第五章 3


 水音に包まれながら意識が戻った。目に見える光景を眺める。深い枝葉が囲んだ空は藍色で、真ん中で白い満月が輝いていた。夜なんだ。

 急に寒気がして、俺は飛び起きた。崖から落ちたんだった。あれからどうなった? 服がびしょ濡れだ。きっと、この川に落ちたんだろうって、すぐ近くの清流を見て察した。兄貴は? 一緒に落ちたなら、近くにいるはずだと思って、慌てて周りを確認した。

「……目が覚めたか」

「あ、兄貴……」

 俺は言葉をほとんど忘れた。兄貴は脱いだ上着で脇腹を押さえていたけど、覆いきれていないところが、赤く焼けている。今も、小さな火がその火傷の範囲を広げてるみたいだ。これはなんだ? どういうことなんだ……。

「兄貴、それ……、燃えてるの?」

「ああ……、水では消えないんだ。古代人の罠に掛かっちまったみたいだな」

 あの石版、俺が近づいたら反応したんだ。

「俺のせい……」

「何言ってんだ。何も悪いことなんかしちゃいないだろ」

「でも……」

「気にするな。大丈夫だから。じきに助けも来るさ。……ただ、少し流されちまったから、明日中には難しいかもしれんが……」

「でも、兄貴……! それ、早くなんとかしなきゃ」

 死んじまう。

「そうだな……。どうしたらいいんだろうな……」

 また寒気がして、体が震えた。怖い。

「ああ、服は脱いで乾かしておけ。水に熱を持っていかれるから」

 兄貴の言うとおりにした。この辺りは昼は暑いけど、夜は結構冷える。脱いだからってあったかくはならないけど、さっきよりはマシだ。

「こっち来な。くっついてりゃ温まる」

 また兄貴の言うとおりにした。大木の根本に寄りかかってる兄貴の横に俺も座り込んで、兄貴の腕に体をくっつけた。

 熱くてびっくりした。兄貴、すげえ熱が出てる。

「兄貴、水飲んだほうがいいんじゃない?」

「ああ、さっき飲んだ。その震えが落ち着いたら、ちょっと持ってきてもらうよ。いい水だから、お前も飲んでおきな」

「うん……」

 月が森の中に隠れていく。辺りが暗くなっていく。怖い。

「大丈夫だよ、ちゃんといるから」

 兄貴が言ってくれる。でも、俺なんにもできない。荷物もなくなっちまった。夜が明けたら、木の実とか探してこよう。


 気づいたら朝になっていた。少し眠っていたみたいだ。

 でも、兄貴は一睡もできなかったらしい。火傷が広がってる。今も赤い火種が、じりじりと皮膚を焼き焦がしてる。兄貴は横になって、時々呻いてる。早く、誰か助けに来てくれよ。

「兄貴、布洗ってくるよ」

「……ああ、頼む……」

 声に力がない。預かった布は、血で汚れてた。赤い色素と黄色の液体が大量に染み込んでて、嫌な臭いがした。俺は川の水でそれをできる限り洗い流して、冷たい水を含ませて、兄貴に返した。それから、近くに生えてた大きな葉っぱで作った器に水を汲んで、飲んでもらった。

「……大丈夫か? 腹減ったんじゃないか」

「俺は平気……」

 だけど、兄貴が平気じゃない。なのに、俺の心配ばっかりしてる。朝のうちに服は乾いたから、それ着て、なにか食べるものを探してこよう。果物とかがあればいいけど。


 柑橘の木が、運良く近くに生えていた。皮が緑で酸っぱいかと思ったけど、齧ってみたら甘かったから、何個かもいで帰った。

「兄貴、これ美味しいよ。食べてよ」

「ああ……、そうだな……」

 俺は果物の厚皮と薄皮を剥いて、身だけにして兄貴の口に入れた。

 そうしたら、兄貴は激しく咳き込んだ。内臓ごと出てくるんじゃないかってくらいの勢いで口から真っ赤な血が吐き出されて、鼻からもとめどなく鮮血が滴った。

「兄貴!」

 兄貴は木に寄りかかって、荒い、水気まじりの呼吸を繰り返す。

 火傷が胸まで広がってきてる。どうしたら、この火を消せる? 兄貴の皮膚がどんどん焼けて、溶けていく。きっと、皮膚だけじゃない。体の中も焼かれてるんだ。俺はそれを見ていることしかできない。

 石版に近づかなきゃよかった。でもなんであんなふうになったのか、俺にはわからない。

 兄貴はもう、話しかけてもほとんど返事をしない。そりゃそうだ。ずっと体を焼かれてるんだ。さっきまで話せてたのが不思議なんだ。俺が怖がってるから、無理して平気そうに振る舞ってたんだ。

 でももう、そんな余裕もないみたいだ。

 また日が暮れる。助けが来ても、兄貴は助かるのか? この火の消し方を、誰か知ってるのか? 早くしなきゃ……。


「殺してくれないか……」

「……兄貴……」

 夜中、ずっと黙り込んでた兄貴は掠れた声で言った。もう、首まで焼けてしまった。あれからずっと、鼻からの出血は止まらない。体中の血が無くなるまで、止まらないのかもしれない。

 きっと、すごく痛くて、苦しいんだろうって、思う。けど、俺は兄貴のこと殺せないよ……。

「なんで……、まだ生きてるんだ……。もう、気がどうにかなる……」

「兄貴ぃ……」

 俺は不安でしょうがなくなって、兄貴の近くに這っていった。溶けた肌を見るのが怖くて、焼ける臭いが嫌で、少し離れてたんだ。

 兄貴の濁った瞳を見て、また怖くなる。兄貴の右手が俺の顔に触れる。

「……俺は……、もう死んだよ……」

「生きてるよ……?」

「……いいや、……死んだ」

 いやだ。そんな怖いこと言わないでよ。抱きつきたい。けど、そんなことしたらきっと兄貴はすごく痛いだろうから、できない。

「はは……」

「兄貴?」

 急に笑いだした。どうした?

「は、はは、ははは!」

「兄貴!」

 どうかしちまった? もう、だめなのか?

「……え?」

 月が見えた。まだ、満月の日を過ぎたばかりの、まんまるの月が。それと――。

「兄貴……?」

「ははは! おい、レナート、見ろよ、この様を! 酷いもんだ! もうじき全身が溶けて、皮なし人間になっちまう! それでも死ねねえってのか!? そんな馬鹿なことがあるか!」

 兄貴は俺の肌着をたくし上げて、体にまとわりつく火種を押し付けてきた。でも、俺は焼けない。熱くもない。ただ、発熱した人間の温度を感じるだけだ。皮膚がなくなって、漏れるばっかりの兄貴の体液がまとわりつく。それは、生きてる人間からはするはずのない臭いで、俺は吐きそうになった。

「兄貴、横になろうよ。大丈夫だって、なんとかなるよ……」

 俺はようやく、それを言うのが精一杯だった。兄貴は無言で、俺の上にかぶさりながら、俺を見下ろしていた。瞬きもしないで。一瞬、死んでしまったんじゃないかと思った。

 いや、……やっぱり死んじまったのかもしれない。兄貴が言ったんだから、きっとそうだったんだ。


 痛い。怖い。痛い。熱い。

「嫌だ! 兄貴! やだ、嫌だあ!」

 俺は喚くことしかできない。力で敵いっこないんだ。兄貴が置いて行っちまったこのでかい体をどうにかするなんて、無理だ。

 痛い。体を串刺しにされてる。兄貴の顔が焼けていく。俺の体が、内側から兄貴の体に焼かれる。

「いたい、よ……、あにき、ぃ……。うっ、あ、あぁ……」

 何度も何度も……、何度も何度も何度も何度も刺し貫かれる。血のにおいが内側から迫り上がってくる。

 顔の下半分まで焼けて溶けた兄貴の顔が、俺の視界いっぱいに広がってる。血走った目。濁った瞳。飢えた野犬みたいに、血が混ざった唾液を垂れ流し続ける口。未だ鼻から滴り続ける鮮血。

 血、血、血。命の色が、生き物から溶け出して、飛び散って、降り掛かってくる。

 こんなの、兄貴じゃない。

「やめて……、もうやめてよ……」

 やむわけない。これは死にかけの人間の雄で、兄貴じゃないんだから。

「ごめんなさい……、許してください……。ねえ、許して! お願いします! もう許してください! 助けて! 誰か、助けて!」

 助けは来ないさ。俺が悪いんだ。

 俺が、兄貴を殺したから。

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