第四章

第四章 1

 通常会話をするのは、黒色の頭髪を持つ研究職の者たちで、それも至って事務的な調整のため以外に関わりを持つことはない。稀に白銀の指導者階級の者が直接司令を言い渡しに来る。

 黒と白以外の人間とは、全くもって無縁だった。

 それは唐突な出来事であった。巨大な蒼の天蓋の向こうで荒ぶる空模様を目の当たりにしたことなどないが、もし迅雷が霹靂として天蓋を突き破り目前に降り立ったなら、この脳髄は同程度の危険信号を発し、それに伴い情動もまた揺れ動いたやもしれない。

 その者は黄金の髪を戴いていた。軍事司令者階級に属することを示す。

 かれには淡い感情があった。百年に及ぶ研究実験の末に、第一の試作品として形を成したこの身もまた、副次的にそれを備えていた。だが、かれは違う。非常に稀で、偶発的な現象の産物。変異体。

 変異体は失敗作であり、粛清対象となる。であるから、かれは永くそれを隠し生きてきた。

 どうか内密に留めてくれるよう懇願するかれの姿に、個としての生への渇望を見た。

 情動を司る脳の分野が、触発されたようだった。仲間の存在に安堵する心地とは、斯様なものであろうかと想像した。

 それはどうやら、あちらも同様であったらしい。監視の目を逃れながら密会し、互いの情感を打ち明け合えば、共感の喜びを知る。

 脳内に制御の効かない電流が生じる。眠らせていた細胞が、覚醒めはじめた。


     *


 ウェリアを発って約一週間、東に向かって船を進ませた。アウリー本土の南端に位置するクレス州は、王国に属しつつも共和制の自治を認められた特殊な場所だ。州都ジュールは、『メリウス王誕生の地』などと言われるが、実際のところ証拠はない。だが、少なくともこの国ができる以前から現在まで、ジュールがそのようにして存続しているという、歴史的根拠はある。一万年以上昔の神話時代に、この土地がどのようなものだったのかを確かめる術などないが、二千五百年ほども『ここがかつてのジュローラである』という信念のもとで、実際にそう在ってきたことは、説得力としては十分だろう。仮にここがかつてのジュローラではなかったとしても、今を生きる人間の大部分にとっては、『ジュールはかつてジュローラだった』ということにしておいたって、なんの不都合もない。

 俺は生まれて初めて、ジュールの地に足をつけた。アウリー人ならば、一度はこの地に立ってみたいと思うものらしいが、俺もずっと興味があった。

 さて、港から眺めた光景は王都にも劣らない。活気があり、古い建築があり、彼方の丘に建つのは王宮の規模をも凌ぐようなメレーの神殿だ。

 ちょうど正午になる頃だが、ウェリア島よりも熱気は落ち着いている。全体的に白い街並みと、快晴の空と輝く海の青は、清潔感を覚えさせる。道も綺麗だし、住民の殆どが、きっとこの街を美しく保つ努力をしているのだろう。『メリウス王誕生の地』、『メレー神殿の本拠』などといったものが、ジュールの人間に高貴な意識を持たせているのかもしれない。或いは、自治という特例を貰っている以上、風紀の乱れを生じさせるわけにはいかない、といったような思いもあるかもしれない。たぶん、その他にも色々あるんだろう。

 クレス州に君主はいないが、政治家の大部分は神官だ。有力な神官なら相応の発言力もある。アルベルティーニ家のような『神官一族』と呼ばれる家系は、『政治家一族』とも言える。神官長とは執政長でもある。人民を代表して神に仕え、神の恩恵を人民へ渡す、というのが彼らの信条らしい。現在、クレスは州としてアウリー王国に所属しているが、王がクレスの自治に直接干渉することはない。過去にはクレスも君主を戴いて独立していたことがあるものの、どうにも堕落がちになる。基本的には干渉されないが、いざとなれば自治権を取り上げられる、くらいの緊張感があったほうが、なにかと上手くいくらしい。難しい立場だとも言える。

 俺たちが目指すべきところは見えている。丘の上に見えるメレー神殿は目印だ。あの近くに、歴史あるメレーの神官一族アルベルティーニ家の邸宅があるらしい。港から少し街なかに入ると、噴水広場があって、そこで案内人と合流することになっているそうだ。

 俺はジュールの景観になんだか魅了されて、あっちこっちに目を向けながら、列の後ろの方を進んだ。建物の外壁の白さが眩しい。通りの幅は十分に広くて、日当たりも良い中央を、花壇が飾っている。これまた白やら、赤やら薄紅、黄色に空色……、そして葉の緑。花には詳しくないが、色鮮やかで目を引かれる。

 いつの間にやら待ち合わせ場所の広場に到着していたらしく、親父が迎えの人間と話し始めていた。

 さておいて、俺は巨大な噴水に目を奪われた。透明な水が、飛沫を上げて舞っている。精巧な彫刻は有名だから、俺も絵で見たことがある。だが、実物の迫力には圧倒された。厳めしい顔つきの海神ピトゥレーの広い右肩に座り、滑らかな腕を天へと掲げるのは美貌の半神メリウスだ。アルビオン神話において、メリウスが成した偉業は多い。だが、その中でも『荒神ピトゥレーとの和解』は、まさに神話的で、寓話的だ。海神と王の彫刻のためか、どうやらこの噴水に使われているのは海の水のようだ。磯の香りがする。

 ふと、案内人の男が俺を見ていることに気づいた。なんだか神妙そうな顔をしているんで、そちらに行ってみる。

「なあ親父。あの噴水、海水使ってる。よく劣化しねえよな」

「……親父?」

 何気なく親父の方に声を掛けたら、案内人の男がこれまた神妙そうに呟いた。なんだ? 何か変なところでもあるのか?

「おいレナ、神官様だぞ。挨拶しねえか」

 親父に言われて、改めて案内人の男を見たら、なんだ、確かにメレーの神官服らしきものを着ている。

「ああ、どうも」

 俺は適当な挨拶をした。今更畏まるのも変な感じがしたし、第一に俺はジュールの人間でもなければ、熱心にメレーを信仰しているわけでもない。親父は畏まってほしかったのか、なんだか不服そうだったが。

「……君の子かね」

「書類上はな。実子じゃあねえよ。海で拾ったんでな」

「う、海で……」

 神官様の顔が青くなるのが目に見えて分かる。何だって言うんだ。……と、あれ? どうも親父はこの神官様と随分親しげじゃないか? 大学時代の友人が一人、ジュールの神官だというのは聞いている。その一人ってのはアルベルティーニの当主だっていう話だ。この神官様の年齢は、見たところ親父と同じくらいかもしれない。親父よりも若々しく見えるが、そもそも親父が老けてるんで。となると、当主自ら案内のために出てきたってことか? いや、待て。さすがにあの挨拶はメレーの神官長様にするにはいい加減すぎた。

「すみません、神官長様でいらっしゃいましたか? 失礼いたしました。レナートと申します。セルジオの調査隊では若輩の者ですが、この度は尽力させていただきます」

 俺は真っ当に思われるよう、挨拶をし直した。親父の教育の仕方に問題があったみたいに思われたら嫌だ。手遅れかも知れないが、やらないよりはマシだろう。

「レナート君……か。うむ、そうか……。うむ……、よろしく頼むよ……」

 やっぱりどうも、神官長様の顔は青い。というか、時化た空みたいな色だ。大丈夫なのか?

「さっきから具合が悪そうだな。テオよ、休んでるのか?」

 俺の予想は当たっていたみたいだ。アルベルティーニの現当主はテオドーロだから、この人が神官長様で間違いない。しかし、この顔色は俺が見ても不安になるくらいだから、旧友の親父はそりゃあ心配するだろう。神官長というのは忙しいらしいが、無理して出迎えに来てくれたのかもしれない。

「いや、大丈夫だ。気にしないでくれ。馬車を用意してあるから、どうぞ」

 神官長様はそう言って、広場の端の方に停めてある数台の馬車を示した。一台に四人は乗れそうだ。親父は適当に振り分けたが、一人余ってしまったので、俺は神官長様と親父と一緒の馬車に乗り込むことになった。馬車はなめらかに舗装された道を、アルベルティーニの邸宅を目指して進みだした。

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