6-5 アニサカの娘(第6話 完)

「そうか、竜に乗ったか」


 酒杯を手に窓の外を眺めながら、アーノルドは静かにつぶやいた。


「……時は来た。わしは、引退する」


 膝をつき報告を終えたケインは、背中越しのその言葉に嘆息する。ケインが立ち上がると、素早く侍従がその手元へグラスを運んでくる。

 安楽椅子に腰を掛けながら、いつもの威圧に満ちた視線がケインを射た。


「ケイン、お前、……アニサカ家を継ぐ気はないか」

「……爺さん、ボケるにはまだ早いだろ」


 向かい合って座りかけていたケインは心底呆れてアーノルドを眺める。どこまで明後日の方向で娘を可愛がれば気が済むんだ。さすがに、付き合い切れない。


「あまり口出ししたくはなかったけど、さすがに言わせてもらうわ。親父殿さあ、ベスがかわいいし心配なのは分かるよ。でも、あんたのやり方は、あの子を委縮させるだけで全然いい方向に行かないんだよ」


 アーノルドの表情は相変わらずだ。


「ベスはもう、心・技・体の揃った、この王国でも指折りの魔術師だ。魔術だけでなく、度量も統率力も、魔術師筆頭2家の当主として足りないところは何もない。もし彼女に足りないものがあるとすれば……それは、あんたから与えられる、自信だよ」


 ケインはため息をつく。


「あの子は、本人も気づいちゃいないけど、誰に対しても、根っこのところは遠慮がちなんだ。俺に当たり前のことを要求する時も、決死の覚悟の表情かおしてる」


 自分と愛し合いたいと言ったときの彼女の、冷えた指を思い出す。

 

「それは、あんたに認められたと思えたことがないからだ。俺たちにはどうやったってあの子に与えられないものを、あんたはずっと持っていながら、あの子に与えずにしまい込んでる」


 アーノルドの表情は、動かない。


「ちゃんとあの子を認めて、ほめてやれよ。ほんとはもうとっくに、認めてるんだろ」


 アーノルドは黙って酒杯をあおる。それからようやっと口を開いた。


「お前に娘を死線へ送り出す父親の気持ちが分かるか。儂が手を離せば、あの子は一人でこの国の魔術師たちの命運を背負わねばならん。……お前にその重さが分かるか」

「……そりゃ、ほんとのところは、分からないかもな」


 ケインの脳裏に、ベスの細い背中が浮かぶ。

 しばらく、沈黙が落ちた。


「……いや、世迷言だったな」

 突然、アーノルドの視線に力が戻った。


「儂の役目は終わった。ケイン。あの子を支えてくれ。いざとなれば、アニサカの家など、滅んでも構わん。だが、あの子を不幸にすることだけは許さん」


 突然爆弾発言をされ、ケインは目を白黒させる。


「いや……家が滅ぶとかないでしょ、普通に。……大丈夫だよ、そんなに心配しなくても」


 もしかして、アーノルドも元来は、割と繊細なのかもしれない。そんな思いがケインの脳裏をよぎる。

 やっぱり、親子だな。




「……ベス、入って来いよ。そこに居るんだろ」


 ケインは部屋の入り口に声をかける。静かに扉が開き、その先には、ふわふわの金髪に緑の瞳、人形のように美しいエリザベス・アニサカが立っていた。


「エリザベス」

 やや苦笑交じりのアーノルドの声。

「……こちらへおいで」


 ベスは静かに父の前へ歩み寄る。

 跪いたベスの頭に手を置き、柔らかく深い声で、アーノルドは告げる。


「エリザベス、お前はすでに、わしを超えている。……アニサカ家の家督を、お前に譲る」

 微かに背筋を伸ばした娘の美しい礼を眺めながら、彼は言葉をつないだ。


「お前を待っているのは、厳しく険しい道だ。だが、お前は一人ではない。常に自分の心の声と、伴侶の言葉に耳を傾け、前を向き進みなさい。……お前ならば、やり遂げられるだろう」

「……はい」


 こうべを垂れたエリザベスの声は、微かに震えていた。

 彼女はしばらくその姿勢のまま身じろぎもせず、部屋には静寂が満ちる。

 

 やがて顔を上げた彼女の瞳には、すでに涙はなかった。


「お父様、わたくしは、アニサカ家当主にふさわしい人間になります」

 にこりと父に微笑む。それはいっそ凄絶な笑顔だった。


「お父様は、あの湖で水竜と、のんびり釣りでもなさっていてくださいな」


「……それでこそわしの娘だ」


 アーノルドの大音量の笑い声が、屋敷中に響き渡る。



 さあて、これから儀式儀式で、忙しくなるぞ。ケインは胸に独り言ちる。


 アニサカ家には、活気に満ちたたくさんの笑い声が、いつまでも響いていた。



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魔術師学校異聞録 霞(@tera1012) @tera1012

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