カミサマの憂鬱

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第1話

 ああ、イライラする……。


 平日の朝八時半。都心を走る電車はちょうどラッシュで、紗栄子の乗る山手線も例外ではない。赤の他人との体の押し合いにチャカチャカとうるさい音漏れは、ストレス以外の何物でもない。

 だが、一番腹立たしいのは、目の前の新聞だ。身動きすらままならない中、電車が揺れるたび、インクの匂いと共に紗栄子の鼻先をかすめていく。

 新聞の持ち主を睨んでみるも、二駅前に乗り込んできた女は悪びれもしない。新聞は経済紙で、それを持つ指先は華やかなネイルに彩られている。しっかりめのメイクも手伝い、女は自信に満ちているように見えた。

 女の持つ大きなブランドバックが当たるのか、背後のサラリーマンが迷惑そうにしている。この手のバックは皮が固く、当たると結構痛いのだ。

 自己中な女だと思った。きっと自分は特別で、『できる女』とか『勝ち組』だとか思っているのだ。だから、他人の迷惑を顧みることもしない。紗栄子がもっとも嫌いな人種だった。

 京浜東北線の快速に追い抜かれる風圧で車体がガタンと大きく揺れ、車内の人間のかたまりの体勢が一斉に崩れる。

 自己中女も体勢を崩し、いよいよ紗栄子の目の前を新聞がかすめた。

「痛っ!」

 紗栄子がわざとらしく声を出すと、女は驚いたような顔をして、軽く頭を下げた。実際、当たったわけではなかったが、女の自信にあふれた顔を曇らせてやりたかった。

 それが叶って、少しだけ溜飲が下がる。次の駅で女は電車を降りていった。

 その直後のことだった。右足の甲に衝撃が走る。あまりの激痛に、思わず口から嗚咽がもれた。見知らぬ誰かの靴で思いきりふんずけられたのだった。



 痛みにしびれる足で出社すると、見覚えのない女性が社長と談笑していた。

「出荷部の南主任ですよ。結婚退職されるから、その挨拶みたいです」

 アルバイトの百枝が、クッキーを食べながら、紗栄子に耳打ちした。

「え、南主任って、去年中途入社したばかりの人じゃない」

 南といえば、上層部の口利きで入社してきた社員だ。一度だけ挨拶で会ったことはあるが、出荷部のロケーションは別の場所なので、すっかり顔を忘れていた。

 それに、正直なところ、紗栄子は南を快くは思っていなかった。主任の地位が約束された中途入社は、新卒で入ってきた紗栄子のような平社員からすれば、平等とは言い難い。平たく言えば、ズルイと思っていた。

 そんな恵まれた立場の南が、わずか一年足らずで結婚退職とは。

「遠山さん、ちょっとモヤモヤしてます?」

 百枝がぷるんとした頬で、紗栄子をのぞき込んできた。まだ、もしゃもしゃとクッキーを食べている。

「べ、別に。ただ、ちょっと責任感なさすぎじゃない? お世話になっておいて、そんな簡単に辞めちゃうなんて」

「ですよねえ」

 本当は、すごくモヤモヤしていた。

 紗栄子は入社五年目だが、出世の道なんてまったく見えてこない。結婚どころか、彼氏すらいない。

 どうして仕事でもプライベートでも恵まれている人がいるのに、自分には何ひとつ回ってこないのだろう。

 紗栄子は首を小さく横にふった。そして、考えを改める。

 一見幸せそうに見える南だが、相手はそうたいした男ではないかもしれない。それに結婚だって今や三人に一人が離婚する時代で、いつまでもうまくいくとは限らないのだ。だとしたら、せっかくの安定した職を手放したことを、いつか後悔する日がくるかもしれない――いや、後悔すればいい。

「なんだ、遠山。先越されて悔しいのか。女の嫉妬は醜いぞー」

 声をかけてきたのは上司の村内課長だ。紗栄子はこっそりバカ長と呼んでいる。相変わらずデリカシーの欠片もない。

 反論しようとした紗栄子にバカ長は資料の束を突き付けた。

「作ってもらったこの資料、ちょっと僕のイメージと違うんだよねえ。悪いけど直して」

「なにが違うんですか?」

「うーん、そこは考えてよ。よろしく!」

 最悪だ。南もだが、この無能なバカ長こそどうにかなってほしい。そんな呪いみたいなことを考えていると、電話が鳴った。

 百枝はクッキーを口に詰め込みすぎて、すぐに電話に出られる状態ではない。いつもダイエットと言っているわりには、成功する兆しもない。結局のところ、だらしないのだ。

「はい、田中商事、営業二課でございます」

 仕方なく取り上げた受話器から、耳をつんざくような怒声が響いた。クレームだった。

 まったく、ついてない……紗栄子は息をもらした。

 

 

 

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カミサマの憂鬱 yue @y_kotonoha

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