告白は観覧車のてっぺんで

ポン吉

告白は観覧車のてっぺんで

(拝啓、天国の───いや地獄かも。とにかくあの世にいるおじいちゃんへ)


「お前ら飲め飲め! セイヤの婚約祝いだ!」


(なぜ極道にわたしを預けたんですか───)



 田中ユキはいたって平凡な女子高校生である。しかし平凡じゃなかったのは、彼女の祖父だった。

 交通事故で親を早くに亡くしたユキは、唯一の肉親の祖父の元で育てられた。この祖父がとんでもない変わり者だった。

 例えば道端に酔っ払いが倒れていたとしよう。酒瓶を振り回してうわ言を言っているような、危ないタイプの酔っ払いだ。誰だって関わらないようにするだろう。しかしユキの祖父は酔っ払いに近づき、「うち来るか?」と声をかけるのだ。

 よく言えば人との壁がなく、悪く言えば怖いもの知らず。そんな祖父も寿命には勝てず、つい最近ぽっくり逝ってしまった。


(でもまさか───)


「うおお、あの小さかった坊ちゃんが」

「バカ、結婚は成人してからだろ? えーっと、あと1年か」

「ちげえよ、高校卒業してからだ」


 ユキは任侠もののドラマでしか見たことがない、広くて襖に派手な絵が描かれている部屋で、上座にちょこんと座り、青い顔で渡されたコップを握っていた。


(なんでヤクザと知り合いなの、おじいちゃん!)


 泣きそうになりながら畳の節目をじっと見てやり過ごす。

 隣で絶え間なく酒を飲んでいるのは「極道」の「カシラ」で、ユキの祖父の飲み友らしかった。

 よほど仲が良かったのか、祖父はよくこう言っていたそうだ。


『おれが死んだら、孫娘のことを頼んだぞ』


 そこから話が広がって、同い年の息子がいるという話になって、じゃあ将来フリーだったら見合いでもさせるか。といった具合に婚約が決まったらしい。


「あのじじい、いつもの居酒屋に来なくなったと思ったらくたばってやがる。遺言くらいは聞き届けてやりてえだろ」

「ヨッ、流石ですカシラ! 優男!」

「誰がなよっちいカマ野郎だって!?」

「ギャー!」


 カシラは煽ってきた部下に向けて酒瓶を投げる。結構なスピードで飛んで行ったそれは、酒を撒き散らしながら部下の額にぶち当たった。

 血が畳に飛び散ったことにユキは悲鳴を上げかけたが、口を両手で押さえてなんとか飲み込む。周りは大口を開けて笑い、瓶をぶつけられた本人は「ひどおい」と泣き真似をしていた。


「ねえ」


 声をかけられて、ユキは大袈裟なほどびくりと体を揺らす。

 視線の先にいたのはカシラの息子のセイヤだった。彼は明らかにヤバいヤンキーといった風貌をしている。

 金髪オールバックだし、室内なのにサングラスをかけているし、耳にも鼻にも口にも喉にもピアスが大量に開いている。背が高くて、脚が長い。整った顔をしてはいるが、むしろ怖さを引き立てるばかりだった。


「アンタも来る?」

「え」



「ここが便所。あっちが厨房。そんであっちが応接間」

「は、はい」


 セイヤはどうやら、見かねてユキを連れ出しれくれたようだった。なんなら施設の案内までしてくれている。

 よく見るとオールバックではなくポンパドールだし、口調は意外にも柔らかい。威圧感は変わらないものの、ユキは少し安心した。


「んで、ここが俺の部屋」

「……せ、セイヤさんの、お部屋」

「同い年でしょ、敬語とかいいよ」


 ユキは安心しかけた数秒前の自分を猛烈に殴りたくなった。

 人気のない廊下、男女が2人、しかも片方はヤンキーで、そいつの部屋の前。何も起きないはずはなく……というか、連れ込まれる寸前だった。

 ユキはずりずりと後ずさって、「じゃあ〜わたしはこれで〜」と逃げ出そうとした。が。


「入っていきなよ。どうせここで暮らすんだし」


 むんずと腕を掴まれればもう抵抗は無駄だ。ユキは死を悟りながら「はいぃ」と情けなく頷いた。

 そしてまた、数秒前の自分を猛烈に殴りたくなった。


「俺のペットのヘビ。アオダイショウのアオコに、コーンスネークのもろこし。1番でかいのがコースタルカーペットパイソンのしましまで───」


 セイヤの部屋にはヘビが3匹いた。ユキは爬虫類に詳しくないからセイヤの説明はよく分からなかったけど、とにかく一生懸命説明してくれていることは伝わった。


(襲われるーとか思っててすいません……わたしは心が薄汚れた天井のシミ以下のゴミです……)


「やってみる?」


 ユキが思考を飛ばしている間にもセイヤは話し続けていたようで、コテ、と首を傾げてユキを見上げる。それにあざといな、と思いつつも、慌てたユキは訳も分からないまま「あ、え、うん」と頷いた。


「へえ、度胸あんね」

「え?」

「おいで、アオコ」


 セイヤは相当ヘビに慣れているのか、ケージから簡単にアオコを取り出した。


「手出して」


 セイヤはユキに座るように言い、ユキはビクビクしながら指示に従った。そして───


「はい。落とすなよ」

「〜〜〜!?」


 アオコを手に落とされ、声にならない悲鳴をあげた。


「アッ……えっ……」

「大丈夫、アオコ大人しいし。アオダイショウは毒無いから」

「そっ」


 そうじゃなくて、と言おうとして声が出ない。ヘビ独特の少し湿った感じのする鱗とか、ひんやりとした体が腕を伝う感覚とか、シュルシュルと出し入れされる舌を見ていると、恐怖で叫び出しそうになる。

 しかしそんなことをしたら噛まれるかもしれない、と葛藤し、結局ユキは永遠に感じられた5秒間を半ベソで過ごした。


「じゃあもう戻りなよ。親父には適当に言っといて」


 セイヤは満足したらしく、「ちゃんと手洗ってね」と襖を閉めた。ユキは半泣きになりながらトイレに向かい、鼻を鳴らしながら手を洗って、迷子になったところを運転係の安藤に保護された。

 宴会場に戻ると何故か襖が全て薙ぎ倒され、部屋の中心では半裸のカシラと男が相撲をとっていた。

 ユキはもうここでやっていける気がしなかった。



「よ、よし、まだ誰もいない」


 翌朝6時、ユキは学校に行こうとしていた。

 カシラが家まで迎えに来た時は、安藤が運転する黒塗りの高級車に乗った。今日からはその車で登校するといい、とカシラは言ってくれたけど、ヤクザの車で登校だなんて学校中に噂が回ってしまう。

 部屋には一応書き置きを残して、そろりそろりと足を進めた。


「あれ、もう起きてるの?」


 悲鳴をあげかけて、後ろから口を塞がれる。


「みんな起きちゃうから、黙って」


 後ろを見上げれば、朝だというのにサングラスをかけたセイヤがいた。大柄な彼はそれに比例して手も大きく、片手でユキの顔を掴めそうだった。

 ユキは必死にコクコクと頷きながら、彼の巨大な手から逃れたい一心で回された腕をタップした。


「あ、ごめん。鼻塞いでた?」

「い、いえっ、だいじょぶです」

「ふーん。もう登校すんの?」

「は、はい。日直……なので」

「へー」



「次は……あ、『理想の告白シュチュエーションは何ですか?』だって」

「夕暮れの観覧車のてっぺんで告白かな……」


 午前7時。2年3組。

 日直でも無いのにすっかり仕事を終わらせてしまったユキは、セイヤと隣の席に並んで座っていた。


『じゃあ一緒にガッコー行こ』


 セイヤは眠そうにあくびをしながらそう言った。『何が”じゃあ”だよ』とのツッコミを寸前で我慢したユキはしかし断ることもできなかった。

 始業は8時半から。1時間以上前に教室に来る物好きはおらず、2人は暇を持て余した。

 そこでセイヤの提案でプロフィール帳に沿って質問しあってるのだ。


「ふーん。適当?」

「うん」

「じゃあ俺もそうしとこう」


 狂ってんな……。

 ユキは遠い目をしながらそう思った。

 「ペットを飼っていますか。なんで飼おうと思ったんですか」という質問に対する、セイヤの答えがこれだ。


「俺目が金色でさ、ガキの頃いじめられてたの。だから仲間が欲しいなって」


 サイコパスかな? そういえばセイヤのヘビは3匹とも瞳が金色だった。

 ユキはもう微笑むしかなかった。プロフィール帳を取り出した時点で嫌な予感はしていた。


「あ、もう質問全部終わっちゃった」

「そ、そうなんだ。じゃあもう……」


 言葉の続きに被せるように、ピリリと軽快な着信音が鳴った。セイヤの携帯だ。


「……何。あ? いや今ガッコ……マジだって」


 セイヤはユキと一瞬視線を合わせて廊下に出る。携帯からは下卑た笑い声が聞こえてきた。

 程なくしてセイヤが戻ってくる。


「わり、ユキちゃん。ちょっと野暮用」

「あ、ううん、気をつけて」

「……うん」


 セイヤはきょとりと目を丸くした後、何故か少し微笑んで去っていった。残されたユキは安堵から深いため息をつき、机に倒れ伏す。肩にドッと疲れが乗るようだった。



「───、ちょっと、起きなって、ユキ!!」

「ふぁいっ! お金はないです!!」


 いつの間にか寝ていたらしい。時計を見るともう8時になっている。


「どんな夢見てたのよ。うなされてたわよ」

「うう、ありがとうタキちゃん。おはよう」

「おはよ」


 綺麗に髪を巻いた美少女がユキの隣の席に座る。彼女は八神タキと言って、ユキの中学からの親友だ。


「ねえ、日直の仕事誰かがやってくれたみたいなんだけど、知ってる?」

「あ、それわたしだ。ごめんね、勝手に」

「え、ありがと。すっごい助かったけど、なんで?」

「そういう気分で〜……」

「絶対ウソ」


 タキはツンツンとユキの頬をつつく。ユキは「やめて〜!」と言いつつも大した抵抗もせず、2人でくすくすと笑い合った。


(そう、これだよこれ! きっと昨日のは夢で、こっちの平穏な生活が現実───)


「ユキちゃんいる?」

「ぴい」


 ユキは喉を締められたニワトリのような小さな奇声を発した。原因はお察しの通り、教室の入り口に立っているヤンキーである。


「え、あれって、『西高のパイソン』じゃない!?」

「あの一夜にして東高を壊滅させたっていう、伝説の!?」


(通り名ダッッサ!!!)


 クラス中が一気に騒がしくなる。「先生呼んだ方が……」なんて声も聞こえてきた。


「え、『ユキちゃん』って……ちょっとユキ!?」


 ユキは船酔いした時みたいに青い顔でセイヤの元まで歩く。タキは通報の準備をしながら、ドキドキとそれを見守った。


(あっ、ユキが頭下げてる。あれ、なんかヤンキーしゃがんで……ん? 何か渡されてる。あ、戻ってきた)


「おかえり。無事?」

「ちょこもらった」

「なんで!?」


 ユキはプルプルと震えながら席に着き、そしてガサゴソとカバンを漁る。大きいリュックサックから出てきたのはスケッチブックだった。ユキはハアハアと息を荒げながら、血走った目で温かみのあるイラストを量産し出した。


「ストレス溜まったらイラスト量産すんのやめなさいよ!」

「ハア……ハア……」


 タキはユキを羽交締めにして、「そういえばさあ!」と話を逸らす。


「ユキがくれた絵本あるじゃない!? あれ、弟喜んでたよ! 昨日も読んで欲しいってせがんできて」

「え、本当? よかったあ、自信作だったから」

「よっ、未来の絵本作家様! 最早プロ! だから落ち着きなさい」


 ユキの将来の夢は絵本作家である。祖父は読み聞かせより武勇伝をするタイプだったから、ユキにとって保育園の先生が読んでくれた絵本たちは衝撃的だった。そこからは絵本の虜で、タキはそれを知っていて応援してくれている。


「まだ絵本なんか読んでんの? やめとけよ、そんな金にもならない子どもっぽい趣味」


 スケッチブックを掠め取られる。割って入った軽薄な声に、タキが不快感を露わにした。


「うるさいわよ、アキラ。さっさとその中途半端な襟足切って失せなさい」

「ウルフカットって知ってるか?」


 彼は中学からの腐れ縁だ。何かとユキに絡んでくるし、今のように趣味を揶揄ってくる。ユキはアキラが苦手だった。


「酷いこと言わないで、アキラくん。わたしはこれが好きでやってるんだから」

「悪い悪い。このチョコもらっていい?」

「駄目」


 アキラは驚いて目を丸くした。ユキは優しいから、こういう時はいつも「いいよ」と微笑む。

 そしてユキも自分で言っておいて意外に思った。けど、「勝手に1人にしてごめんね」と言ってくれたセイヤを思い出すと、どうしてもあげるのが惜しくなってしまった。


「どーしても?」

「もうチャイム鳴るよ」


 こてりと首を傾げられるが、ユキは一瞥もくれず、タキが奪い返してくれたスケッチブックをカバンにしまった。



「ユキちゃん帰ろー」


 放課後がやってきて、すっかり気を抜いていたユキは盛大に転んだ。


「おわ、大丈夫?」

「だっだいだだいじょぶ」


 セイヤはずかずかと教室に入り込み、慌てるでもなくユキに手を差し伸べた。ユキは恥ずかしさに首まで真っ赤にしながら視線を上げたが───


(……2つ?)


 差し伸べられた手は2つ。1つは今朝ユキの口を塞いだ大きな手、もう1つはスケッチブックを取り上げた節張った手だった。


「誰」

「そっちこそヤンキーがユキに何の用だよ」


 睨み合っている、というよりは、アキラが一方的にガンを飛ばしているように思えた。教室の端々からは小さな悲鳴が上がり、「アキラくん危ない」と女子が顔を青ざめさせている。

 ユキは座り込んだ姿勢のまま立てるに立てず、痛む鼻を抑えながら恐々と2人を見上げた。


「……まあいいか。ほらユキちゃん、手」

「はあ? 怖がってんだろ、どけよ。ほら、ユキ」



 ユキはこれに呆れた。2人が邪魔で立てていないのに、それに気づていない。膝に遅れて痛みが走る。タキはもう部活に行ってしまった。ユキは惨めで泣きそうな気持ちになり俯く。


「もしかして立てない? ちょっと触るね」

「え」


 ヒョイ、と効果音がつきそうなほど軽く、セイヤはユキを持ち上げた。脇の下に手を入れて、小さい子を抱き上げるような格好だ。放り出されたユキの足がぷらーんと間抜けに揺れていた。


「うわ、膝んとこ赤くなってんじゃん。安藤が裏門に車停めてっから、今日は車で帰ろ」

「……して」

「え?」

「降ろして!!」


 ワッ! とユキは急に暴れ出す。セイヤは「え、ちょ、あぶなっ」と飛んでくるユキのへなちょこパンチを交わした。


「ちょ、あぶねーって。止まれよ」

「こんなっ……!」


 ユキは羞恥と怒りで手まで真っ赤にしながら、潤んだ瞳を限界まで釣り上げて抵抗する。

 思い切り派手に転んだ後、赤ちゃんみたいに抱き上げられるのが我慢ならなかったのである。


「嫌がってんじゃん。降ろせよヤンキー」

「あ? だからお前誰だよ、」

「降ろしてって言ってるでしょ、セイヤくんの助平!!」

「助平!?」


 やや古い語彙で罵られたセイヤは、そんなこと初めてだったのでびっくりして目を丸くした。アキラもこんなに声を荒げるユキは見たことがなく、若干引き気味に「ユキ?」と声をかけている。


「誰が! 名前で呼んでいいって! 言ったの!」

「いや、そっちだって名前」

「わたしお前の名字知らない!」

「え」


 アキラがサラサラと音を立てて崩れていく。その隙にセイヤは暴れるユキを横抱きに抱え直し、「ごめんごめんイテテ」と頬をつねられながら、何とか家まで帰還した。



「ユキちゃーん」

「……」


 ユキは部屋に引きこもってしまった。

 多分、色々限界だったんだろうな、とセイヤは予想する。

 ただでさえ唯一の肉親が消え不安でいっぱいだったろうに、ヤクザの家に連れられ、会ったこともない男と結婚……そんな状況で落ち着けるわけがない。たまたま、感情が爆発した時にいたのがセイヤというだけだ。


(旦那冥利に尽きるね)


 セイヤはサングラスを外しながら、まんまるなお月様を見上げた。


「なんか、月の絵本なかったっけ。うさぎが死ぬやつ」

「……『つきのうさぎ』?」

「そう、それ。ハハ、絶対内容違うよな」

「……んふ」


 セイヤは優しい声で、「あ、笑った」と襖に近づいた。ユキは意固地になって「笑ってないもん」と返す。しかしその声は震えていて説得力がなかった。


「……ごめんね、八つ当たりして」

「いーよ。俺もデリカシー無かったみたいだし。親父に怒られた」

「……ね、何でセイヤくんは優しいの? 急に知らない女と結婚とか、嫌じゃないの?」


 ユキは思い切って聞いてみた。ユキは生活のためには必要だと割り切って受け入れた。が、セイヤはどうだろう、と思ったのだ。

 セイヤは一瞬黙った後、「実は」と気まずそうに切り出す。


「ヘビ見せたじゃん」

「うん。びっくりしたけど、可愛かった」

「……あれ、意地悪のつもりで」

「ええっ!?」


 ユキはあんまりにも驚いたから、勢いよく襖を開けた。

 バチリと目が合わさって、いつもはサングラスで隠れている月色の瞳が煌めいていた。


「見過ぎ」

「わぷ」


 顔を片手で覆い隠される。やはり朝も感じた通り、セイヤの手はユキの顔を軽々と掴めてしまえた。

 最後に視界に映った顔は、少し赤かったような───


「とにかく、意地悪のつもりだったんだよ」


 回想を打ち切るように、セイヤはやや早口にそう言う。


「でも手に乗せても動かないようにしてたから、意外といい子なのかもって」

「チョロ」

「なんか言った」

「何でもないです」

「そんで、朝もホラ、『気をつけて』って言ってくれたじゃん? あれけっこー嬉しかった。俺喧嘩強いからさ、そういう心配されんの新鮮で」


 やっぱチョロくない?

 ユキは色気のカケラもなくそう思い、同時に何だか母性が刺激された。「守らなきゃ」と無意識に思ったのだ。


「あとは普通に、仲良くできるんならしたいじゃん。お嫁さんになるんだし」

「……不満とか、ないの?」

「最初はあったけど、今は特に」

「そっか」

「ユキちゃんは?」

「……あるかな」

「いやあるんかい」


 この流れで?

 セイヤはユキの顔から手を外し、ビシッと空中にツッコんだ。暗闇に慣れた目だと、セイヤの肩透かしを食らったような表情がよく見えた。

 この日をきっかけに、2人の距離はグンと縮まった。


 登下校は一緒にするようになった。先生たちは「不登校のセイヤが来たぞ!」と色んな意味で泣いた。彼は留年してるらしい。

 連絡先の交換もした。今更だね、と笑い合った。

 もう一度ヘビを見せてもらった。3匹をイラスト風にスケッチしていたら、セイヤがそれを痛く気に入りステッカーにしてしまった。

 セイヤがユキの描いた絵本を見ることもあった。ヘビが出てくる話はないのかと聞かれたので、「次描いてみるね」と約束した。

 車では隣の席に座るのが当たり前になった。

 セイヤの仲間を紹介された。誰も彼も厳つい男だったが、「セイヤをよろしくお願いします。こいつサイコ入ってっけど」と頭を下げられた。

 勉強を教えるようになった。セイヤは地頭はいいがやる気がなく、「ユキちゃんが教えてくれたらやる」というので、ユキは根気強く教えてやった。

 カシラに「最近セイヤとはどうだ」、と聞かれて、「解ける問題なのに分からないふりするので困ってます」と言うと大爆笑された。その夜、セイヤの怒号が聞こえた。

 喧嘩に巻き込まれたりもした。本当に彼は強いらしく、一瞬で敵を伸した後、「ごめん」と抱きしめられた。

 巻き込んだお詫びに、と髪留めをもらった。ユキは毎日それをつけている。

 おはようもおやすみも自然になった。

 彼はもう、2人きりの時はサングラスをかけなかった。予想通り鋭い目つきだったが、ユキももう怖くはなく、むしろ気を許されているようで嬉しかった。


 3ヶ月が経っていた。とても濃い3ヶ月だった。


「待たせちゃってる、早く行かなきゃ」


 息を切らしながら走る。今日は久しぶりにタキと帰る予定だった。


「なあ、ちょっと待てよ」


 ユキは後ろから、最近聞く間もなかった声に呼び止められた。

 振り向くと、予想通り顔を顰めたアキラが立っている。彼に話しかけられていい思いをした試しがない。ユキは仏頂面で「何」とだけ返した。


「お前、まだあのヤンキーとつるんでんの?」

「ヤンキーじゃなくてセイヤくん。アキラくんには関係ないでしょ」

「いやお前、知らねーの、あいつの噂。やばい奴とも付き合ってるって聞くし、さっさと離れたほうがいいって」


 ユキはふんと鼻を鳴らして笑い飛ばした。

 この3ヶ月の間で何度も同じことを言われたが、とっくに全て知っていて、それでいて覚悟もしている。


「人待たせてるから」

「待てよ!」


 その場を立ち去ろうとすると、後ろから腕が軋むほど強い力で引っ張られる。その拍子にトートバックの中身が散らばり、描きかけの絵本のページが広がった。セイヤにリクエストされた、ヘビの絵本だ。


「またこれかよ」

「ちょっと、返して」


 アキラは本を拾い上げ、1ページ目からパラパラとめくる。最後のページを見終わり本を閉じると、顔を歪ませて笑った。

 それは何だか、泣きそうな顔にも見えた。


「『アキラくんへ』って、随分仲良くなったんだな」

「だから何。早く返して」

「騙されてんだよ、お前」

「セイヤくんはそんなことしない」

「するだろ。だって不良なんてクズの集まりだし」


 嘲るようにアキラが吐き捨てる。

 いつもこうだ。いつもアキラは否定する。彼は声が大きくて存在感があるから、周りの人も同調して、ユキのことを否定する。

 いつも笑ってやり過ごしてた。刺激しないように柔らかく否定していた。

 でも今日こそ無理だった。ユキは冷え切った頭で、視界が真っ赤に染まるのを感じた。



 バチィンッ!!

 と、いい音が鳴り響いた。セイヤは片眉をヒョイっと上げ、「痴話喧嘩か?」とスルーしようとした。

 が、ピタリと足を止める。


(もし、ユキちゃんがいたら?)


 そう考えてしまうと、どうしても無視する気になれなくて、音の方向に足を進めた。

 俺も変わったな、とユキを思い浮かべ笑いながら。


「ちょ、痛っ、やめ」


 まさか思い描いていた人物が、スケッチブックで男を殴り続けている場面に遭遇するとは思わなかったが。

 セイヤは無言無表情でアキラを殴りつけるユキを見て、一瞬思考がストップしたが、何とか我に帰りユキを羽交締めにした。


「離してっ」

「待て待て待て、何してんのユキちゃん」

「こいつがっ、ずっと、わたしの好きなのバカにするからっ」


 セイヤが止める間にも、ユキは顔を怒りで真っ赤にして足をばたつかせる。


「……なん、だよ。こっちは心配してんのに。オレはずっとお前のこと───」

「黙れ!!」

「黙れ!?」


 セイヤは驚いてユキが言ったことを反芻した。

 あの子、あんまり人に強く言えないのよ。だからアキラが調子に乗るんだけど。

 タキのそんな言葉を思い出して、セイヤはスペースパイソンになった。


「お前の好みはどうでもいいけどさっ。ロクに知りもしないくせに、人の好きなもの否定すんな!」


 そう怒鳴りつけたのが限界だったのか、ユキは暴れるのをピタリとやめ、とうとうセイヤの胸に顔を埋めて泣いてしまった。


「あいつ嫌いー!」

「きらっ」


 アキラは砂になった。彼の4年間拗らせ続けた恋心は、好きな女の子のたった一言によって粉々に破壊されてしまった。彼は結局、一度もユキに見てもらえず、向き合ってもらうことすらされないまま風に流されていった。



「んで、何言われたの」


 数十分後。何とか落ち着いたユキは、タキに予定をキャンセルする旨を伝え、セイヤと並んでベンチに座っていた。事情を聞いたタキは心配そうにしていたが、セイヤが電話をかわると「任せたわよ」と秒で切ってしまった。


「好きなもの馬鹿にされたんでしょ? 絵本?」

「ううん。そうだけど、それじゃなくて」

「じゃあ髪型? 前も言われてたし。おさげ可愛いのにね」

「ううん。ありがと」

「……俺察し悪いからさ、教えてくれない?」


 セイヤは困った顔で眉を下げ、申し訳なさそうに言った。

 好きなものなら分かるけど、馬鹿にされるようなものは思いつかない。

 ユキはうろうろと目線を泳がせた後、震える声で「セイヤくん」と言った。


「ん? なに?」

「だから、その、セイヤくん」

「? うん」

「……セイヤくん、が、好き」

「うん……うん?」


 セイヤはピシリと固まって真っ赤なユキを見つめる。

 もちろん、ユキから向けられる好意に気づいていないわけではなかった。そのつもりで接していたし。

 しかしまだ、両思いかは確信できなかったし、もっと時間かけて口説くつもりだったし、今のは完全に不意打ちだったし───


「何か言ってよ」


 ぐるぐると混乱する思考回路を回していると、ユキがやや拗ねたように口を尖らせた。


「セイヤくんって、セイヤくん?」

「うん。わたしの隣に座ってる人」

「……俺?」

「何回も言わせないでよ」


 じわりと顔を赤くするユキに、セイヤは心臓がバゴォンッと殴られたかのような錯覚に陥った。

 殴られた時より、骨が折れた時より、刺された時より強くて、それでいて感じたことのない甘い痛みだった。


「俺も、」


 言いかけて止まる。


(いや、こんなとこで泣いた後に告白とか、弱みに漬け込んでるみたいでダサくねえか)


 冷静な頭が、「もっとこう……ちゃんとしてやれよ」と囁いた。見上げてくるユキに、思わず口から「好き」とまろび出そうになるが、それを気合いで押し留める。


「……週末、遊園地、行こうよ。そんで観覧車乗ろ。夕方ね」


 セイヤは柄にもないことを、と自分で恥ずかしくなって、ユキから目をそらす。

 ユキはパチリと目を見開いた後、意図を理解してふわりと微笑んだ。

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