どこへ越しても

真島 タカシ

1.

ああっ!

もう遅かった。

トレーの転がる、大きな音が響いた。

所長も目を剥いている。

驚いて、大きく口を開けたままだ。


「こらあ!!」

所長が、我に返って怒鳴った。

その声に反応して、周囲にいた作業員が、周囲に散乱したトレーとホタテの貝柱を片付け始めた。


「ごめんなさい」

謝って、片付け始めた。

食品加工場の一室で、ホタテの貝柱を二枚にスライスしている。

作業員は、二十代の女性二名と四十代の男性一名だ。

スライスしたホタテの貝柱をトレーに並べる。

トレーの全面いっぱいに、スライスした貝柱を敷き詰めて、カートに載せる。

そして、またトレーを一枚準備する。

また、作業員が、スライスした貝柱をトレーに敷き詰める。

カートには、十段の棚がある。

全段に貝柱のトレーが揃うと、加工室から冷凍室へ運ぶ。

フロアの壁に、冷凍室の扉が二つある。

加工品によって右側か左側か、冷凍室が決まっている。

ホタテの貝柱は、向かって右側だ。

冷凍室の入口の敷居は、床から十センチ程高い。

だから、床から敷居まで、板を掛けて、坂になっている。

カートを押して坂を上る。

カートを冷凍室まで運んでいた。

坂を上り詰めた所の、僅かな段差で、キャスターの方向がずれた。

それで、バランスを崩したのだ。


塩出市に花宮水産の加工工場がある。

そこの従業員の家族が、新型コロナ陽性になった。

家族は、弥勒総合病院に入院した。

従業員のPCR検査結果は、陰性だった。

しかし、濃厚接触者である従業員は、十日間の自宅隔離になっている。

塩出事業所全員のPCR検査を実施した。

しかし、塩出事業所の従業員で陽性者は確認されなかった。

塩出事業所は、二日間、操業を中止し、従業員は自宅待機になった。

会社は、塩出事業所を消毒した。


突然の事で、人員が足りない。

「何でもするゾウ」の寺井社長へ、花宮水産の社長から、依頼があった。

「何でもするゾウ」は、寺井社長が立ち上げた、何でも屋だ。

元々は、寺井社長が、寺井物産という水産加工会社を経営していた。

神戸の花宮水産が出資して、設立した会社だ。

事情があって、寺井社長は、経営を退いた。

実は、寺井社長は、大内病院の副院長と結婚して、大内冴子となっている。

しかし、今も寺井社長は、寺井冴子と名乗っている。


当初、花宮水産の手伝には、社員の龍治を手配していた。

「何でもするゾウ」は、元々、花宮水産の配送部を分割して、分社した会社だ。

ちょうど、寺井冴子さんが、暇をもて余していた頃だ。

花宮社長が声を掛けて、寺井冴子が社長に就いた。

当初は、殆んど、花宮水産の配送が、主な仕事だった。

花宮社長も龍治の事は、良く知っている。

龍治は、体格が良く、力仕事に向いている。

しかし、今回、力仕事では無い。

じっと、作業が終わるのを待って、仕掛品を処理するだけだ。

それで、龍治が渋った。

急遽、秋山が、花宮水産へ入る事になった。

しかし、初日から失敗を仕出かした。

そして、栗林本部の本部長から、龍治を指名された。


二日後、龍治もお払い箱になった。

花宮水産で、人員を調整したのだった。


だから、龍治は、秋山と一緒に、急遽入った、引越作業に入る事になった。

場所は、県の西に位置する西豊町。

事前の打ち合わせは、午前十時の約束だった。

午前八時半に事務所を出発した。

打ち合わせ場所は、弥勒駅前の「ゼウス」という喫茶店だ。


「ああ。龍治さん。こっち」

店に入ると、男が手を上げて、席へ招いた。

「知り合い?」

秋山は、龍治に尋ねた。

龍治は、秋山の問いを無視して男の席へ向かった。

「ご無沙汰してます」

男が龍治に云った。

「カジちゃん、か」

秋山は、龍治の後に付いて行った。

「梶浦ちゅうて聞いてたけど、お前やったんか」龍治は、親しそうに云って「あっ!」慌てている。

「大丈夫です。僕は、感染してません」

梶浦が云った。

「どういう事や」

龍治が尋ねると梶浦が説明を始めた。


梶浦は、高校を卒業して花宮水産に入社した。

まだ、龍治も花宮水産に勤めていた。

梶浦の両親が、新型コロナに感染した。

梶浦は、会社に提出している書類上、両親と同居になっている。

今更云えない。

だから、自宅待機になった。

しかし、本当は、弥勒市のアパートで、一人暮らしをしている。

そして、この十月に、結婚が決まっている。

「相手は、どんな人や?」

龍治が、冷やかしもせず、真面目に尋ねた。

「奥田さん。奥田仁美さんです」

龍治は、知っているみたいだ。


弥勒市の隣、西豊町は、小さな町だ。

その町で、初めて新型コロナに感染した両親は、偏見の眼差しで見られた。

町で居づらくなった。

新型コロナから回復次第、大阪の梶浦の兄の家へ、引越す事になった。


一向に、引越の打ち合わせにならない。

秋山は、完全に蚊帳の外だ。


梶浦の携帯に、着信音がした。

梶浦は、席を外した。

携帯に出て、「ええっ!」大声で驚いた。

周りのお客さんが、皆、見ている。

龍治が梶浦に近付いて、「どうかしたんか?」と、尋ねた。

「仁美さんが死んだ」

梶浦が云った。

呆然としている。

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