そのスライムは悪である

甘栗ののね

哀れな男

 哀れな男が死んだ。男は異世界からの転移者だった。


 男はある夜、駅の階段で足を滑らせた。そして、気が付くと森の中にいた。


 哀れな男だった。彼は一人森を彷徨い、時折聞こえる獣の声に怯え、冷たい雨に打たれて小さな洞窟に逃げ込んだ。


 寒さと心細さに震え、不安と恐怖にさいなまれ、男は身を縮めて嘆いていた。


 そんな男のもとに一匹のスライムが現れた。大人の頭部ほどの大きさのぷにぷにとした柔らかいグミのような青いスライムだった。


 男は初めて見る魔物に驚き怯えた。しかし、そのスライムが何もしてこないことを知るとそれほど怖くはなくなった。


 いや、むしろ救われたような気がした。


「……お前も、ひとりなのか?」


 突然、知らない場所に放り出された男は寂しくて仕方がなかった。行く当てもなく、どうすればいいのかもわからず、途方に暮れていた男にとってスライムという魔物でさえも嬉しい存在だった。


 一人ではない。そう思えたからだ。


 男は突然現れたスライムに話しかけた。自分のこと、仕事のこと、家族や友人のこと。


 返事はなかった。スライムは言葉を話すことも表情を変えることもなかった。


 それでも男は話しかけていた。そうしないと心が潰れてしまいそうだったからだ。


「なんで、こんなことになっちゃったのかな……」


 男は泣いた。辛くて、苦しくて、もう助からないかもしれないという絶望の中で泣いた。


 そんな男をスライムは何も言わずに眺めていた。


 男は哀れだった。両親は不仲でいつもケンカばかりを繰り返し、そんな居心地の悪い家から早く出たいと高卒で就職したはいいが職場では同僚にも上司にも恵まれず、かといって実家に帰ることもできず、辛くても苦しくても一人で耐えてきた。


 駅の階段を踏み外したのも仕事が原因だった。毎日終電間際まで仕事をし、ろくに休むこともなく始発から仕事場へ向かう日々が続き、男は限界だったのだ。


 階段から落ちたその日も朝から上司に怒鳴られ、なじられ、罵られた。無能、役立たず、給料泥棒と罵倒され、だから高卒はと学歴での差別もされた。


 男の同僚も似たようなものだった。同僚たちは男に仕事を押し付け、同僚たちが犯したミスをなすりつけられ、そんな風に押し付けられた膨大な仕事を男は毎日こなしていた。


 男は疲れ切っていた。何度も自殺を考えた。


「よかったのかな、これで……」


 男は真っ暗な瞳で洞窟の外に降り続く雨を眺めていた。


 そんな哀れな男が、死んだ。


「ここでこうしていても仕方ない。……お前も来るか?」


 洞窟で数日を過ごした男は雨が止んだことを確認すると洞窟の外へ出た。どうにか人の暮らす場所へと辿り着けないかと考えたのだ。


 そして、死んだ。あっけない終わりだった。


 男は洞窟を出て森の中を進んでいった。その途中、大型の魔物と遭遇してしまった。


 男は必死に逃げた。逃げて、逃げて、木の根に足を取られて転んでも、木の枝に体や頬を切られても、とにかく逃げた。


 そして、崖から落ちた。崖から転げ落ち、首の骨を折って男は死んだ。


 そんな哀れな男の死体をスライムは眺めていた。曲がってはいけない方向に首が曲がった男の死体の側で、じっと死んだ男を眺めていた。


 一度止んだ雨が再び降り始めた。男の死体に雨が降り注ぐ。


 雨の中、スライムが死んだ男を眺めていた。だが、憐れんでいたわけではない。そもそも、スライムに感情などはない。


 スライムが男と出会ったのも偶然ではなかった。食べ物のにおいに引かれたからだ。男のカバンに入っていた携帯食料のにおいに引きつけられたのだ。


 スライムは死んだ男をしばらく眺めていた。そして、危険がないことを確認すると、男を喰い始めた。


 死体を頭から飲み込み、ゆっくりと、ゆっくりと溶かしていく。肉も骨も、身に着けていた衣服もすべて溶かし、体の中に取り込んでいく。


 しかし、変化はなかった。男の死体を食べ切ったスライムに変化は見られなかった。


 次にスライムは男が持っていたカバンを飲み込んだ。男が仕事で使う資料やノートパソコンやスマートフォンが入った黒いカバンだ。


 もちろんスライムはカバンの中身など知らないし気にもしない。スライムは雑食で、死体でも雑草でも石でもゴミでもなんでも食べる。


 それはいつもの行動だった。食べたいから食べる。それだけだった。


 何も考えていない。スライムには感情も自我も知性もない。最弱の魔物で、火に弱く、電撃にも弱く、冷気や熱気にも弱く、心臓部である『コア』を破壊されれば融けて消えてしまう脆弱な魔物だ。


 そんな最弱の魔物であるスライムに変化が起きた。男の持っていたカバンを喰ったスライムの体が光り始めたのである。


 そして、声を聞いた。


『“ネットワーク”に接続します』


 どこからともなく声が聞こえてきた。スライムはその声が何なのか理解できなかった。


 そう『理解』できなかったのだ。そのスライムには理解できないと理解するだけの知性が芽生え始めていたのだ。


『ネットワークの利用にはユーザー登録が必要です。登録モードへ移行します』


 脳を持たないスライムには当然記憶という物もない。ただ周囲の物を食べ、生命を維持するだけの単純な存在である。


 当然、名前などもない。


『お名前は?』


 謎の声に名前をたずねられた。しかし、スライムは名前など持ってはいない。


 しかし、スライムは名乗った。


「スドウ、ケイ」


 スドウケイ。スライムはそう名乗った。


『登録しました。以下、自動入力を開始します』


 謎の声はそう告げると名前以外の情報を入力していった。


 そして、最後に謎の声は確認する。


『以上でよろしいでしょうか?』


 スライムはその声にこう答えた。


「問題ない」

『承知しました。ユーザー登録を完了します』


 そのスライム、『スドウケイ』はうなずいた。そんなスライムに謎の声はこう告げた。


『ようこそ“アストラルネット”へ』


 その日、一人の哀れな男が死んだ。


 そして、その男を喰ったスライムに知性が目覚めた。


 時折、世界には不思議なことが起こる。突然、世界が変わることもある。


 これはその始まりだったのかもしれない。

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そのスライムは悪である 甘栗ののね @nononem

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