目覚め

 一筋の光さえ差さない水中から浮上するのに似た感覚の中、「彼」は目を開けた。

 その眼前にあったのは、自分の顔を覗き込む、人間の男女の姿だった。

 外見から判断する限り、目の前にいる二人は比較的高齢であると思われた。

 着ている衣服は年季の入ったもので、彼らの生活の程度は質素なものであることが窺える。

 「彼」の記憶の中に、二人の顔はなかった。

 ふと「彼」は、自身が寝台に横たえられているのに気付いた。

 気分はどうか、と尋ねられたが、身体に異常はないことが分かっても、「彼」は何と答えていいのか──「気分」というのが、どういうものを指すのか分からなかった。

 年老いた男の方はモンス、女はシルワと名乗った。彼らは夫婦らしかった。

 二人に、名前や、どこから来たのかを尋ねられても、「彼」の中には思い浮かぶものが何ひとつ無かった。

 何も分からない、と「彼」が答えると、夫婦は困惑した表情を見せた。

 ふと「彼」が顔を横に向けてみると、壁にかけられた鏡が目に入った。

 鏡には、栗色の長い髪に緑色の瞳をした、見知らぬ若い男が映っている。それが、自分の姿であると「彼」が気付くまで、少し時間がかかった。

 日没が近づき、室内が薄暗くなったのを見たモンスが、部屋の照明を点けて言った。

「何年か前に、こんな田舎にも魔導炉まどうろができてね。魔法の力で灯りを点けたり、魔導絡繰まどうからくりを動かしたりできるようになったのさ」

 魔導炉まどうろ、という語彙に対し、「彼」は、一瞬、脳内に光が差した気がした。

魔導炉まどうろ……空間から取り込んだマナを動力に変換する装置……魔力伝導物質を介し……離れた場所にある魔導絡繰まどうからくりを稼働させることが可能……」

 「彼」は、無意識のうちに呟いていた。

 シルワに、自分のことは何も分からないのに、そんな難しいことは知っているのかと言われ、「彼」も矛盾があると思った。

 周囲にあるもの……自分が寝ている寝台や室内の調度品などが、どのような用途のものなのかは分かるのに、自身については、やはり何も思い出すことができなかった。胸の奥に、ざわざわと不快な何かが湧き出てくるのを、「彼」は感じた。

 そんな「彼」の様子を見た老夫婦は、この家で養生することを勧めた。

 自分が何者かも分からず、行くところもない「彼」に、二人の申し出を受け入れる以外の選択肢はない。

 文字通り、差し出せるものなど何も持たない「彼」を助けたところで、この二人にとっては、何の得にもならないだろう。

 だが、当たり前のように面倒を見てくれる老夫婦の姿を見るうちに、「彼」の胸の中にあった、ざわざわする不快なもの──不安は、少しずつ薄れていった。

 名無しのままでは不便だと、「彼」には、老夫婦によって「フェリクス」という名が与えられた。

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