祝杯

かえさん小説堂

祝杯

 ヘンリー・アルベルトは僕の友人だ。


 僕が彼を初めて見たとき、僕はまだ二十になったばかりの若造で、国の軍隊として塹壕の中を駆け巡っていた。


 僕が数多くの兵隊が走り回る戦場で、彼の姿を明確に捕らえることが出来たのは、彼の持つ厳格な雰囲気と、聡明そうな顔つきのせいであろう。


 そのとき、僕は名前も知らない仲間の遺体を拾うため、塹壕の中からすばやく這い上がったのだった。遺体は足先が上を向いており、一メートルほど、塹壕の段差から離れた場所で横たわっている。塹壕のなかから手を伸ばしても届かず、致し方なく、周囲の警戒を固めて土壁に足をかけたのである。


 僕が塹壕の土壁から頭一つ出したときだった。


 壁の上、僕はそこを地上と呼んでいたが、その地上には、まだ味方の兵士たちの何人かが、いくつかの簡易的な防壁を作って銃を構えていた。


 敵兵は存外近くまで来ていたらしい。壁の位置は僕の位置からそう遠くはなかった。どうやら彼らは塹壕に戻るタイミングを見計らっているようだ。その奥からは、小雨のように銃弾が飛んでいる。


 僕はうまく壁に隠れるように頭を動かし、ぶるぶると震える右腕で、遺体の足首を掴んで引きずった。


 その引きずった瞬間に、彼の姿を目にしたのである。


 彼は僕の方を見向きもせずに、どこか遠くの方を見つめて黙っていた。


 その姿がどこか悲観的で、何かに思いを馳せているようで、僕は不思議な思いをしたのだ。混沌とした戦場に不釣り合いな、まるで自身の書斎にでもいるかのような落ち着きようである。鳴り響く銃声やら、目を覆いたくなるような人の山にも、気に留めることがないように見えた。


 彼は白人で、青い目のよく似あう男であった。それなのに髪は焦がしたように真っ黒で、目の色と不釣り合いな不格好で、それがどうも彼を目立たせた。僕は行く先々で様々な兵士を見るが、彼だけはすぐに覚えることになり、一方的な顔見知りのようになっていたのである。


 彼は存外、無口な男のようであった。彼の姿をよく見ることはあるが、それらは依然として黙っていて、口元の筋肉すらも動かさないような印象だった。


 寂しくはないのだろうかと思ったこともある。


 大抵の兵士は、各々の数少ない仲間と他愛もないことを語り合っては、戦争の気が重くなりそうなのを紛らわしていた。僕もそのうちの一人だったし、周りもそうやって、長ったらしい戦争の結末を想像していた。だから尚更、僕は彼のことが不思議に思えてならなかったのである。


 この心情を、個人的に親しくしていた仲間に語ったことがある。


 しかしながら仲間は、僕が彼の話をした途端に顔をしかめて、まるで耳のあたりを飛ぶコバエを払うかのように手を振り、その話はしないほうがいい、と軽く僕をあしらった。


 お前は存外変わった奴だな、あんな奴を気に留めるなんて。その言葉が今でも、彼の記憶と共に蘇ってくるのである。



 塹壕の中はまるで地獄だった。砲弾と銃声が、もやのように響き、耳に針が刺されたように詰まった。機関銃は奇妙なまでに手に染み付いてくるし、足は泥に沈んでいる。僕は田舎の育ちだから、汚いのにはたいてい慣れていたつもりだった。しかし戦場というのは異常なもので、僕が二十年の間に得てきた経験に合うものが何一つとしてなかった。


 目の前は土の塊で、度々、自分がどこにいるのか判断がつかなくなる。つい数秒前に話していた仲間が、ふと目を向けると既に息絶えている。数センチずれていたら、僕もそうなっていたのだと考えると、背中をウジ虫が駆け上がったような感じがする。


 支給される水すらも喉を通らない。僕はおかしくなった仲間をたくさん見た。後になってそれがシェルショックと呼ばれるようになったが、当時、彼らは臆病者と呼ばれた。


 まさか僕がこんな目にあうなんて思ってもみなかった。すぐに戦争は終わるだろうと思っていたあの時の僕の右頬を殴ってやりたい。そしてこう言うのだ、志願兵になるのは考え直せ、と。



 つくづく奇妙なことだと思った。僕の周りの人間は次々と息絶えていくというのに、僕一人だけは致命傷を一つとして負わず、未だ敵兵に銃口を向けているのだから。


 どうして僕が生きているのかと疑問に思うことも少なくはなかった。僕に生きる理由がなかったわけではないけれども、銃弾が命中して、呻きながら地面を手で引っ掻く仲間の姿を見ると、それがどうして自分じゃなかったのかと不思議に思う。いっそのこと早くに死んでしまった方がよかったのではないかとも考えた。


 塹壕の中は地中と同じだ。ただ空が見えるかそうでないかの違いしかない。もはや僕たちは、生きたまま埋葬されているのと同じだったのだ。


 手荒な命の握りあいである。足元からだんだんと血液がなくなっていくようで、時間が経つ度に、僕は自分の命の在処をまさぐった。


 死にたくない。


 ……死にたくない?


 その時の記憶はもうあまり残っていないけれど、よほど疲れていたことだけは分かっている。


 頭がどうにかなりそうだった。僕よりもおかしくなった仲間を見て、ぶるぶると震える手で胸をなでおろす日々だった。何度も叫びたくなったけれど、叫んだ結果がどうなるか知っていたから、僕の左手はずっと口元に当てられていた。



 そんな日々がいくらか続いて、吹き抜ける風が冷たく、コートの襟が首元まで手繰り寄せられるようになった時期のことである。


 前線に立って最初の方では毎日のように日付を数えていたけど、その時にはそんな余裕すらなくなって、一刻も早く一日が終わるのを望んでいたときだった。


 仲間だって同じようなものだったようで、その顔は死体と見まがうかと思うほどであった。もはや生きていても死んでいても変わらないような表情に、きっと僕も同じような顔をしているのだろうな、と自嘲する。


 泥人形のような男たちの集団のなか、僕は塹壕の中で寒空を見上げては、静かに物思いにふけっていた。


 辺りは暗くなり、月はおろか、星の一粒すらも見られない。上を見上げてジッとしているうちに、視界が狭まり、だんだんと紺色の濁った天井が迫ってくるかのようだった。ぐらり、と眩暈のような歪みを感じ取った後、僕は自分のいる場所を見失う。宙に浮かんでいるような浮遊感の幻想を脳裏に掠めた後、すぐに意識は自分の頭に戻ってくる。


 この幻想のような、錯覚のような体験が、昔から好きだった。何もない田舎町で、夜の星が綺麗なことだけが良かった、あの故郷で見つけた自分だけの楽しみである。


 これをすれば、一日に起こった嫌なことを軽減させることが出来た。地面に根付く足の裏が痛いのも、壁からボロボロと流れてくる数粒の土塊も、一時的に意識の外へ追いやることができたのである。苦しそうに眠る仲間たちの寝息に囲まれ、僕は例の通りにその習慣を忠実に繰り返していた。


 しかし、そのときだけは少し感覚が違った。


 僕が意識を夜空に預けているとき、塹壕の中に落ちてくる綿の欠片を見たのである。気が抜けるようなゆったりとした様子で、暗い空に映える、かすかな白の一粒だ。


 それが雪だと分かるまでに、少しの時間がかかった。


 僕が初めて前線に立ったのはずっと前のことだったはずである。それこそ、雪なんて存在すらも忘れていた頃。


 自分は老いたのだと知った。


 久しぶりに泣いた。周囲の人間も目に入らないほどに自我と向き合って、叱られた子供のようにひっそりと泣いた。僕はようやく人の心を思い出したのだった。ようやく、自分が長いこと、この地獄で耐えてきたのを思い出したのだった。白い一粒は、胸が痛くなるほど冷たかった。僕は寒さを感じ取った。



 僕は前よりも辛くなった。足の運びもおぼつかなくなり、初めて踏むかのようなぬかるんだ塹壕の土も、どこかからか漂ってくる鼻の曲がりそうになる臭いも、すべてハッキリと感じてしまっているのである。


 素手で生肉を掴んでいる。その異常な柔らかさといったら、この世のどのものよりも気味悪く、罪深いことなのだと思った。


 しかし、今日の僕の頭は冴えていた。昨晩の雪が降るほどに凍てついた空気のせいだろうか、どこか霧が晴れたような感じがする。


 銃声も、誰かが叫ぶ声も、爆発の音も、今日だけはよく聞こえた。自分がどこにいるのかがよく分かっていた。


 そして、僕が一体何人殺したのかもよく分かった。


 銃弾の引き金の感じが訴えてくるのだ。あいつは死んだ、あいつには外れた、と。

今思えば、それは前兆だったのだろう。


 全ての命が照り輝いて、存在を主張しているかのようだった。暗闇の中で揺蕩う蝋燭の炎のように、その位置が、存在が、色が、形が、ハッキリと見えた。おかしい。


 引き金を引くたびに、胸の奥に楔を打たれたようだ。罪の意識が、今日になってようやく目覚めたかのように、強く打ち響かせては、鼓動と共にズルズルと痛みを引きずった。



 一人の仲間が僕のことを呼んだ。僕は振り返ると、その仲間は左肩からドロリとした血液を垂らしていた。彼とはよく話していた記憶がある。僕と同時に前線に立って、同じ時を過ごしていた男だ。


 彼は空気が漏れた風船のように、音を立てて深い呼吸をしていた。僕はその日の感覚で、こいつはもう長くはないのだなと、感じ取った。


「なあ、今日、おかしいよな」


 呼吸するのも苦しそうに、その仲間が言う。


「戦死って、こんなにも苦しいものなのか。他の奴らは、皆、死んだのにも気づいていないように、死んでいたのに、どうして俺は、今、こんなにも重苦しい……」


 そいつは、だいたいそのようなことを言った。


「苦しい……。畜生、これが、天罰だっていうのか。おい、悪いが、俺の首から、ロザリオを取ってくれ……」


 そいつはしきりに胸に血まみれの両手をやって、自らの薄汚い胸の上から、十字架をどかそうと、指先だけで撫でるように触っていた。


「……俺、こんなにも殺したのか」


 さんざん呻いたあと、最後に言ったのがこれだった。僕は素早く十字を切って、彼の首から離れたロザリオを手に握った。彼の墓の前に置いてやるつもりであった。



 冬になると現れる独特の凛々しさが空気を引き立てていた。僕はいつもよりもずっと疲れ果てて、鉛のように固くなった体を引きずるように歩いては、丸くなる背中をどうにか背負いあげた。


 やっとの思いで本拠地まで戻って、何人かいなくなった顔ぶれを思い出す。


 辺りを見回しても、皆ひどい顔だった。真っ青というよりも、黒ずんでいる。果てしない疲労を感じていたのは、どうも僕だけじゃないらしい。なかには、涙を流している者までいた。


 まるで初めて人を殺したかのような感覚である。命令の一つ一つがとてつもない重労働のように思われてならない。溶けた鉛を飲んだかのような罪悪感が、内臓を打ち破ってしまうようだ。


 急ぐように日が落ちていき、身を打つような風が吹いてくる。耳はつんざき、異臭が空へ上り、手足がしびれる。


 思わず天を仰ぎ見ても、意識は依然として自分の中にあった。


 呼吸もままならなくなってしまった。何かとてつもなく大きくて、絶対的なものが動こうとしているようだ。


 今宵は皆が目を覚ましていた。体は大変くたびれているのに、頭だけはめっぽう冴えて、起きていなければ、と言っていた。単に寒いから寝られないのではなかった。むしろ外の寒さと反比例するようにじわじわと底から熱が出て、マフラーを脱いだほどであった。


 今思えば、至極不思議なことである。人間にしては大層なことをしていた。もしくは、意図的にそうなされたのかもしれないけれど。



 僕は今でも、そのときのことをハッキリと覚えている。夢にまで出てきて、ときどき枕を濡らすほどだ。


 冷たい空気を振動して響いてきたのは、世にも美しいメロディーだった。一音一音が鷹揚に伸び、冷たく乾いた空気を、柔らかく染め上げていく。低音しかない不十分なものであったけども、それは今まで聞いたなかで一番感動した聖歌であった。


 戦場に聖歌。不釣り合いで似合わないその組み合わせに、周りの者も気づき始めたらしく、動揺していた。誰が歌っているのかは明白であった。それは今日まで私たちが潰してきた、ドイツ語の歌であったから。


 今日は何日だ、と仲間の誰かが言った。二十五になるだろう、と別の誰かが答えた。


 合点がいった。イエス様の生誕である。


 僕は昼間に見てきたことを鮮明に思い出した。引き金を引く度に失われていく命たち、自分のやっていること、その罪悪さ。それらを示していたのだと思った。神は僕たちのことを見ておられたのだった。そしてその愚かさを悲しみ、僕らに気づかせようとしていたのだ。この聖なる日に。


 僕は再び天を仰いだ。そしてしばらくジッとした後、昼間に死んだ彼のロザリオを持って、イギリス語で聖歌を口ずさみ始めた。


 この祝福の日に、あのような戦場は失礼にあたると思ったのだ。僕はドイツ語の彼らに習い、静かに祈りを捧げる。


 聖歌は波紋のように広がっていった。僕が歌いはじめたのをきっかけに、仲間たちも戸惑いながら歌いはじめ、最後にはドイツ語とイギリス語が混ざった、盛大なメロディーが地上を覆いつくした。


「今日はクリスマスだ。祝おう、皆で」


 その皆には、彼らも含まれていたようであった。


 戦場を裂くような拍手が起こり、次第に兵士たちが地上に顔を出していく。ちょうど、閑散とした地上に草木が生い茂るかのように、命が顔を出しては、ひっそりと笑いかけた。


 その輪はあっという間に広まった。やがてはすべての兵士が塹壕を飛び出して、人種を超えて、祝福の握手を交わしていた。


 その瞬間、僕が見た光景を忘れはしない。戦場を破った真の勝者たちがそこにいたのだ。互いに挨拶をして、はにかむように笑っては、手のひらを握っていた。塹壕の上はこんなにも広かった。そして多くの人間がいた。


 僕が冴えていたのは、この奇跡のためだったのだ。


 朝日が昇る。いつの間にか、あの日没から随分と時間が経っていたらしい。時間を忘れてしまうほど何かに思いを馳せたのは、久しぶりのことであった。


 僕もすぐに人々のなかに入って、その奇跡をよく味わった。先ほどまで命を握り合っていた彼らと、優しく笑っては、挨拶をした。不思議というよりも、なによりも、幸福であった。



 ふと、僕は一人の男に話かけた。その男は、この奇跡の中なのにも関わらず、誰とも話をせずにいたのである。頬のやつれた、黒ずんだ顔色で、頭の禿げた老兵のようだ。彼は一人、人々から離れたところに腰かけて、水を飲んでいた。


 僕がその兵士に話かけると、彼はようやく僕の方に気が付いたらしく、腰を上げて手を差し伸べてくる。その手をしっかりと握りかえして、僕は軽い挨拶を述べた。彼の方は、薄い微笑を浮かべていた。


「皆と話さないのかい?」


 僕は彼の黒い顔を見て聞いた。彼はその眉を寄せて、困ったような笑みを作った。


「ああ、昔から人と話すのは苦手でね」


 その答えた声は、僕が予想していたのよりはるかに若々しかった。それに驚いた僕は、思わず目を見開く。


「思ったよりずいぶんと若いようだ、君は」

「よく言われるよ。これでも、君と年齢はそう変わらないと思うね」


 彼は苦笑の顔を崩さずに言った。


「戦争に参加したころは、もっと健康で、似合わない黒い髪も、白い肌も、持ち合わせていたのだけど」


 彼がそうこぼしたとき、僕の脳裏に、あのよく見かけていた、聡明そうな兵士の顔がよぎった。


 あのときの彼は、今よりももっと落ち着いていて、戦場の凄惨さももろともしないような毅然とした雰囲気があったというのに。


「もしかして、あのときの……」


 僕が言いかけると、彼は不思議そうに小首をかしげて見せた。


「私と、どこかで会ったかい?」

「いや。……僕が一方的に見知っていただけさ。戦場でよく君の姿を見かけた。どうも君が、印象に残っていたのだが」


 彼はまた苦笑した。その笑みには、少しの自嘲が含まれていたのだと思った。


「そうか。私は変わってしまったね」


 彼はそう呟くと、一瞬ふらついて、失礼、と言いながらゆっくりと元の場所に腰掛けた。僕は自然と彼の隣に座り、何か言いたいような目を向けていた。彼の横顔は、前に見たのよりもずっと弱弱しかった。


「妻がね、亡くなったんだよ」


 彼は僕に目を合わせずに、まるで独り言のようにつぶやいた。


「私の家屋近辺の地域が戦場になってしまった。急襲を受けたようで、妻は逃げられずに死んでしまった。妻は妊娠していたんだ。世話を任せていた下女たちは逃げることができたらしく、私に妻の死んだことを手紙にして寄越してきたけれど」


 僕は何も言うことができなくなった。


「訃報の手紙が届いてから、ずっとこの調子だ。戦中に負った怪我の後遺症とも相まって、どんどん体は思うようにいかなくなっている。実は私は、君の顔が認識できないほどに視力がなくなっているんだよ」


 そう言って、彼はようやく僕の方に目を向けた。彼が言うには、もうその目は機能しないに等しいらしいが、僕に向けられた視線は、確実に僕のことを捕らえているように見えた。


 僕は黙ることしかできなかった。彼に何と声をかけても、彼の傷を汚く舐めることにしかならないと思った。


 しばらく僕と彼は黙って座っていた。人々が楽しそうに談笑しては、身内のことを語ったり、聞いたり、そんなことをして楽しんでいるのを眺めては、この奇跡の裏にある凄惨な出来事を思い出していた。


「勘違いしないでほしいのだけれど、私は君たちのことを恨んでいるわけじゃないんだ」


 流れる沈黙を断ち切ったのは、意外にも彼の方からだった。


「ここは戦場。そして今は戦時中。どこでだって人が死ぬし、今もどこかで誰かが地獄を見ている。私だけじゃない。君だって、そうなのだろう?」

「……どうかな。君のことに比べたら、僕なんて幸せだったかもしれないよ」

「そうだね。でも、少なくとも君が相当の不幸を味わったのは分かる。ここにいる人は全員そうさ。優勢だったこちらでさえ地獄のようだったのだから、そちらはもっと酷かったろう」


 彼は僕の思った通り、聡明な男であった。戦場で見た彼の印象は的を得ていたらしい。姿こそ変わり果てたものの、彼の落ち着いていて頭のよさそうな感じは、変わっていないようである。


「さ、もう私のことは分かっただろう。次は君のことを話してくれないか」


 彼がわざと声を明るくして、僕の方に顔を向けた。


「ああ、いや、まだ聞いていないことが……」


 僕が言いかけた途端、賑わっていた人々の方から、歓声と共にボールを蹴る音が鳴り響く。


 高く飛んだ即席のボールは遠くへと転がっていき、人種や国籍関係なしに人々を引き付けていった。


「サッカーか、いいな」


 彼が心底楽しそうに言った。


「……で、君の聞きたいことって?」


 彼の青い目を見据え、僕はあえて笑って見せた。


「君の名前は?」




「……へえ、そんなことがあったんだね」


 僕は一気に現実に引き戻された。暖かく燃える暖炉の近くで、僕の孫は興味深そうに僕の顔を見ている。


「でも、まさか第一次世界大戦にそんなことが起こったなんて、信じられないよ。だいたい、その次の日からはまた敵として相対することになるんでしょ?」


 賢い孫は、そう聞いて僕の返事を待っている。僕はようやく現実の世界に完全に戻り、孫に話した。


「そう。だから余計に辛かった。でも、あの休戦があって、よかったと思うよ」

「どうして?」

「あれがなかったら、今僕はここにいないかもしれないのだから、ね」


 そう言い終えて、僕は杖を突いてゆっくりと立ち上がる。孫は心配そうに僕に駆け寄ったが、大丈夫、と軽く言って、暖炉の前に座らせた。


「また、あそこに?」


 僕は笑っただけで、孫にはハッキリと返事をしなかった。彼の前に花を欠かさないようにしているのは、僕の日課だった。


 あの後、彼をやったのは、自国の仲間なのか、それとも僕なのか、明白になっていない。


 しかし、僕はあの時の奇跡を忘れないために、彼との小さな思い出のために、今もそうするのである。


 ヘンリー・アルベルトは僕の友人だから。


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