◇因果鉄道は遥かなり

 覆水ふくすいと親不孝者は ぼんにかえらない――


 モモコ婆さんの家のとこには、こんな掛け軸が古めかしい隷書れいしよ体で書かれて飾られている。


 これはなんですかと尋ねてみたら、


「意味なんてありませんわ。ただ面白いから書いてみましたのよ」とだけ返ってきた。


「おあつうございますねぇ。お水を差し上げましょうね」


 そう言って台所へ向かい、コップ一杯の水を盆にのせて戻ってきた。

 モモコ婆さんの家でもらう水はよく冷えていて旨いと近所でも評判だ。

 なので筆者もありがたく頂くことにする。ちなみにこれはどこの水なのですか、と問うと、


「うちの水ですわ。裏庭の井戸から汲み上げていますの」


 なるほど、井戸ですか。

 今時珍しい……そう思いながらまた一口、喉をうるおした。

 夏冬問わず摂氏十五度に保たれた井戸の水は格別だ。汗が引いていく心持ちがした。



「……わたくしが小さい時分には、まだ水道の蛇口だけが残っている空き地というのが、それこそあちこちにあったものです」


 唐突に昔話が始まった。しばし耳を傾ける。

 蛇口とは何か、と問われて今の御時世ごじせいにピンとくる読者は、まぁ、いまい。


 かつて我が国では水道から直接、水が飲めた時代があった。

 蛇口とは、その水道管の出口であり、そこにとりつける水栓を指す言葉だったのだ。



 蛇口の語源を調べてみると、我が国の近代水道普及の初期――

 公共水飲み場の水栓デザインに、生物としての蛇がもちいられたことに由来するとある。元々は水の化身でもある龍から転じたのだと聞きかじった。


 言われてみればさもありなん。

 ヨーロッパでは水の出口に獅子の顔の彫金などを使っていたというから、それにあやかったのだろう。いまでも、観光地などへ行くと温泉の湯が獅子の口から湧き出ているのはその名残というわけだ。


 なので、シンガポールの象徴でもあるマーライオン――口から大量の水を噴出するあの像も、言ってみれば巨大な蛇口にほかならないというわけである。



「昔はどこの公園にも、それこそ駅にすら水飲み場がありましたねぇ」


 モモコ婆さんは遠い目をして幼少期を語る。

 ああ、公共施設から水飲み場が姿を消したのはいつ頃の話だろう。一部保護されているから絶滅はしていないはずだが、今では滅多に見かけなくなった。


 どこの誰が口をつけたのかもわからぬ蛇口で水を飲むという図式は、正直気持ちの良いものではない。不衛生だ。生の水なんてカルキ臭くて飲めやしない。その証拠に、ほら、「水臭い」なんて言葉もあるではないか……。


 今では当たり前の感覚だが、かつてはそれを気にしなかったというから驚きである。



「水というのは飲むものであると同時に、撒くものであり、そしてむけるものでした――」


 モモコ婆さんは続けた。



 そう、という言葉は今でも残っている。


「若い人たちの中には、水ってむけるんですか? どうやってむくんですか? バナナの皮と同じですか? なんて聞きにくる方もおられますのよ。愚かものめら。そんなやからは見れども見えずの口ですわ……」


 そう言って静かに笑った。

 モモコ婆さんの口は、時折かなり悪い。



「まぁ、そういうわけで『ただの水』というものは社会からひたすら弾圧・駆逐されていったのですよ。『ただの水』は臭い。『ただの水』は不衛生。『ただの水』を飲むと病気になる。『ただの水』を飲むやつは人非人にんぴにんだ――」


 そこまで行くと、もはや別の病気を疑った方がいいような気もするが、その声が次第にエスカレートしていくことになったのは、確かに有名な話ではあった。



「当時の学校なんかは対応に追われて大変でしたわねぇ」


 水道の水を飲む子どもは、速攻でいじめのターゲットとなった。

 大人の社会ですらそうだったのだから、もはや歯止めをかけることはできなかった。


 水カーストという言葉もこのとき生まれた。

 まさに、人はミズからの出自で社会的ステータスを勝ち得るものとそうでないものとに大別されていったのである。



「いずれせよ、寂しい世の中でございますよ」


 モモコ婆さんがそう言ったとき、縁側の風鈴がチリーンと鳴った。

 それが無辺への切符だった。

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