。ほおに接吻できると考えていたなんて、訂正できるはずもありません。
「なんや。そっちかぁ。けど、未成年者喫煙禁止法が制定されたから、喫うたらあかんで」
苦い笑みを武史さんはこぼします。
けれど、わたくしはそれどころではありません。
──子どもかて産める。
武史さんの言葉が、頭のなかでぐるぐるしているんです。
「どうでもよろしいじゃないですかっ」
わけが分からなくなって、あまりにも恥ずかしくて、きつい口調で返してしまいました。
「そんなに煙草が喫いたいん? 賛成はできへんなぁ」
喫煙なんてどうでもいいのに、話がどんどんずれていきます。
それよりも、子ども云々のほうが衝撃がおおきすぎて。
だって子どもを産むってことは、要するに彼と。いえ、祝言をあげたら必然的にそうなるってことはわかっているのですけど。
顔が熱くなります。耳たぶが熱くてちぎれてしまいそう。
「煙草のことも、さっきのお話ももうおやめになって」
わたくしはユーハイムの箱を手に取りました。いきおいで、マホガニーの机においた風呂敷包みが落ちてしまいました。けれど、床に散乱した教科書や筆記帳をひろう余裕なんてありません。
「ケーキを切ってもらってきます」
「あ、はい」
自分でもびっくりするくらいの速さで応接間を飛び出しました。
ぽつねんとひとりお部屋に残された武史さん。
廊下ってこんなにも長かったかしら。お台所ってこんなにも遠かったかしら。
女中たちの驚いた顔がにじんで見えます。「美都子お嬢さん、どないしはったん」と尋ねられて、ようやくわたくしは自分が涙を浮かべていることに気づいたんです。
お盆に、切りわけたフェルトサンドケーキと、お紅茶のポットとカップをのせて戻ったとき。応接間に武史さんの姿はありませんでした。
さっきまで彼が座っていたソファーはからっぽ。
ただ机の上に、すこし喫っただけで消してしまった煙草と、たたんだ新聞が残っているだけです。
「武史さんは、どうなさったの?」
「
玄関から戻ってきた年配の女中が教えてくれました。
そんなこと、ひとこともお話にならなかったわ。
一緒に食べるとおっしゃっていたわ。
もしかして、約束を反故にされてしまったの?
馥郁とした紅茶の香りの湯気が、ポットの注ぎ口からふわりとひとすじ立ちのぼります。
「お嬢さま。どないしはったんですか?」
「いいえ、なんでもないの。そうだわ、せっかくのケーキですから、みんなでいただきましょう」
「わぁっ」と若い女中が三人、歓声をあげながら廊下に現れました。
わたくしは、ちゃんと笑顔を浮かべているでしょうか。
お母さまや女中たちと一緒にたべたケーキは、いつもどおりに甘くてふわっとしているはずなのに。すこししょっぱいように思えたのです。
翌朝。
授業の教科書やノオトを用意しているとき、紙が一枚ないことに気づきました。
「風にさらわれてしまったのかしら」
ノオトの端を、ぴりりと破っただけの走り書きのようなもの。なくても構わないようなものですが、誰かに拾われたらと思うと気になります。
「いえ、大丈夫。あれをわたくしが書いたものだとは、誰も気づきませんし。内容だってわからないはずです」
武史さんを悲しませてしまったのかもしれないことが、ずっと心に引っかかっています。
昨夜は煩悶して寝つくことができず。お布団にはいっても、蕎麦殻の枕に顔をうずめては「わたくしのあほ、ばか、おたんこなす」となんど呻いたことでしょう。
こんなおばかさんだから、持久走で蛙にも負けるのです。もし亀が校庭にいたならなおのこと。
想像のなかの武史さんは「まぁ、喫いたいなら喫うたらええんちゃうかな、煙草を」と言い捨てて、去っていく始末。
遠くに聞こえる船の汽笛。ボォー、ボォーと夜の空気を震わせている。
とうとう武史さんが、上海航路の客船の甲板から、港にのこるわたくしに手をふる夢まで見てしまったのです。
「いかないで、武史さん」
己の声で目を覚ますなんて、はじめてのことでした。
「婚約者といっても、家同士で決めたことですもの」
ふっ、とさびしい笑みがため息とともにこぼれます。
武史さんは足しげく我が家に立ち寄ってくださいますけど。二人きりで出かけたことはありません。
これは恋ではないのです。彼にとっては、許嫁が誰であれ問題はないのです。
そう。わたくしでなければならない理由はないの。
夜はしんしんと更けてゆきます。
障子紙を透かして、ぼんやりと白い月あかりが幻のように広がっていました。
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