ウェルカム・トゥ・コールドサマータイム

佐伯僚佑

ウェルカム・トゥ・コールドサマータイム

 そして人類は眠りについた。ごく僅かな南極越夏隊員を残して。

 南極越夏隊の通信技師、江川敬介は本土との通信を切った。ヘッドセットを外して椅子を回転させ、後ろを向く。

「これで最後だ。日本は全員眠ったよ」

 工学技師の六花セナは江川にコーヒーを渡した。ショートボブの黒髪が揺れる。

「お疲れ様。江川さんの前半戦は、これでおしまい?」

 江川は首をゴキゴキ鳴らした。

「まあな。セナちゃん、ようこそ夏の世界へ」

 セナにとって、これが初めての南極越夏隊だった。六度目となる江川は大先輩にあたる。

「みんな眠っちゃったら、江川さん、これから暇じゃないの?」

「俺は通信設備のソフトウェア担当だからな。毎日ここの設備チェックして、本土のシェルターの危機情報の監視もして、ま、そんなに暇でもない」

「ふうん」

 興味があるのかないのか、江川にとっては娘のような年齢のセナはいまいち感情が読めない表情でディスプレイを眺めている。そこには日本各地の夏眠シェルターの温度や電圧といった情報が羅列されている。

 七月一日。本格的な夏を前にして、世界中の人類は地下シェルターで眠りにつく。代謝を極限まで落とし、四か月間の長い眠りにつくのだ。

 地球温暖化が進んだ地球では、最早赤道付近は人が住めなくなった。その範囲はじわじわと広がり、歴史的背景もあって、人類の居住空間は北へ北へと追いやられていた。南半球は研究者か特殊な任務を帯びた人間しかいない。そんな彼らも、本国からバックアップを受けられなくなるこの季節は、大人しく眠りにつくか、南極越夏隊に合流する。

「来たよ。各国から続々と」

 江川のディスプレイには、メッセージが次々と着信していた。各国の越夏隊からの、本国入眠報告だ。

「これから、夏が始まるんですね」

 セナは灼熱の季節に起きているのは初めてで、否応なく胸が高鳴る。

 人類は地球温暖化を止めるため、大幅な電力使用制限を自らに課した。数年実施した結果、夏の冷房が大きなネックであり、それを止めない限りは過熱した地球環境は改善されないことがわかった。そこで国連は思い切った決議を通すことになる。

 人類ほぼ全員、夏の間は寝てしまおう、というものだ。冬眠ならぬ、夏眠プロジェクトである。

 折よく、医学とドローン、AIの発達によって、自らを世話する環境を整えれば、四か月間、健康に大きな害なく眠り続けられる技術が開発されたことも大きい。あまりにも技術開発のタイミングが良すぎるので、WHO(世界保健機関)が研究を進めていたと陰謀論が囁かれている。

 とはいえ、完全に全人類が眠ってしまっては、不測の事態に対応することができない。下手すれば絶滅してしまう。そこで、比較的涼しい南極基地に僅かな人員を残し。夏の四か月間、シェルターをモニタリングさせるのが通例だった。

 日本では南極越夏隊と呼ばれ、栄養士、通信技師、工学技師、医師、気象予報士、操縦士の六人が配置されている。その中でも、今年の女性隊員はセナ一人だった。

「セナちゃんも物好きだよな。本国の連中はグースカ寝ているってときに、俺らみたいな野郎どもとせっせと労働に勤しもうだなんて」

「だって、勿体ないじゃん。一年の三分の一も眠っているなんてさ」

 越夏隊顔合わせの際、セナは敬語が苦手だと宣言した。宣言通り、年上ばかりの越夏隊内でもタメ口を利く。最初は不機嫌そうにする者もいたが、セナのあっけらかんとした性格に絆され、また、唯一の女性隊員ということもあり、なんとなく許されるようになった。越夏隊の医師である桐山曰く、「いい才能を持っている」とのこと。同感だ。

 大学は工学部機械工学科、就職先も大手自動車メーカーの開発部門。日本の悲しい伝統なのか、工学は男心をくすぐるのか、大学入学以降、ずっと男社会で生きてきたらしい。決して愛想がいいわけではないセナが、適度に楽に、適度に心地よく周囲とバランスを取った処世術なのだろうと、江川は認識していた。

「三分の一くらい休んだっていいだろうによ。けどまあ、ここに来たのは悪くないぞ。ここは自由だ」

「自由? どこにも行けないのに?」

「うるさい上司がいないだろ。俺たちより上の立場の人間は、内閣総理大臣まで眠っちまったんだから。監視されているわけでもない。子供も、妻も、会社の後輩も先輩もいない。いわば、本来の俺でいられるんだよ、ここは」

 セナにはまだわからないかもしれない。父、夫、上司、部下、社会人も長くなると、そのときどきで違う顔を持つ必要が生じる。ここは珍しく、素の自分で仕事をできる。他の会社や官公庁から集まった、利害関係のない一時的な同僚。

「なるほど、わかります」

「お、わかる?」

 意外だ。

「私も、普段はかわい子ぶっておじさんにお酌したり、お局様を持ち上げたりしますもん。先輩から、南極越夏隊でそんなことしたら疲れるから素でいきなってアドバイス貰ったんですよ。たしかに、そういう意味ではここは自由です」

 おじさん、という言葉が江川の胸に軽く刺さった。二十代後半のセナから見れば、充分におじさんだろう。

 それにしても、本国で仕事をするときは違う顔をしているのか。少し、見てみたい気もする。

 

 工学技師としてのセナの仕事は、基地のインフラ整備である。ライフラインのチェック、故障時の対応、ときにはパソコンやサーバーの整備もやる。

 だが一方で、異常がなければとても暇であることもたしかだった。一か月経ち、仕事にも慣れてきた頃、セナは定期チェックを午前中で終わらせ、海を臨む岩場に椅子を持ち込んでいた。麦茶を入れた水筒をお供に、キラキラと輝く広い海を眺めて暇を潰す。

 江川も定期業務を終えたのか、セナの元へやってきた。

「何してんの」

「ビタミンDをつくっています」

「紫外線を浴びるのは大事なことだ」

 本気なのか冗談なのか、今どきの若者の感性はわからない。ただ、そろそろ二十歳になる娘と比べると、セナの感性はだいぶ理工系に尖っている。

 日光浴と言えばいいのに、わざわざ日光に含まれる紫外線によって体内のビタミンD生成を促進していると言わなくてもいいだろう。省略の仕方も、理系職ならわかるでしょう、という放り投げ方だ。理系といえど、なんとなく聞いたことがあっても、正しく反応できる人間ばかりではない。

 苦笑しながら横に並ぶ。

「何か見えるか」

「鯨がいたよ。尾びれが見えた」

「へえ、そりゃラッキーだな」

 温暖化が進んだことで、動植物相は大きく変わった。もう、南極にペンギンはいない。シロクマも絶滅した。地上が蒸し焼きになったせいで失われてしまったものが沢山ある。その一方、海中の生物たちは強かに生きている。南極と北極から溶け出した氷と膨張した海水で海水面が上昇し、海そのものが広がった。かつて人間が住んでいた国も、今は海の下となっていることがざらにある。海水温も海流も変わってしまったが、鯨は元気だし、イルカやサメも個体数が増えているという。強かなことだ。

「ここはいいね。いらない人づきあいはないし、生活費はただ。それに、世の中は今も寝ているだけだっていう優越感も堪らない」

 セナは椅子に座ったまま伸びをした。煌めく太陽がまぶしい。外にいても快適な気温の南極は、夏を満喫できる最後の地となっている。セナほどではないが、江川も同じような思いだった。

「今日の最高気温が25℃だっけ。こんな気持ちいい天気を味わえないなんて、本国の人たちは不幸だなあ。私、来年もやりたいかも」

「二か月後も同じことを言えたら本物だな」

 日本は夏。つまり南極は冬にあたる。実に快適だ。世界で最も涼しい地。まさに避暑地。

セナには、地下に籠って夏なんてなかったようにやり過ごすのが正しいとは思えなかった。

「間宮が言っていたぞ。明日から冷えるんだと」

 間宮は気象予報士だ。隊員の中で最も年齢が上。

「間宮さんって結婚しているの?」

「していなかったと思うぞ。言っておくが、頼むから任務完了まで色恋沙汰は持ち込まないでくれよ。途端にギスギスするんだから」

「しないって。男女を見たらそうやってすぐ恋愛に繋げるのやめた方がいいよ。私の恋愛対象が男だなんて言った覚えもないし」

「普段は言わないな。ここだから言うんだ。というか、なんだ、女が好きなのか」

「ううん、普通に恋愛対象は男だけど」

「なんだよ」

「男は対象外とも、女が対象だとも、私は言っていないよ」

「そうだな、俺の早とちりだ」

 数学の問題を解かされている気分になってくる。


 翌朝、セナは跳び起きた。

「さっむ!」

 吐く息が白い。腕が冷たい。時計を見れば午前五時。寒さで目が覚めてしまったらしい。

 慌てて上着と靴下を探し出して身につけ、自室を飛び出した。

「なんじゃこりゃ。冷凍庫が壊れたんか?」

 廊下に出ても冷気は変わらず、セナはすっかり叩き起こされた頭を回して管制室に向かった。そこには間宮が見る気象情報も表示されている。

 そして、愕然とした。外気温は―2℃を示していた。

「起きたか、セナちゃん」

 声に驚いた。振り返ると、江川が震えながら管制室の入口に立っている。

「間宮の予報が悪い意味で大当たりしたな。俺もこんな寒さは経験したことがない」

「マイナスの気温なんて、業務用冷凍庫以外で初めて見た」

「俺も、ガキの頃以来だな。風邪ひく前に、全員起こそう」

 江川の提案で、二人は他四人の隊員を揺すり起こし、全員が一通り同じ反応をし、できる限りの厚着をして食堂に集まった。なお、室内の温度は10℃である。

「すまない、これほどとは予想できなかった」

 気象予報士の間宮が謝った。

「いやいや、こんなの予想できないでしょ。間宮さんのせいじゃないっすよ」

 操縦士の立川がフォローする。

「すぐに体が温まるものをつくるね」

 栄養士の常森が立ち上がった。

「迂闊に外に出ない方がいい。出るときは最小限の時間で済ませろ」

 医師の桐山がクールに言う。しかし、歯がガチガチと鳴っていて格好はつかない。

「間宮さん、何が起こっているのか、説明してくれ」

 江川が薦め、間宮が頷いた。

「現在、南極大陸に猛烈な寒気が流れ込んでいる。この寒さはそのせいだ」

「どれくらい続く?」

「それが……今、大陸全体を取り囲むように気流が流れていて、寒気が大陸の上空をぐるぐると旋回している。この気流が解消されないと、いつまでもこんな天候だ。そしてこれは、本来の南極大陸の気流でもある」

「本来?」

 セナは思わず声を出してしまった。

「六花さんは知らないか。地球温暖化が進む前、僕が生まれるよりも前、南極は氷に覆われるほど寒冷な気候だったんだ。そのときの気流が、今と同じように大陸を取り囲むような形だったんだよ」

「じゃあ、温暖化対策が功を奏し始めたってこと?」

 当時の環境に戻っているのであれば、人類にとって嬉しいイレギュラーといえる。

「そう信じたいが、温暖化の結果生じた異常気象かもしれない。いずれにせよ、南半球は今真冬で、これから春に向かっていく。暖かくなるまで耐えるしかない」

 その日から大変だった。まず、これほどの寒気を想定した防寒着がない。屋外での機器チェックは毎回凍えそうになりながら行った。さらに、空調はどれだけ上げても温風を出してくれない。基地の設備マニュアルを読むと、想定されている外気温は10~60℃となっていた。氷点下がそもそも規格外なのだ。

「室外機があまりに冷却されて、不具合を起こしていると考えられます」

 セナは長袖シャツの上から体をさすり、報告した。こういうときの設備維持は工学技師の役目である。

「直せないの?」

 操縦士の立川が気楽に言う。場の空気を意図して和らげているのは明白だったので、セナも軽く、肩を竦めて返す。

「こんなケースは初めてで、やってはみますが、なにせ作業場所が外なので……」

 その場に溜息が漏れた。長時間の屋外活動は不可能だ。常に動いて発熱していないとあっという間に凍える。

「医師として、無理はさせられないな。幸い、屋内はまだマシだ。基地は断熱性が高い。全員が一か所、この管制室にいるようにするだけでも全然違うだろう。パソコンの排熱もあるしな」

 桐山の提案に江川が同意し、セナたちは管制室で寝食を行うことにした。それでもやっぱり寒い。

「ドライヤーをさ、ずっと吹かしておくのはどうかな」

 立川が提案するが、セナは首を振った。

「一時間くらいでオーバーヒートするだろうね」

「そっか、他には扇風機くらいしかないな」

「逆効果だね」

 年齢が近いため、セナと立川はよく話す。だが、セナも管制室で寝るとなっては、釘を差しておく必要がある。

「妙な目線の一つでも向けたらぶん殴るよ」

「勘弁してくれ。寒さだけで充分辛いのに」

 舐められない、調子に乗せない、気の有る素振りを見せない、勘違いは早い内に叩く。男を振り回すと面倒ばかり増えてしまうので、こうした予防が必要なのだ。

 立川に向かって言ったのは、一番冗談にしてくれる人だからだ。間接的に、他の連中に聞かせることが最大の目的。

 そんな努力もあって、二週間は文字通り身を寄せ合いながら乗り切った。

しかし、悲劇は別の場所で起こっていた。江川の元に、アメリカ越夏隊基地から救難要請が届いたのだ。

「どうしてそんなことに。アメリカ基地は最新設備でしょ」

 セナの疑問に江川が答える。

「最新だからこそ、寒さに対応できず、インフラが破損したらしい。奴ら、酷い隙間風で泣いているそうだ。うちの設備は何十年も使っているオンボロだが、だからこそ、寒い頃の南極を一応は想定した造りになっている。現に、壊れたのは空調だけで、壁や柱はしっかりしたものだ」

 アメリカ基地のピカピカ具合は、カメラ越しにしか見たことがないが羨ましかった。どうやら、新しいことが裏目に出た結果らしい。

「それで、うちに避難したいと言っている」

 管制室に探るような視線が行き交う。セナは鼻から息を吐いた。

「受け入れましょう。流石に可哀想です」

「だな。俺も賛成。人類一億、助け合わないとね」

 立川も乗り、江川が全員の顔を見渡した。

「よし、呼ぼう」


「Thank you for inviting! You’re ……」

「ウェルカム、ウェルカム」

 今、わからないから無理やり終わらせたように、セナからは見えた。

 江川は英語がさっぱりなようで、アメリカチームのリーダーの挨拶を適当に片言で対応している。セナの英語能力は日常会話に少し足りないレベル。立川はペラペラと喋っていた。

「トラックに、持って来られるだけの食料と水、燃料を積んできてあるそうです。残念ながら灯油はありませんが」

 基地の発電機はガソリンを燃料にしている。ストーブには使えない。そもそも灯油なんて持ち込まないので、きっとジョークだろう。

 アメリカチームは八人で、そのうち二人が女性だった。彼女らはセナを見るなり何事がまくし立ててきたので、「スローリープリーズ」と言って落ち着かせた。女性隊員は他国でも珍しいものらしい。

「女が一人で寂しくないかって言われているよ」

 セナが全く聞き取れていないことを察し、立川が翻訳してくれた。

「話し相手は男でも構わない。良くないことをされたら引きちぎるから大丈夫だよって伝えて」

「前半だけ伝えておくね」

 こうして新たな熱源を迎えた日本越夏隊は、夜でも10℃を上回る気温の中で生活できるようになった。まだまだ寒いが、持っている限りの服を重ね着し、手袋代わりの軍手を嵌め、靴下を二重に履けば凍死はしない。シャワーの時間が何よりの至福だった。

 アメリカ基地の端末は生きていて、リモートで接続することでアメリカのシェルターも監視できるようになった。江川がルーチン外の仕事に張り切っていた。

 そうして、任務終了まであと一か月となった十月一日。寒気は相変わらず停滞している。

 そんな日に、栄養士の常森が皆に言った。

「食料が足りなくなります」

 江川が目配せし、立川が通訳に回った。

「アメリカ基地から持ってきてもらった食料と日本基地が保有する食料だけでは、残り一か月を支えられません。桐山さんとも話しましたが、この状況で栄養失調になったら体温が下がって危険です。食事だけはちゃんと摂った方がいい」

 かくして、食料調達隊が派遣されることとなった。日本、アメリカは改造トラックを各一台保有しており、それで必要な物資をアメリカ基地から持ってくるというものだ。

 道中とアメリカ基地での作業は相当に冷えることがセナには予想された。トラックの中はほとんど外気と変わらない。車両の空調もほとんど機能しないと思われるからだ。

「一応、基地の空調とは違って、エンジンの排熱でヒーターが使えるからそんなに酷い寒さにはならないと思う」

「ヒーターなんてあるんだ」

「俺も使ったことはない」

 トラックには一度に四人乗れる。アメリカチームは無理やり八人押し込んで来たが、本来はピストン輸送するものだ。

「私、行きたい」

「こう言っちゃなんだが、力仕事になる。男が行った方が良くないか」

 江川の言うことは尤もだが、セナには考えがあった。

「アメリカ基地でさ……」

 言い終わると日本チームは苦笑し、アメリカチームは涙目で頷いた。


「すげえ、雪だ。雪が積もっている!」

 セナは威勢よく基地から飛び出した。途端に冷気に襲われ、車両までダッシュする。後に立川と江川、常森が続く。

「立川さん、早くドアロック開けて」

「お前が先走るからだろ」

 ぎゃあぎゃあと騒ぐ若手二人を見ながら、江川と常森は自分の体を抱いて話す。

「江川さん、本当にやっていいんですかね」

「ううん、でも非常時だしな。セナちゃんの提案は理に適ったものでもあるし」

 セナはバールを持っている。常森は心配そうにそれを見た。

「国際問題になったりしませんよね」

「少なくとも二週間は助けたわけだし、大丈夫じゃないか」

 ドアの前で震えるセナをからかうように、立川はわざとゆっくり開錠し、トラックは発進した。

 南極大陸に道路はなく、未舗装の悪路を進んでいくことになる。操縦士である立川は極力平坦な道を選びながら進んでいく。慣れない雪道だが、危なげない。助手席のセナはバールを抱いてうとうとしては、振動で目を覚ましていた。

「車のヒーター、いいね」

 江川が呟く。車内は昼寝したくなるくらい温まっていた。

「これを基地内で使えたらな」

「発電はできても、それを熱に変換する機器が基地には無いんですよね。エンジンは発熱しますが、この車両を基地に入れないといけません」

「まさか、基地内でガソリンを燃やすわけにもいかないしなあ」

「大惨事になりますね」

 会話が一区切りし、セナの意識が浮き上がってきたところで立川がぽつりと零した。

「南極越冬隊も、こんな風に問題にぶち当たっていたのかな」

「越冬隊?」

「起きたのか。昔の南極の冬は氷に覆われて船が近づけなかったから、孤立して基地内で冬を越す越冬隊がいたんだ。俺たちと同じような時期に、同じようにな」

「そっか、南半球は冬なんだっけ。どうして越夏隊に名前が変わったの」

 江川が後部座席から声を出す。

「南半球の季節の呼び方が、人類にとって重要じゃなくなったからさ。今の人類は北半球にしか住んでいないから、北半球の季節で呼ばれるようになったのさ。目的が変わったんだよ。南極の冬を越す任務から、本国の夏を見守る任務にな。だから越夏隊と改称したんだ」

 雪が深くなり、吹雪いてきた。視界も悪くなった頃、アメリカ基地が見えてきた。二年前に改築したばかりの新品である。しかし、暑さに適応させてしまったため、この寒気で破損してしまったお坊ちゃん基地。

 二台のトラックが基地そばに停車すると、常森をはじめとする補給班が倉庫に向かって移動する。一方で、セナと立川、そしてアメリカチームのリーダーは基地内に入った。

「本当に寒い。外と変わらないじゃん」

「マイナス、うわ、10℃だってよ。さっさと終わらせないと俺らが死んじまう」

 既に手がかじかみ始めている。手袋代わりの軍手ではこの冷気は防げない。

「キッチンどこ?」

 セナ達はリーダーを急かし、キッチンスペースに移動した。そこには、二口のIHヒーターが並んでいる。

 パン、とセナは手を合わせた。

「申し訳ありませんが、生き延びるため、壊させて頂きます」

 立川からは、食事を前に「いただきます」と言っているように見えた。セナの口元が僅かに笑っている。

 セナがバールをIHヒーターと土台の間に突っ込んだ。


「あったかいねえ」

 桐山は手をかざしてほっと息をついた。肩から力が抜けていくのがわかる。

 セナの提案は、アメリカ基地の設備で電気ストーブを作ることだった。使われていないキッチンのIHヒーターと食器を分解し、切ったり貼ったり配線し直したりすれば、電気ヒーターがつくれる。そこに扇風機で風を送れば即席電気ストーブになるというわけだ。かくして、アメリカ基地のキッチンは破壊された。セナ以外は気まずいものを感じながらも、背に腹は代えられない。日本基地に生まれた誘導発熱送風機は、無骨ながらも隊員たちの体を癒していた。

「これはオーバーヒートしないのか?」

 立川がセナに聞く。

「流す電流を調整してあるから、計算上は稼働させ続けても問題ないはず。常に送風しているから、機器にとっては常に空冷されているようなものだし」

「ふうん」

「ま、これから一か月世話していくよ」

 上機嫌なセナに対して、江川の頭には、これがどちらの国の資産として計上されるべきなのか、厄介な問題になりそうだと不安の芽が育っている。

 その後も何度か物資を運び、南極大陸に春が訪れた。


「任務ご苦労。シェルターの状況はどうだ」

 厚生労働大臣が画面の向こう側で、つやつやとした肌で喋っている。夏の休眠明けは、すこぶる体調が良くなる。一方で、画面のこちら側は隊員勢揃いで着膨れしていた。

 江川が報告する。

「全国各地、順調に起床フェイズが進んでいますよ。今日中には全員目覚める予定です。休眠中の死者は0.01%未満。例年通りですね」

「0%にはならないか。葬儀は秋の風物詩だな。ところで、どうして背後にアメリカ隊員がいるんだ」

「それについて、重要な報告がございます」

 江川の報告を聞いて、大臣が頭を抱えたことは言うまでもない。「君たちはよくやった」と絞り出すように言われただけでも、いい方だろう。

 背後では、アメリカ隊員も、なぜ日本の基地から報告しているのかを説明していた。さすがのホワイトハウス高官も笑顔が引きつっているのが遠目から見えた。

 今年の気候が異常なのか、これから毎年のこととなるか、それはわからない。例え人類出現前の気候に戻ったとしても、失われた生態系が戻るわけでもない。

 ただセナは、人類の努力が起こした嬉しいイレギュラーなのだと信じたかった。長年の努力の末、地球はようやく寒冷化に向かって進み始めたのだと。

 報告が終わり、江川が聞いてきた。

「どうだ、来年もやりたいか」

「またキッチンを壊していいと言われても、しばらくは御免被りたいです」

 セナは力なく笑い、江川も同じ皮肉な笑みを浮かべた。

「俺もだ」

 その日、人類は目覚めた。僅かな越夏隊員を除いて。

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ウェルカム・トゥ・コールドサマータイム 佐伯僚佑 @SaeQ

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