第六章 3

 十年前に世話になった医者ってのは何人かいたが、概ね体が良くなった後、毎日泣きわめいて怒り狂って物に当たり散らすような、時にはベッドに体を縛り付けてでもいなきゃならねえような、どうしようもねえ状態のガキに懲りもせず淡々と付き合ってくれたのは、まだ若い医者だったと思う。女だった。とにかく男が駄目だったから。病院の診察室で再会したのは、ちょうどその医者だった。いくら久々とは言っても、医者と患者がそのままの関係でまた会ったところで喜べることじゃない。ただ、どうせ世話になるんなら、事情をよく知ってる医者のほうがいい。そういう意味では、喜ばしいことではあったかもしれない。

 付き添いのマリアが、こいつが見て知ってる範囲で大体の経緯を話してくれた。今の俺は、あまり自分のことを自発的に話せる気がしなかったから、助かった。

「突然に記憶を思い出したから、混乱しているんでしょう。当時癒やしきれずに仕舞い込まれてしまった感情がありましたし」

「なあ先生、俺ナイフ取ってきたときのこと覚えてねえんだ」

 なんとなく気になって、言っておいたほうがいいような気がしたから伝えた。そしたら医者の眉根が微妙に寄った。

「覚えていない?」

「そう。あの事思い出してから、ずっと夢見てるみたいで朦朧としてるっていうか。今もそうなんだけどさ。眠りながら取ってきちまったのかな、とか。『体洗ってさっぱりしようかな』って思って、部屋出たところまでは覚えてんだよ。でも、ハッと思ったらそのときにはナイフ片手にぬるま湯浴びてたんだ。うっかり寝ちまって、その間にやらかしたのかと思って。夢遊病っていうの?」

「……夢遊病……」

 医者はなにか深刻そうなことを知ったみたいに呟いた。それで、マリアに質問した。

「言動に一貫性はありますか? 人が変わったようになったりだとか、そういったことは?」

 マリアはたぶん俺の様子を思い出して、考えて、慎重な感じに答えた。

「ナイフを持って浴室にいたことに驚かされたくらいで、それ以外に気になったことは、私の見ている範囲では……、無いです。むしろ、あまりにもいつもどおりで、却って戸惑うくらいで」

「なんでこんな事してんだ? って思ってるけどな。体を乗っ取られたみたいな感じだよ。俺の真似するの巧いから、傍から見てたら分からねえだろうな」

 まただ。なんで俺はこんな事を言っているんだろう。いよいよ頭おかしいやつだ。まあ、だからここに来たんだが。昔のことを思えば、よっぽど話は通じてるだろう。俺は自分でめちゃくちゃおかしな事を言ったつもりだったが、医者は全く驚いた様子もなかったし、むしろ何かの手応えみたいなものを感じたような雰囲気だった。

「他の誰かを知覚している? それはあなたの中にいるの?」

 そんなことを訊いてくるんで、『何言ってんだこの医者』って思っちまった。他の誰か?

「他の誰かって、俺だろ。幽霊にでも取り憑かれてるって?」

「あなたの体を乗っ取って行動する誰か。その人と、会話はしますか?」

「話になんてならねえよ。後ろの方で文句言ってるのは分かるけど」

「後ろとは?」

 誘導されてる。自分でも気づいちゃいるけど、意識しないようにしている部分。これを知ったら、たぶん周りは俺がいよいよ狂っちまったと思うだろうから。隠しておきたい、そのために自分自身でも知覚したくない。でも、きっとそれじゃあ駄目なんだ。俺は自分の知らぬ間に何事かをやらかす。それを回避したいなら、自分を把握しなくちゃならない。

「後ろっていうか、だからそれは……。……うん、……頭の中かな」

「それじゃあ、今私と話しているのは、体を乗っ取って話し掛けてくる人?」

「……分かんねえ。ていうか、どっちが本当の俺なのかなって……、思う」

「どちらもあなたかもしれない」

 医者はなんとなく控えめな感じで言った。そして俺の顔色を伺うみたいにしてこっちを見る。

「今、私の言葉を受けて、不快に感じましたか?」

「……いや、なんていうか……。ずっと仕舞い込んでた本当の記憶と、俺が作った嘘の記憶があるじゃん。だから思うんだよな。今の俺って、どっちの延長線上にいるんだろうって。十年ぶりに目が覚めた本物なのか、嘘の俺なのかって」

「『嘘の君』はいないと思うよ。だって、あなたはそれで十年も生きてきたんだから。人生の半分。どっちも本物じゃないの?」

「そしたら、本物が二人もいるじゃん」

「いけない?」

「おかしいだろ」

「他人と比べておかしいと感じるかどうかより、君にとってその状態が苦しいかどうか、じゃない?」

 医者の口調が崩れてきた。昔みたいな感じだ。そうだ、この人こういう感じだったっけ。

「……気持ち悪い感じはする。現実感がないから。あと、知らねえ間に何かやらかしそうで怖い」

「なるほどね」

「俺、十年前より厄介なことになってねえか。あの頃は――、まあ、あの頃も大概だったか」

 医者は椅子を回して俺の方に体を向けた。

「君があの頃よりも辛いのなら、あの頃よりも厄介なのかもしれない。そういう状態になった原因は、十分思い当たる。『こんな事があって、つらいから忘れたい』ってね、本当にどうしようもないときは、人間って忘れられるんだよ。頭がいい生き物だから、もっと高度な事もできる。『これは自分に起きたことじゃない』って、記憶とか、感情とか、そういう自分を苦しめるものを自分自身から切り離す。そうしたら他人事になるでしょ」

「そりゃ無責任だな」

「正当な自己防衛反応だよ。じゃあ訊いてみようか。例えば、十年前に体験したことが君じゃない誰か親しい人に起こったことだったとして、その人が『他人事だ』と思うことでなんとか苦しみを和らげていられるときに、君は『無責任だ』ってその人に言えるの?」

 そういうふうに訊かれちゃあな。酷じゃねえか。俺には言えねえさ。でも俺は自分には平気で言えちまえる。なんでだろう。他人に言われるより先に自分で言っておいて、なあなあにしたいのかもしれない。分かってるから言ってくるなよ、って具合に。『無責任だ』って誰かに責められるより、その方がマシな気がするから。

 結局、医者は俺の様子を詳しく見たいらしいし、俺も自分が何をやらかすかっていう不安があったから、ちょうど空いてた一人用の病室でしばらく過ごすことになった。

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