彼は意地悪な婚約者。なのに、指がふれあうと頰が熱くなるのです

絹乃

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 神戸の急な坂を半ば下って帰宅したわたくしを、婚約者が家で待っておりました。


 お仕事が早く終わったのでしょうか。

 髙等女學校に通うわたくしよりも十二歳上の彼、滿嶌武史まじまたけしさん。今日のお召ものはシャツに青藤色のネクタイ、それに銀灰色のベスト。クリースと呼ばれるズボンの折り目もぴしりとついている隙のなさ。


 それにくらべてわたくしときたら、女學校の海老茶色の袴のひもが斜めになってしまっていました。

 なんてみっともない、とあわてて風呂敷包みでおなかの部分を隠します。


 武史さんは、応接間のソファーに腰を下ろし、優美な手つきで青い染付のカップを、左手で持つソーサーに戻します。かちゃりとも音がしないんですよ。

 前髪だってきれいになでつけてあって、すこしも乱れていないんですから。


 まったく嫌になってしまいます。

 いつだって気取って、余裕があるんですもの。


「やぁ、美都子みつこさん。えらい遅かったね、居残りかな」

「ちがいます、それは先週ですよ」

「ああ、そうやったな。これは失敬」


 舶来の珈琲のかおりが、ふわっと室内に漂います。

 遠くから聞こえてくるのは、どこかの家のピアノの音。かろやかな音が、かすかに届きました。お庭の白百合にとまっている紋黄蝶ですら、音色を楽しんでいるかのよう。


 ちょうど凪の時間なので、海は波もたたないのでしょう。潮のにおいは感じません。

 瀬戸内海と六甲山の麓にはさまれた高台に建つ我が家ですが、女學校はさらに坂の上。


 すでに体育の授業で足ががくがくになっていたわたくしには、下り坂といえどもなかなかに厳しい道でした。

 ほんとうは、居残りというのは当たらずとも遠からずなのです。


 今日は午後に持久走があったのですけれど。わたくしはあまりにも足が遅くて、放課後まで走り続けなければ終わらなかったのですから。

 すでに帰り支度をすませた學友たちが、親切にも(そう、当人たちにとっても善意でしかないのですが)わたくしが走るのを見守ってくれていたの。


──美都子さん。それでは蛙に抜かれてしまいますよ。

──腕をもっとお振りになってはどうかしら。

──体は前傾姿勢のほうがよろしいわ。


 とてもありがたい指示と応援のおかげで、どんどん観衆が集まってきます。上級生も下級生も。


──フレー、フレー。美都子さん。

──がんばって、あと少しよ。


 さらに人が立ちどまります。夕刻のお祈りに、學校に隣接する修道院の御御堂おみどうにむかうシスターまで。


 わたくしのことをからかう人はおりませんでした。むしろ「がんばっていらっしゃるのね」とほほえましく見つめているのです。


 もう恥ずかしくて恥ずかしくて、なのに足は重くてなかなか進めず。ほんとうに難儀しました。

 ひたいを流れる汗が、目に染みて痛むし。三つ編みにしていた髪も、おくれ毛が肌にはりつくし。

 散々な放課後でした。


 お書物をつつんだ風呂敷を、自分のお部屋に持っていこうとすると、武史さんが手招きをしました。


 なにかしら?

 首をかしげて近寄ろうとして、わたくしははっと立ちどまります。

 いけません。持久走のせいで、まだ汗ばんでいるのです。


 体育の時間は、ハイカラな体操着を着てはいたのですけれど。

 着替えを済ませたといっても、汗の名残は肌に残っています。ふだんと肌のまとうにおいが違うんです。


「今日は手土産に元町のユーハイムで、フェルトサンドケーキをうてきてるんや。一緒に食べよかと思て」

「まぁぁ」


 ぱぁっと顔が明るくなるのが、自分でもわかりました。

 今ならきっとわたくしの目には、きらめく星が宿っていることでしょう。そう雑誌の『少女畫報しょうじょがほう』で連載されている『花物語』に描かれている乙女たちのように。


 白いバタークリームにつつまれたフェルトサンドケーキは、わたくしの大好物。輪っかのかたちをしていて、ドイツでは「フランクフルトの花輪」とも呼ばれているそうです。

 ほのあまくて、口のなかでこっくりとしたバターがとけていく様子を思いだすと、おなかがきゅうと鳴りそうで。わたくしはあわてて胃のあたりを押さえました。


「女中さんにたのんで、切り分けてもらお。見てみるか? 慎重に運んだから、型崩れもしてへんで」


 ああ、神々しいほどに白いケーキを拝みたい。そうは思うものの、やはり汗のにおいは気になります。

 箱のふたが開かれます。


「すこしお待ちになって」

「どうかした?」

「いいえ。すぐに着替えてまいりますね」


 近寄ろうとしないわたくしを、武史さんは訝しんだご様子。

 でも、無理です。着替えをしているとはいっても、やはり汗の名残はあるんです。自分でも分かるんです。

 わたくしだって年頃の女性です。殿方の、それも婚約者のそばに寄るのであれば、体をふいて私服に着替えてからでないと。


「ぼくのお願いは聞いてもらえへんのかな?」

「ちがいます、ちがいます」


 ぶんぶんと首をふった時、くいっと銘仙めいせんの着物の袖が引っぱられました。


「な、何をなさるの?」

「君がつれへんから。物理的に引っ張れば来るかなぁって」

「そっ、そういう」

「ん?」


 そういう問題ではありません。あなた大人ですよね。會社かいしゃ勤めをなさっているのよね。どうしてそんなに子どもじみていらっしゃるの?

 なんて言えるはずもありません。


 わたくしの煩悶など気にかける様子もなく、武史さんは飄々とした笑みを浮かべてらっしゃいます。


「ぼくは、猫にも嫌われるんねんなぁ。そばにぉへん猫を抱きあげたら、シャーっと威嚇されてしもてね」


 なんとなくわかります。


「それでも抱っこしつづけたら、前脚と後ろ脚をつっぱって、ぼくの顔をできるだけ遠ざけようとするんや。愛情が一方通行やねんで、さみしいやろ?」


 よくわかります。


「武史さんは、実は不器用でいらっしゃいますよね」


 一瞬の間。とぎれとぎれのピアノの音が、よく聞こえました。


「ははっ。そうやな、そうかもしれへん」


 思わぬ笑い声に、わたくしはおどろき、女中がなにごとかと部屋の扉からこちらをうかがうほど。


「美都子さんは、ぼくのことをよぉ見てはるなぁ」

「目端がきくのです」

「ほー、すごいすごい」

 

 あまり実感のこもらない声でした。けれど武史さんが煙草を一本だけ箱から取り出すのに難儀しているのを、わたくしはたしかに見たのです。


「煙草を吸ってもええかな?」

「どうぞ」


 わたくしは灰皿を勧めました。

 煙草の箱はふかい藍色で、下のほうはしろい夜明けの色。『STAR』のくすんだ金の文字に、きらめく星の模様。


 武史さんは窓辺に向かい、格子にガラスをはめこんだ窓を開け放ちます。


 清らかにあまい百合の香り。しゅっと燐寸をする音のあとで、苦そうな煙がほそく立ちのぼりました。

 夕暮れちかくのすこし湿った空気と、煙草に上書きされる花のにおい。

 西の空は暮れなずむむらさきと朱色、それからにじむような青の混じったなかで、お庭の木々は鬱蒼としげって見えます。

 

「あかんなぁ。ぼくは我慢ができへんから」

「え?」

 すこし喫っただけで、武史さんは煙草を消してしまいました。


「香りのある花は、夜のほうが強くにおうっていうやろ? けど、煙草のけむりとまじったら不粋やなぁと思て」


 わずかに残る紫煙を、武史さんは手ではたはたとあおぎました。

 そのせいできれいに撫でつけた前髪がみだれて、ひたいにかかっています。けれど、それを気にする様子もありません。


 こういうところです。わたくしが彼を卑怯だと思うのは。

 だって、他の男性は煙草を喫うときに断りなんて入れません。煙だって、まともに顔にかかって咳き込んでしまいますもの。

 

 ほんとうは花の香りとかじゃなくて、わたくしのことを考えて、煙草を消してくださったのもわかっているんです。


 わたくしのことをよくからかうけれど。武史さんはほかの女性の前では、常に紳士的で優しいのでしょうね。

 許嫁がわたくしでなくとも、よかったはず。


 常に頭のどこかで、彼が「結婚するんやったら、もっとおとなびた女性がよかったなぁ」とか「女學生は、まだまだ幼稚やなぁ」なんて考えているのではないかと、しんとつめたく蒼い不安にさいなまれるのです。 

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