第三章
第三章 1
朦朧とする意識の中で、身体を調べられた。医者がどんな反応をしているのか、気に掛ける余裕もなかった。
いっそ気を失えれば楽なのに、痛みがそれを許してくれない。こういうときばかりは、今すぐに腹を捌いて取り出してくれと願ってしまう。けれど、そんなものはいっときの感情だ。いつも、後になってそのように考えたことを後悔する。
幾分か蘇った感情を再び殺されるのが恐ろしくて、あんな薬はもう二度と使いたくはないと思っていた。だが、痛みにのたうつこともできない状況に陥れば切実に求めてしまうのだから、僕の意志なんて所詮そんなものなのだ。曖昧。それがどうしようもなく嫌だった。
大窓から海が望める病室で目覚めたとき、痛みはなかった。身に纏っていたのは空色の長衣。せっかく買った服を汚してしまった。純白に沈着した血の色は消えないだろう。わりと、気に入っていたのに。
水平線から昇ってきたばかりの陽光にきらめく海を眺める。人の気配は遠い。街はまだ目覚めきっていないらしい。
部屋の扉が開く音がしたから、そちらへ目をやった。レナートが静かに、気配を消すようにして入ってくる。その腕には数冊の本が抱えられている。落ちた視力でも、それらが僕が買った本だということは分かった。
「おっと、起きてたのか」
まだ僕が眠っていると思っていたのだろう。もう目覚めていると分かった彼は、気配を消す努力をやめて寝台の近くまで潔く歩いてきた。そして、僕の手が届く台に本を置いた。一番上に、他よりも薄く小さい本が乗っている。題字は『メレーの子』。
「しばらく入院なんだってな。どうだ、具合は?」
「……どこまで聞いたの」
僕は訊ねた。ここまで僕を運んだのは彼だ。医者は僕の身体を調べて分かったことを、話したかもしれない。元から僕がおかしな身体をしていることは知っていただろうけれど、実際のところ、彼がそれをどのように解釈しているのかも、どこまで理解しているのかも分からなかった。それを確かめる勇気もなかったし、必要性も感じなかった。触れてこないのなら、こちらから話そうとも思わない。けれど、なんだか今ばかりは気に掛かって仕方がなかった。
「いや、入院が必要だってことと、内臓が痙攣してるから止めたってことしか聞いてねえぞ。身内じゃねえからな。細かいことは説明されない」
どの臓器かなんて、僕には分かりきっている。この国の技術なら、動き自体を止めてしまうことができるのだという事実への驚きを凌ぐのは、その『臓器』が何なのか、果たしてレナートも分かっているのかどうかという不安だった。そう、不安だ。彼が僕にとってどうでもいい人間なら、どう思われたところで気になんてならないのだ。僕はそれを知っている。
僕が返答に満足しきっていないことを、多分彼は分かっている。入院中の暇つぶしにと持ってきてくれたのであろう本を手にとって眺めながら、こちらの様子を伺っていた。
「……まあ、俺とか他の奴らがどうとか、余計な心配はするなよ。話したくなけりゃそれでいいし、話して気楽になるなら言えばいいし。どっちにしろ、医者から俺がお前についての説明を受けることはないからな。お前がなにか言わない限りは、俺も別に触れねえだろうよ」
レナートは僕をちらと見て、また本に視線を戻した。また少しの沈黙があって、彼は本を閉じて台に置いた。彼は改まった感じで僕を見下ろして、言った。
「分かった。じゃあ、はっきり言うさ。俺はお前を引き上げて着替えさせたときに、お前の体を見たよ。俺はその時に、お前は大方去勢された男だろうって思った。けど、実際のところはそうじゃねえんだろうって今は思ってる。じゃあ、その『実際のところ』がどういうものなのかは、お前の話を聞かなきゃ分からねえだろうけどな」
僕は異様な生き物だ。いや、生き物として大きな欠陥を抱えている。それを彼は初めから知っていたし、今回のことでより知った。けれども僕への態度は、これまでと変わった感じがない。
「俺にも勇気が要るんだぞ、どこまで知ってるって伝えるのは。こういうのは名誉に関わると思ってるからな。下手に踏み込めることじゃねえだろ」
「……気を使わせたね」
「大したことねえけど。まあ、気が向いたらお前も話せよな。気長に待ってるからさ」
心臓に杭でも打たれたような衝撃があった。それは、ほんのわずかな痛みを伴うものだった。
「……そんなふうに言う人、いなかった」
「そうか?」
レナートにとっては、当然のように自然と出た言葉なのだろうか。誰も、勝手に暴こうとするか、憶測で架空の僕を作る。僕の意思など関係なく、大抵は貶めるためにそうする。
けれど、レナートはそうでないのか。彼にならば、話してもいいかもしれないと思った。けれど、それは今ではない。いつかだ。……本当に待っていてくれるのならば。
そうだ。彼みたいな人は、いなかった。
「手術をお勧めします」
入院から一週間、病室に来た担当医師は言った。帝国の……と言うよりも、アウリーの医療技術がフォルマよりも遥かに進んでいることを実感していたところだった。だが、やはり最終的に行き着くところは同じだったようだ。
微弱な電流を内臓に直接与えることで、大げさな収縮を繰り返す筋肉を小さな動きへと強制的に書き換えているらしい。魔道によって為せるわざだということは分かるが、その方面にはまるで疎い僕には仕組みなど分からない。ずっと、この処置を施していてくれればいいのに、なんて軽く考えてしまう。だが、実際はそんな単純な話でもないようだ。
「細胞が異常増殖し塊になっています。局所に留まってはいるようですが、現に症状が認められているのであれば……」
「全て?」
「摘出となれば、そうですね。先天的な形成不全ですし、今後機能することもありませんから」
要は、あっても邪魔なだけ、ということだ。大切に取っておいても意味はない。むしろ、不調や病の元にしかならない。別に、僕自身それを大切に思ってるわけではない。それでも無性に抵抗感が湧いてしまうのは、単に腹を切るのが怖いからなのだろうか。多分、この国の技術に任せれば、意識のない中で身体を切られても、そうそう死にはしないんだろう。けれど、僕はすぐには頷けなかった。
翌日から、医者や看護師とは別の人間がやって来るようになった。名乗られたが覚えなかった。その人は積まれた本から話題を広げようと努力していたけれど、僕はほとんど無視した。僕が手術を受けることを決心できるよう、導く役目を与えられた人らしい。何気なく会話しているようで、実際には僕の思考を読み取ろうとしている。それが分かるから、僕はその人に自分の目を見せないようにして、ほとんど体も動かさなかったし、声も出さなかった。
結局、その人も数日後には来なくなって、代わりにやってきた医者に手術を受けるよう念押しされた。
その後もレナートは病室に顔を出した。僕がこの国に合法的に居続けられるようにしてくれたセルジオさんも、二回ほど様子を見に来た。
ある日、見舞いに来てくれたマリアさんは、僕が汚した服を鞄から取り出して、広げて見せた。
「どう? 隠れるようにしてみたんだけど」
僕は実際のところ、どのように新品の服を汚したのか分からなかったけれど、たぶん、腰や腿の辺りに色がついてしまったのだと思う。それを覆うように、胴回りの帯部分から垂れ幕のように下がっている空色の布は、店員に押し付けられるようでいて本心では気に入っていたその白色の長衣を、より僕好みに仕立て上げていた。
「ありがとうございます。忙しいだろうに」
「いいの。針仕事も結構好きだから、私。退院したら着てみて」
そう言って微笑み、彼女はその服を鞄に仕舞った。綺麗な人だと、改めて思った。この国の人にしては、化粧が薄い。灰みの強い薄薔薇色の透ける襟巻きがよく似合っている。彫りが深めで、背も高め。忙しく働く間に傷を付けてしまったのだろう手も、大きめ。決して逞しいわけではなく、むしろ細くて華奢だ。明るく温和な雰囲気の声は、深みを纏っている。
どことなくちぐはぐとした印象。それがより、彼女の大きな包容力のようなものを際立たせているようにも思える。
僕はしばらく、本を読んで過ごした。『メレーの子』も何度か読んで、その上で〈アルビオンの書〉も読みきった。結局、手術を受けるかどうかについて、僕は明確な返事をしなかった。けれど、いずれにせよハーワサーによって被った不調が回復するまでは、ここにいる必要がある。
ハーワサーを急にやめて、下手をすれば死ぬことは分かっていた。けれど、それでいいと思っていたから、レナートたちには言わなかった。元々、死ぬつもりだったのだから、ここに来て突然心臓が止まったとしても構わない。そう思っていたけれど、最近は少し楽しい。考え込むこともあるが、それは今に始まったことではない。レナートと街を歩いた日は、結局は嫌な感じで終わってしまったけれど、自分の脚で人の中を歩いて、物珍しいものを見て、自分の手持ちで買えるものを吟味して選ぶことは、楽しかった。与えられたものではなく、自分の感性が『良い』と感じた衣服を纏って、好きなように歩き回れることに幸せを感じた。また、あのようにできたらいいと思う。だから、今の僕は死ぬことに対して積極的な気持ちは抱いていない。
やがて、レナートたちはジュールで行う仕事のために出港した。アウリー王国に所属しながらも、自治を認められているクレス州の首都、ジュール。その名が、神話に登場するジュローラという街の名から来ていることは明らかで、その街は後にメリウス王が治めたクレス王国の首都となったらしい。通説では、一万年以上前に書かれたとされる〈アルビオンの書〉。そこに現れる名が、そのままの形で、或いは繋がりを感じさせるようにして現代まで残っているという事実は、興味深い。
どのようなところか、見てみたかった。けれど、流石に今の状態で『ついていきたい』なんて言えない。僕は病室から海を眺めて、島から離れていく船たちを見送っては、『彼らはあれに乗っているのだろうか。それとも、向こうの船だろうか』と、憧れのような、虚しさのような、得体の知れない気持ちを抱いてその日を過ごした。
翌日、また医者が念を押しに来た。僕は一晩、眠らずに考えた。そして、僕はまた逃げ出すことを選んだ。
僕はやっと分かったのだ。自分が変わってしまうことが怖いのだと。
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