03「鉄の空に浮かぶ影」


「やっぱりウソだったのかな。蒸気機甲骸スチームボットの気配もないし、誰かが居るとも思えない」


 廃墟となったダム施設。訪れる者はほとんどいない。建物の老朽化が著しいためか、スラムに住む者たちですら、ここを住処にするには不安があるようだった。

 そんな場所で油断しきって鼻唄を歌いながら階段を駆け上がっていると――。


「うわっ!」


 足元で何かにつまづき、コンクリートの地面に顔面を強打した。


「痛ッ……」


 盛大に転んだせいで、額に乗せていたゴーグルのガラスが見事に割れてしまった。


 咄嗟にその場でしゃがみ込み、飛び散ったガラスの破片を拾い集める。

 辺りを見渡せば、鉄製のロウソク立て、壊れた機械式時計、中身の綿が飛び出した人形――そんなガラクタの中に混じって、ゴーグルのガラスの欠片が転がっているのが見えた。それらを急いで革製のポーチに滑り込ませる。


「仕事中のことだし、ゴーグルの修理代って経費で落ちるのかな……」


 ぼやきながら、一斗缶を抱えて再び階段を上る。今度は慎重に足元を見ながら進んでいたものの、今度は頭上の錆びた鉄パイプに激突した。


「……ツイてないなぁ」


 転倒はしなかったが、ゴーグルの破損や予期せぬ怪我が続き、イライラが募るばかりだ。

 こんな時に「素数を数えると落ち着く」という話を聞いたことがあるが、生憎、僕は素数がどんなものかよく分からない。せいぜい、数字の314が『πパイ』と呼ばれることくらいしか知らない。


「……ππ、かあ」


 素数を数える代わりに、僕は適当にアルファベットをAから順に思い浮かべる。そして、どうでもいい妄想が頭をよぎる。下卑た笑みを浮かべたまま、ホップ、ステップ、ジャンプと階段を駆け上がり、屋上へ続く鉄板の扉を勢いよく押し開けた。


「やっぱ寒いなあ……」


 ダム施設の近くには巨大な換気タービンがあるため、屋上は風が強く、冷え込みが厳しかった。頑丈な柵に寄りかかり、一斗缶を足元に置く。缶の中から焦土石と浄化石を取り出すと、屋上の片隅に焦土石を放り投げた。


「ああ、暖かい」


 放り投げた石が熱を帯び、周囲をほのかに温める。それを見ながら手を擦り合わせ、寒さを凌ぐ。焦土石はその名の通り、熱を発する特性を持つ鉱石だ。水に浸していないと自然発火するらしく、貧困層にとって貴重な暖房手段となっている。


「こういうのって、便利だけど怖いよな……」


 焦土石は無害に見えるが、特殊な錬成水をかけた後に衝撃を与えると、白い爆煙を放つという危険な一面もある。

 僕はポーチから小瓶を取り出し、錬成水を焦土石に振りかけた。石は白煙を立ち上らせながら赤く燃え始める。


 柵に寄りかかり、屋上から街を眺めた。視界には様々な建築物が広がる。巨大なビームライトを振り回す建物、中世を思わせる時計台や街並み、そしてそれらを閉じ込めるように覆いかぶさる鉄製の巨大なドーム天井――。


「この世界へ着て十五年……ワクワクすることなんて、あんまり無いな」


 この世界に来たばかりの頃は、宙に浮かぶ車やホバーバイク、スチームボットやケモ耳少女など、すべてが夢のように思えた。それが今では日常の一部で、特別な感動を覚えることもない。


「四番街の婆さん、元気かな……」


 ぼそりと呟き、一斗缶の中から固形携帯食料を取り出す。包装紙を破ると、硬いブロック状のレーションが姿を現した。


「異世界転生したのに、十五年経ってもモテ期が来ない……」


 軽口を叩きながらレーションをかじる。十代未満や還暦を迎えた女性たちからは妙に好かれるが、それを「モテる」と言っていいのかは分からない。

 浮かぶのは「ππ」という単語。そして、前世から抱き続けたささやかな夢――それに向けた、どうしようもない妄想だ。


「ダメだ、ここ寒すぎる……」


 焦土石を手拭いで包み、一斗缶に収めると、僕はレーションの残りをポケットにしまい込み、浮遊型蒸気自動車に向かった。

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