第6話 大きな木の下で

6-1 ひまわり

 初めて金色のポワポワを見た時、かわいいなあ、と思った。何がって、そのポワポワを抱いてオレに見せに来たアーノルドの、満面の笑みが、だ。アイツのあんなキラキラした笑顔は、久しぶりだった。


 泣き虫アーノルド。オレの魂の友。初めて会った子供のころ、アイツはそれはまあよく泣いていた。でも、いつからかアーノルドは大声で泣きも笑いもしなくなった。ニンゲンというのは難儀なものだな、オレは顔を合わせるたび眉間の皺ばかり深くなる友の横顔を眺めて思っていた。まあ、竜と呼ばれる存在のオレには、分かりようもない世界だ。


 一度だけ、大人になったアーノルドが泣き虫アーノルドに戻ったことがある。その時アイツは、初めてオレに命令した。俺はアイツが元の顔に戻るまで数刻ほど、久しぶりにアイツを乗せて雲の上を飛んだ。夏の暮れかけた空は静かで、生まれたばかりの糸のような月が頼りなく浮かんでいた。金色のポワポワがいなくなったのだ、背中のアイツの抑えた声を聞きながら、オレにもそれが分かった。


 だから、次に金色のポワポワがオレの前に現れた時、オレは少々面食らった。しばらくして、それは前のとは違うポワポワだと合点した。その子をオレに見せに来たアーノルドの顔つきは、前の時とは大分違っていた。なんだかひどくまじめくさった顔のアーノルドと同じくらい、ポワポワも緊張している様子だった。


 オレはもちろん、そのポワポワも一目で気に入った。もともとニンゲンは嫌いじゃない。アーノルドの頼みなら、よほど気に入らないヤツでなければ、力を貸してやっても良いと思っていた。でも、そのポワポワがオレに向けて発した声は、オレには聞こえてこなかった。ポワポワは泣きそうな顔をしていたが、後ろに立っていたアーノルドは、困ったようなほっとしたような、複雑な顔をしていた。ニンゲンというのは難儀なものだな、俺はその時もう一度思った。



***


 待ち合わせのいつもの木陰で、寝そべった人影はピクリとも動かなかった。傍らに座り、ベスはその顔をのぞき込む。ぐっすりと寝込んだ夫の顔は、色濃い影に縁どられ、知らない人のようでぎくりとする。

 さやさやと湖畔を風が吹き、ベスのふわふわの金髪と、彼の短い赤毛が揺れる。思わずさらりと赤毛に触れると、彼は目敏く身じろぎをした。ゆっくりと目が開き、自分に焦点があってからの彼の表情の変化は、ベスの中をいつでも甘い歓びで満たしてくれる。

 幼児のような無垢な笑顔で、ケインはベスの指をつかんだ。


「ごめん、……寝てた」

「疲れてるのね。ナギお兄様、あなたをこき使いすぎよ。私がお灸を据えるわ」

「君のお灸はあの人には効きすぎるから、勘弁してやってくれ」


 ゆっくりの眠りの淵から浮上して、ケインの声はいつもの響きを取り戻す。


「……綺麗ね」


 ふり仰いだ大樹の枝には、白い花房がたわわに咲き誇っている。夏の鮮烈な日差しが花に照り映え、緑と白の光の奔流が視界を埋め尽くし、ベスはたまらず目を閉じた。


「これはえんじゅだよ。魔除けや幸福を呼ぶ木と言われてる」


 花が咲いているときに君がここに来るのは初めてか。ケインはつぶやく。その周りを、ひらひらと白い蝶がまとわりつくように飛び回っている。


「……えんじゅの花の精だ」


 起き上がったケインの周りには、いつものように湖畔の精霊たちが我先に集まって来る気配がする。木漏れ日とそれをかき回すようなキラキラとした光、その中で指先に白い蝶を止まらせ目を細める姿には、気圧されるような美しさがある。


「それ、きれいだね」


 ベスの手元のひまわりの花束に目を止め、ケインは微笑んだ。


「姉の一番好きな花だったの。……というか、姉はあまり他の花の名前とか、知らなかったんじゃないかしら」


 陽気な黄色い花束を眺め、思わずベスは吹き出す。


「だって、ひまわりが夏の花だということも知らなかったのよ。きっと、姉の周りの精霊たちが冬でも一生懸命ひまわりを咲かせていたのね」

「細かいこと気にしない、豪快な人だったからなあ。……お墓に供えるんだろ。遅くならないうちに、行こうか」


 ベスの姉、マーガレットが亡くなったのは、15年前、ベスが8歳の時だった。ベスにとって12歳年上の姉はいつでも、強く優しい憧れの存在だった。ちょうどこのひまわりのように、華やかでおおらかで、周りまで明るくする人だった。


「……今年も、先客がいたみたい」


 マーガレットの墓前には、すでにひまわりの花束が供えられていた。4本のひまわり。毎年、姉の命日に供えられているこの花束の贈り主に、ベスは会ったことはない。これからも、顔を合わせることはないだろう。いつも夜明け前に、その花は静かに供えられている。

 姉には生まれた時からの婚約者がいた。でもその人は、今は違う人を愛している。ベスは黙って、いつものようにその4本のひまわりの上に自分の花束を重ねる。

 4本のひまわり。花言葉は『あなたを一生愛し続けます』――マギーが、花言葉なんて、気にするはずもないのに。毎年、胸が痛くなるのは、私だけだわ。いつものように、ベスは微かに苦笑いをする。


えんじゅの花びらだな」


 墓石に乗っていた白いかけらをつまみ上げ、ケインがつぶやいた。



***


 皮肉な偶然なのか何なのか、自分の住まいの湖のほとりで、オレは二人の金色のポワポワ両方の逢引きに立ち会うことになった。


 一人目の逢引きでは、マーガレットはすぐにオレに気づき、ぺろりと舌を出して見せた。

「いやだ、ここ、あなたの棲家だったの?! ごめんなさい。……お父様には、黙ってて」

 彼女の声はいつもくっきりと俺に届き、俺の胸を躍らせる。彼女の相手は、魔力のかけらもない、ずいぶんとガタイの良い男だった。アーノルドが知ったら憤死しそうだが、小さいころからマーガレットの護衛をしてきた武人らしい。


「私、ナギと婚約解消すべきかしらね」


 マーガレットが消える少し前のある日、彼女は俺のくつろぐ湖に向かってつぶやいた。


「ナギとは多分、戦友として、うまくやっていける。優秀な子供を産む自信もある。結婚に求められている義務は、果たせるとは思うわよ。でも、やっぱりこれって、不誠実よね……?」


 迷っている彼女を見て、オレは実は、ほんの少しうれしかった。マーガレットのつがいになる予定の銀色の男が、俺は苦手だったのだ。他の人間には感じたことのない感覚なのだが、アイツの魔力はこちらが油断ができない何かがあった。


 もしこのまま銀色と番になれば、マーガレットはあの武人との思い出は、ここに穴を掘って埋めていくだろう。もちろんどちらが良いともオレは答えはしなかったが、彼女の答は、すでに出ているようだった。


 でも、その答が表に出る前に、彼女は永遠にいなくなった。


 それから毎年、彼女がいなくなったのと同じ日の夜、あの武人は湖畔の木の下で一夜を過ごす。約束の時間に彼女が現れなかったあの夜と同じように、その目は一晩中、じっと湖を向いている。オレは湖の中から、それを眺めている。ニンゲンとは難儀なものだな、と感じ入りながら。

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