3.
「昨日、生意気な事、言って申し訳ありませんでした」
アメリカオオアカイカの加工室に居るのは、石上さんだろう。
早速、入室して、石上さんに詫びた。
「あっ。ごめんなさい。間違えました」
石上さんだと思ったが、人違いだった。
人違いした相手から、石上さんは、ホタテの貝柱の加工室だ。と聞いて、窓から覗いた。
「秋山さん」
誰かに呼ばれた。
振り向くと、やはり、誰かだ。
その誰かが、マスクを外した。
石上さんだ。
「お疲れさまです」
秋山が挨拶した。
石上さんが、加工室へ入っていった。
秋山は、先程と同じ文言で、詫びながら、加工室へ入室した。
石上さんは、了解したと、二度頷いて、作業を始めた。
あっ!
思い出した。
最初に見た時と、〆鯖を切った時と何か違うと思った。
包丁だ。
事業所には、備品の包丁がある。
しかし、石上さんの使用している包丁は、備品とは違う出刃包丁だ。
形状は、同じだが、柄が違う。
備品の包丁の柄は、プラスチックだ。
石上さんの使用していた包丁の柄は、木製だった。
〆鯖を切った時は、包丁の柄は、白いプラスチックの包丁だ。
つまり、〆鯖を切った時は、備品の包丁だった。
今、加工室で、石上さんが握っている包丁は、木製の柄だ。
道具一つで、これだけ印象が違うのか。
退室しようとして、出口付近に、棚一杯になったカートに気付いた。
黙って、カートを押して退室した。
あれ?
ホタテの貝柱の加工室から出てすぐの場所に金属探知機がある。
塩出事業所で、初めて勤務した時は、沢山の検査異常品が冷凍ケース棚に置いてあった。
再び勤務する事になって、カート運びは、お役御免になっていた。
代わりに、金属探知機の係に追いやられた。
午前中、秋山が、金属探知機で、仕掛品を検査しても、一品も異常探知ブザーは、鳴らない。
「だめ、だめ。触るな!」
所長が慌てて、怒鳴った。
「秋山さん。カートは、運ばなくても良いですよ」
丁寧に云い直した。
近くに居た作業員にカートを渡した。
敬遠されている。
意気消沈し、喫煙室へ向かった。
喫煙室の壁のフックに、エプロンや作業衣が、二式、掛けられている。
二人、サボっている。という事だ。
ドアの窓から覗くと、龍治が居た。
入ると、もう一人は、女性だった。
「お疲れさまです」
そう云って、パイプ椅子に腰掛けた。
煙草の煙と一緒に、ため息が出た。
「仕事、させてもらえんのやな」
龍治が、優しく嫌味を云った。
「そうなんや。一体、何しに来とんやろ」
秋山は、愚痴を云った。
「良いやないですか。それで、カネになるんやったら」
女性は、秋山を慰めたのか、嫌味を云ったのか。
「いや、でも、申し訳ないし」
秋山は真面目に云った。
「けど、舌は確か、かもしれんなあ」
女性は、煙草に火を点けた。
「いや。あんまり、良く、分からんのやけど」
秋山は、照れて云うと、気付いた。
〆鯖の試食の時、一緒に居た女性だ。
「龍治は、あんなんで旨い。ちょったなあ。どんな舌、しとんかいな」
女性は、龍治を貶した。
龍治は、憮然としている。
「奥田さんとは、親しかったん?」
女性が龍治に尋ねた。
「知っとるやろ。儂らは、栗林や」
龍治が答えた。
「秋山さんは、奥田さん、知っとるやろ」
女性が秋山に尋ねた。
「いやあ。一日でクビになったから」
秋山は、悪びれずに答えた。
カートをひっくり返したと説明した。
「プッ!それで金属探知機の係に、されたんやな」
女性が失笑して、云った。
元々、金属探知機の係、というものはない。
各加工室の誰かが、状況に応じて分担している。
「ちょっと、気になる事があるんや」
秋山は、思い切って、二人に云った。
「最初に来た時は、沢山、検査異常品が、あったんやけどなあ」
大量に検査異常品の冷凍ケースに入っていた。
秋山が金属探知機を操作しても、百回に一回、ブザーが鳴るか鳴らないか程度だ。
今日、午前中、検査しても、全く異常品が無い。
何か、操作を間違えていないのか、不安だ。と相談した。
「そない言うたら、儂が来とった時も多かったなぁ」
龍治も思い出したようだ。
女性は、「奥田さんと、同じ加工室で居たんやろ」秋山に云った。「何か、変やな、と思った事、無い?」更に尋ねた。
「何か、奥田さんの事、気になるんですね」
この女性のは、何が云いたいのか。
女性が、少し考えて、秋山に云った。
「ちょっと、私、所長に言うて、聞いてみるわ」
女性は、急いで、煙草の火を消した。
「あんまり、サボったらいかんで」
そう云って、喫煙室から出て行った。
「あの女、よう分からんのや」
龍治が云った。
名前は、西野陽子。
年齢は、秘密だそうだ。
龍治は、花宮水産でアルバイトをしている。
アルバイトをしているのは、栗林本部だ。
花宮水産の栗林本部には、加工場は無い。
加工原材料の冷凍倉庫と事務所がある。
各加工事業所からの発注を受けて、原材料の手配をする。
龍治は、栗林本部で、西野さんと一緒に、作業をした事がある。
西野さんは、長期に人員が不足した場合に、その補充で出向いている。
普段は、入荷した原材料を冷凍倉庫へ運び込んだり、事業所へ原材料を発送する準備をしている。
龍治と同じくアルバイトだ。
西野さんは、同僚とお喋りはするが、自分の事を話す事は無いそうだ。
奥田さんを殺害した犯人は、まだ捕まっていない。
あの日、携帯には、午後六時過ぎに、梶浦から着信があり、応答している。
それ以外、その夜には、発信も着信も無い。
人気の無い参道を、一人で歩いていた。
通り魔による、行きずりの犯行なのか。
「奥田さんは、何で、そんなとこ、行ったんかな」
秋山は不思議に思った。
「お参りかもしれんな」
龍治が云った。
「夜の八時にか?」
秋山は否定した。
「おう。東鴨神社やないけど、時々、漁港や緑地公園で見掛けた。ちゅうて、所長が言うてた」
龍治か云った。
いつ、所長と話しをしたのか。
漁港の奥の駐車場と緑地公園の駐車場だ。
「夜の八時にか?」
今度は、確認で問うた。
「そうや」
龍治は答える。
「婚約者の、何とかさんに、呼び出されたんかな」
秋山は、梶浦とデートの待ち合わせだと思った。
「いや」
龍治が、これも所長から聞いていた。
警察も、奥田さんは、梶浦と待ち合わせをしていたのではないか。と考えたようだ。
しかし、その日、梶浦は、弥勒市のアパートにいた。
中学時代の同級生三人と、午後七時頃から部屋で飲んでいた。
アパートから、一歩も出ていないという事だった。
二人の結婚は、決まっているし、わざわざ、そんな寂しい場所で、こそこそ待ち合わせる必要がない。
梶浦では無いとすると、誰が呼び出したのか。
職場の誰かに、呼び出されたのか。
作業中に、会話をするとすれば、松本さんか石上さんだ。
奥田さんは、昼休みに、マンションへ行って、昼食を摂り、部屋の片付けをしている。
加工室の同僚以外と、会話をする機会は無い。
奥田さんが、最後に会話を交わしたのは、先輩の松本博子さんだ。
「帰りに、あの人に、話しを聞いてみようか」
秋山が独り言のように云った。
「松本さんか?」
龍治が聞いた。
「いや。西野さんや」
秋山が答えた。
「何でや?愛の告白か?」
龍治は、ふざけて云った。
秋山は、西野さんが、何か、情報を握っていると思った。
「残念やけど、西野は、今日、昼迄や。ここへ来るんも、今日迄やしな」
龍治が云った。
「そうなんか。もう一遍、話したかったんやけど。龍治が、思うとる事とは、別の意味で」
秋山は、龍治の冗談を先回りして否定した。
「浮気したら、景子さんに、追い出されるぞ」
龍治がまた、ふざけた。
喫煙室から出て金属探知機へ向かった。
後ろから、所長に呼び止められた。
所長に付いて、事務所へ入った。
秋山は、所長から、原材料入荷リストと、製品出荷リストを見せられた。
西野さんの仕業か?
秋山は資料を見た。
ああ。成程。
どうやら、金属探知機の係も、お役御免になるようだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます