第二章 4

 エクアロの通りを抜け、路地に入った。もう街灯が点いている。ここからでは建物に遮られて水平線が見えないが、たぶんもう太陽はその辺りにいるんだろう。なんなら、少し下の方を海に浸らせているかもしれない。

 俺は今日を振り返りながら、緩い坂を下っていた。隣を歩いているはずのリオンの姿が消えたことに、すぐには気づかなかった。俺も少し疲れていたのかもしれない。はっと驚いて後ろを見れば、十数歩分くらい離れた場所で、リオンが建物の外壁にもたれていた。

「どうした、足痛めたか?」

 歩み寄りながら訊ねる。履き物も新調したので、そのせいかと思った。そのくらいのことであってほしいと思った部分もある。リオンの顔は蒼白で、息は細く浅い。

「目眩か? 荷物貸せ」

 俺はリオンの腕の中からもう一冊の本を抜き取って、石畳に座らせた。丁度真上に街灯があった。もっと頭の位置を低くした方が良いかもしれない。俺は腰巻きにしていた日中の日除け用の薄い上着を地面に敷いて、リオンを横にさせた。目眩なら暫くすれば治まると思った。

 だが、リオンの顔色は街灯の粗末な光の下で見ても明らかに悪くなるばかりだ。どうも目眩ではなさそうだ。

「どこか痛えのか?」

 リオンは頷いた。そうか、痛みだったのかと納得して、それじゃあこうしていても治まらないかもしれないと思う。リオンが背を丸めて唸った。白い手が腹部を押さえつける。腹痛のようだ。食い物に当たったのか? やっぱり油っ気が強かったんだろうか――。

 なんて思ったところで、リオンの白いローブが汚れているのに気づいた。腿のあたりの染みが、少しずつ広がっていく。街灯の明りを頼りに観察して、血液だと理解した。

「おい、お前怪我したのか? 血が出てるぞ」

「……嘘」

 リオンは余裕のない眼差しで俺を凝視して、呟いた。愕然とした様子で。怪我ではない。これだけ出血していて気づかないなんてことはないだろう。なら、もしかしたら――。

 こいつを海から引き上げたときのことを思い出す。俺はこいつにまとわりつく海水を洗い流して、着替えさせた。特殊な身体をしていることにはその時に気づいた。フォルマにおいて去勢は非合法だが、珍しくない。見目が良ければ尚の事。それ以上の処置を施されたのかと疑問に思う部分もあったが、追求するべきではないと判断した。出血の理由も、思い当たらないわけではない。だが、こいつは男の体で生まれたんじゃないのか? そうでないなら、あのとき目についたものは何だったんだ。

 俺も混乱した。どうしたらいい。家に連れて帰るか。いや、やはり病院に行ったほうが良いんじゃないかと、いよいよ呼吸もままならないほどに身悶え始めたリオンを見て迷う。病院は嫌だと頑なに主張したこいつの意思を尊重すべきだろうか。

「どうしたんだ?」

 聞き慣れた声に振り向けば、ディランが娘を抱きかかえて立っていた。俺は自分の頭に冷静さが戻ってくるのを感じた。そして決めた。

「病院に連れてく。これ、家に届けておいてくれ」

 俺は本をディランに託した。察しの良いこいつは、多くを話さなくとも状況を理解してくれることを俺は知っている。ディランは娘を下ろして、本を抱えた。そして娘の手を引きながら、立ち去りがてら言った。

「親父さんたちにも知らせておくからな」

「頼む。ほら、行くぞ」

 俺はリオンに声を掛けて、背負おうとした。だが思い留まる。腹痛なら、背が丸まっていた方が楽かもしれない。俺はまたリオンに向き直って、肩の下と膝裏に腕を回した。この状態から立ち上がろうとすると体幹が危ういが、なんとか抱え上げることができた。一度立ち上がってしまえれば、リオンは軽いし、大した負担ではない。

 ぐったりと首を重力に任せて、リオンは浅く早い呼吸を繰り返す。

「できるだけ深く息しとけ」

 俺は言って、幸いにもさほど遠くない場所にある病院に早足で向かった。


 八百年前のリーン教会跡に建つ聖ルドヴィコ病院は、既に通常の外来患者の診療を終えていた。玄関前の長椅子にリオンを横たえ、俺は閉じられた玄関の壁に取り付けられた急患を知らせる鐘を鳴らした。待ち時間がやたらと長く感じる。後ろの長椅子で呻くリオンを見て、もう一度鳴らした。

 二度目の鐘が鳴り終わる前に、扉の鍵が開く音がして、看護師が二人出てきた。俺が何か言う前に、二人は長椅子の上で苦しむリオンに気づいて、駆け寄った。俺も戻って様子を見る。

「分かりますか?」

 意識の有無を看護師が訊ねると、リオンはかろうじて頷いた。だが、名前が言えるかという質問には答えなかった。

 一人がリオンに付いて質問を重ねる間、もう一人は俺に事情を訊いてくる。

「お身内の方ですか」

「いや……、知り合いだ。一週間くらい家で世話してた。今日はエクアロを歩いてたんだが、ついさっき帰る途中で具合が悪くなったらしい。訊いたら腹が痛いようで……、血が出てる」

「出血? どこからですか」

「いや……、その……。見てもらえれば分かると思う。俺も確認したわけじゃないから」

 実際、確信がないのは事実だ。だが、仮にその予想が当たっている確証があったとしても、俺は言えなかったと思う。きっとこいつの名誉に関わるから。看護師はもう一人の看護師に状態を調べられているリオンを見て、また俺に向き直った。

「では、他になにか気になったことはありますか」

「四、五日前まで、よく目眩を起こして倒れてた。食欲も殆どなかったし。あとは……、光をやたら眩しがってたかな」

 看護師は上着から手帳を取り出して、俺の言葉を書き留めていく。今の状態とどこまで関係があるのか分からないから、思いつく限りを伝えておく。

「ここ三日ほどは安定していたんですか?」

「そう見えた」

「お薬は使っていましたか」

「らしい。だが何ていう薬かは教えられてない。今は不要だって言ってたから」

 看護師はとりあえず訊きたいことを訊けたのか、手帳を仕舞った。

「お知り合いの方の身分証がどちらにあるか、ご存知ですか」

「そのことなんだが……」

 俺はなんと説明したものか迷った。官憲に取り次いでいなかったのが、こんなところで裏目に出るとは思わなかった。親父あたりに保証人になってもらって、さっさと仮の身分証を発行してもらっていればよかった……、なんてことを、今更後悔したところでどうにもならない。

「実は、そいつ帝国籍証を持ってないようなんだ。紛失したのかも知れないが、どこから来たのか訊いても答えない」

「では、官憲に確認します」

「いや、届け出してないんだ。確認してもらってもいいが……。本人が嫌がったんで、もう少し落ち着いたらと思ったんだ。たぶん、どこかから逃げてきたんじゃないかって。仮にそうだったとして捜索届けでも出ていたら、本人にとっては面倒だろう」

 こちらにも相応の理由がある事を説明しなければ、罪に問われかねない。看護師は難しげな顔をして、悩む様子を見せた。

「……帝国籍を証明できないとなると、処置費用が嵩みます」

「たぶん、それは何とかなると思う。金は持ってるから」

 リオンに付いていた看護師が血相を変え、早口でこちらに言った。

「つい先日まで、ハーワサーを使用していたと!」

 俺と話していた看護師は、それを聞いて驚愕したようだった。

「ハーワサー? ずっと? まさか、それを急に止めたんですか」

「そのようです」

 看護師は二人でリオンのところに行って、細い身体を持ち上げて院内へと運ぶ。俺は付いていきながら、『ハーワサー』についての知識を記憶の中から探した。

 たしか、ヴェヴァールの実と樹皮、乾燥させたガナスの葉を調合して焚く、強力な鎮痛作用をもらたす古来からの薬だ。だが、あらゆる知覚を鈍麻にさせ、あらゆる臓器を含む身体機能を衰えさせる。長期に渡る使用ならなおさら、急な中断は心肺を停止させかねない。外科処置のために使われることもあったようだが、ファーリーンやフォルマでは戦の前に――特に不利な側の――兵士らがその煙を吸い、感覚を麻痺させて死戦に挑んだとも言う。だが、帝国では随分前に使用禁止になったはずだ。少なくとも表面的には流通していないが、フォルマではまだ使われているのか。

 光を眩しがっていたのはハーワサーのせいだろうと、俺はようやく合点がいった。

 リオンが医者の診察を受けている間、俺は長椅子の並ぶホールで待っていた。この病院には子供の頃世話になった。ほとんど病室に閉じ込められていたんで、この辺りの光景が記憶に残っていないのは当然かもしれない。その後、大きな怪我も病気もせずに来たから、あれきりだ。一年以上入院していたから、八年ぶりくらいか。いずれにせよ、八年経てば多少は内装も変わっているだろう。

 俺が負った怪我は大層なものだったらしいが、それでも半年あれば十分に治っていたんじゃないかと思う。結局、俺がそれよりも長くここに留まることになったのは、精神の負傷が大きかったからだ。だが、もうその傷も消えた。記憶ごと綺麗に。これが『癒えた』と言えるのか、俺は分からなかった。思い出そうとしなければ何てことはない。だが、当時の抜けた記憶について探ろうとすると、苦しくなる。ならば、これは『癒えた』とは言えない状態なのだろうか。

 いや、思い出そうとしなければいいだけだ。誰にも求められてはいないのだから。

 リオンの診察は長引いた。やがて親父とマリアがやってきて、少し置いて病院が呼んだらしい官憲も来た。俺は事情を説明した。親父と馴染みのある官憲は、身元不明者をすぐに報告しなかった事に対し、口頭での注意に留めてくれた。官憲側としても、リオンの身元確認は難しいだろう。なんせフォルマから流れてきたんだから。だが、俺の口からフォルマの名は一切出さなかったし、本名――向こうで呼ばれていたのであろう名も、俺はたぶん知っているが、言わなかった。名前も年齢も出身地も不明の人間だ。身分証は仮のものしか発行ができないが、無いよりは都合がいい。そのために、親父は『リオンに関わる責任の全てを負う』という書類に迷いなく署名した。たぶん、俺を見つけた時と同じように。

 そうこうしている間に、医者が来た。リオンには暫くの入院が必要とのことだった。

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