第六章 2

 いつものように、〈星の砂〉に集まって今後の予定について話し合う。アンドレーアが加わったのもあるだろうし、親父の見立てが具体性を帯びたのもあるだろうが、いつもより真面目な雰囲気で、いつもより長引いた。いずれにせよ、俺がやることに変わりはない。

 そういや、前にアンドレーアから『なんでそんなに古代語に詳しいのか』って聞かれたっけ。誰に教わったのか、あのときは曖昧だったが。

「なあ、親父。昔あいつに貰った古代語の帳面って、どこにいった?」

「見るのか」

「あれば役に立つだろ」

「俺の部屋にある。お前が持っておく気があるなら返すさ」

 なるほど、隠しておいてくれたわけだ。あの雑多な本棚に紛れていたら分からねえだろうな。

 それと、ディランのことをエロイに間違えて怯えちまったんだった。ちゃんと謝ってなかった。いつもなら同席してるのに、今日は別のやつのところにいる辺り、やっぱり俺に気を使ってるんだろう。或いは本人が気にしちまってるのかもしれない。とりあえず、一言声掛けとくくらいはしておいたほうがいいはずだ。

「おい、ディラン」

「どうした?」

 いつもどおりだな。こいつももう兄貴と同い年になったのか。そう思うと、あいつは随分若く死んじまったんだなと感じる。俺もあと十年したら死んでるってことだ。

「さっきは悪かったなと思ってさ」

「ああ、その事か。気にしてないよ。それより、お前のほうが平気かと思って」

 俺の心配か。やっぱり兄弟だな。こいつが今、死んじまった兄貴に対してどんな思いを抱いているのかは分からねえ。けど、俺が知っている限りでは、兄貴のことを尊敬して、憧れてたはずだ。多分、昔の俺と同じような具合で。

「調子悪そうに見えるか?」

 平気そうにしか見えねえだろ、と思って訊いたら、案外ディランは慎重だった。

「今のところは大丈夫そうに見えるかな。俺の目には」

 なにか、見透かされてるような気がした。平気なはずなんだ。現に、そこまでおかしな言動はしてないはずだ。少なくとも、傍から見れば、俺は今までと概ね変わりなく振る舞ってるように見えるはずなんだ。なのに、どこかでやっぱり大丈夫じゃねえって騒いでる自分がいる――、ような気がしてる。ずっと胸の中で多足虫が這い回ってるような、詰まってるような気持ち悪さがある。でも、こいつを取り除いたら、なんとなく自分が狂っちまいそうな予感がするから、どうにもできない。そうさ、平気じゃない。具合悪いんだ。でも、それが言えない。そんなふうにも振る舞えない。

「なんだよ、何ともねえし、何ともならねえよ」

 ほら、『本当は調子悪い』って言えねえ。『正直、無理してる』って言えねえ。俺の口と体は、さも俺が何ともないように振る舞うのが上手くて、俺が言いたいことを言わせちゃくれねえし、俺が辛気臭く悄気しょげかえったようにすることもさせてはくれない。いつもみたいに、あっけらかんとして、陽気なように振る舞わせる。まったく自分の言動を制御できていない。けど、たぶんこの方がいいのかもしれない。怖いだの嫌だの、消えたい死にたい殺したいなんて騒ぎ始めたら、周りも俺も困っちまうから。


 話し合いも終わって、腹ごしらえも終わって、自分の部屋に行った。俺はなんとなく、部屋の中にあるものを片っ端から手にとっては眺めたりした。なんでだか、やっぱり変な感じがして仕方がない。棚に並んだ帳面を開いては、それを書いたときのことを思い出す。借りてきた本の内容を写したこともあれば、その日その時に思いついたことを乱雑に書き留めたこともある。覚えている。なのに、俺が書いたと思えない。俺の文字だ。確かめるために、同じ文章を適当な場所に書いてみた。同じ文字だ。間違いなく、俺が書いた。なのに、なんでそう思えないんだ。

 気持ち悪い。実は、俺は幽霊なんじゃないか。まだ生きてるって勘違いしてて、実際は妄想の世界の中にいるんじゃないだろうか。ああ、だとしたら、いつ死んだんだろう。ついこの間だろうか。それとも十二の時か。いや、本当は親父に拾われた時点で死んでたのかもしれない。だって、ありえないだろう。ジュールからキュアス諸島まで何百マイルあるか。木の小舟で、そんな距離を流れてこれるもんか。ああ、そうだ。本当は死んでたんだ。昔『幽霊』なんてからかわれたのは、そういうことだったんだ。

 ……馬鹿らしい。変なことばっかり考えちまう。帳面を放り出して、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。北側の小窓から、琥珀色の夕日が細く入り込んでくる。俺の腿に当たって、暖めてくる。

 疲れた。このまま眠っちまおう。夢を見るだろうか。昔に何度も繰り返した酷い悪夢でなければ、何でもいいや。


 ぬるま湯を浴びながら、俺は立ち尽くしていた。ただ、体を清めようと思ってやってきたはずの浴室で、なぜか俺の手にはナイフが握られていた。これはマリアが仕事で使っている、肉を切るためのものだ。俺はいつ、これを持ってきた? 記憶にない。これをどうしようと思って、こんなところに持ってきたんだろうか。なんて思いながら、嫌な予感を覚えていた。

 切り落とすために持ってきたんだ。何をって、分かってるさ。嫌で仕方がないんだろう? ああ、でもそんなものを切るのに使ったら、このナイフはもう料理作りには使えない。

 脚の間にぶら下がっているものに、刃を添えた。良く手入れされてるから容易に皮膚が切れて、血液が滲み出る。頭の上から降り続ける温水に混ざって、赤色が流れていく。薄皮を切ったくらいじゃあ痛かない。が、もっと深く刃を押し込んだらどうなるだろう。切り落とすより前に、俺の意識が飛んじまうかもしれねえ。すっぱり切り落とせないで、半端に繋がったまま生きてたら、どうなるんだろう。病院は『それ』をどうするだろう。切れたところを繋ぎ合わせて元に戻すか? それとも潔く切り落としてくれるだろうか。どっちにしろ、俺はたぶん意識を保っていられないから、『こうしてくれ』って頼むことはできないだろう。

 薄皮一枚。それ以上刃が進まない。なあ、おい、ビビってんのか?

「レナー。着替え持っていかなかったでしょう。置いておくからね」

 マリアが来た。ああ、やべえ。こんな事してるってバレたらなんて思われるだろう。頼むからどこかに行ってくれ。

 なんて俺の懇願も虚しい。曇ガラスの扉一枚、向こう側に透けているだろう俺の影は、あいつにどう見えたんだろうか。俺をいつまでもガキだと思ってる、無遠慮なやつ。いや、そもそも、いっつも裸で家の中を歩き回ってるのは俺だ。すっかり慣れちまってんだから、どうってことないんだろう。

「レナ、大丈夫?」

 向かい合った鏡に、扉から覗くマリアの顔が映った。ああ、俺はなんて不気味な表情をしてるんだ。まるで無愛想な、肌色を塗り忘れた人形みたいだ。背後の褐色の瞳が見開かれて、扉は壊れるんじゃないかって勢いで開いた。

「何してるの!」

 そういや、こいつの大声なんてあんまり聞いたことねえや。なんて、どうでもいいことを思いながらも、俺の感情は俺の遠くにある。自分が何を考えてるのか分からない。

「……気持ち悪いから」

 やけに乾いた俺の口がそう言った。気持ち悪いから、無くしたいんだ。

 マリアが重たげな息を吐いた。なあ、呆れたか? 俺は呆れちまったよ。何してるんだろう。

「……渡しなさい」

 素直に従った自分自身を意外に思う。まあ、こいつの目の前で続行するのも酷え話だから、賢明な判断だ。

「……あんたが、こんなことする必要ないでしょう」

 受け取ったナイフを背後に隠して、マリアは諭すように言ってくる。俺もそう思うんだけど。

「気持ち悪いんだよ。自分が雄だって思うと、反吐が出そうになる。人だって所詮動物だ。理性なんてものがなけりゃ、そこらじゅうで発情しておっぱじめやがる。元々、そういう生き物だからな。そんなこと考えちゃいねえみたいな態度してたって、実際のところは考えてんだよ。……本当、気持ち悪い生き物だ」

 淀みなく俺の口から発せられるのは、性的欲求に対する嫌悪。それを抱く生き物への嫌悪。そしてそれを隠す手段を持ちながらも、その下ではやはり抱いているに違いない『人間』を嫌悪する言葉だった。

 思い出したから覚えてる。俺は入院している間、大人になりたくねえって喚いてたんだ。一年の間に声が低くなってきて、ああ嫌だ嫌だと騒いでた。雄としての生殖機能を備えちまうのが嫌だった。どうにかして止めてくれって医者に懇願した。けど、それはできないって言われて、喚いた。マリアは良くて、俺は駄目なのかよって。『大人になったときにきっと後悔する』って言われて、『その大人になりたくねえんだ』って反発した。結局、どれだけぐずっても無理で、俺はとうとう自分の体が雄として完成しちまったのを知った朝に、たぶん、何かしらの感情を消したんだ。それで退院ができた。俺の中に存在する不快なものを殺すことに成功したから、俺は楽になれた。けど、今はそれが蘇ってくるかもしれない恐怖に襲われてる。

「……レナート、病院行く?」

 薄皮切ったからって、そんなのは病院に行くほどのことじゃねえ。俺の精神状態がどうにかなってるから、こいつは勧めてきたんだ。多分、また暫く入院でもしていた方が良いんだろう。

「自分が何しでかすか分からねえ。……自由じゃない方がいいのかもな」

 俺はそう言った。これは確かに俺の意思だった。

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